« poem(43) | Main | 「SINGLES BAR」とスタバ »

2006.04.16

デモやストなんてない方がいい

 関口宏のサンデーモーニングを見ていたら、
「昔は、「メーデー」とかにもっと盛り上がったし、安保闘争なんてのもあったのに、今はちっともそういうのがなくなった。今の日本はだめだ」
 みたいなことをやってました。
「普通の人が世の中を変えられるようにならなければ」
 だって。
 
 テレビのスタジオに座って、いい服着てる人間が何を言うやらです。
 座り込みだって、デモだって、ストだって、やったことあるんですか、あなたたち。
 フランスの運動のことを言ってたし、韓国のことも言ってたけど・・・そして昔の安保闘争も同じだけど、警官とデモ隊が衝突して、けが人だって、下手すりゃ死人だって出るのに、それを礼賛するとは何事か。

 もちろん、今の政治が100%うまくいってるなんて誰も思ってはいないでしょう。
 だけど、デモやストをしなくて済む程度に、日本の社会が動いてる証拠なんじゃないかなぁ?

 なんかね。いやだなぁと思うのです。
 たとえば、将来の戦争に備えて、日本も軍隊を持つべきだ、とか核武装をすべきだということを言う人がいる。
 それはちょっと飛躍だとしても、つまり・・・「戦う」ことがいいことだと思ってる人ってけっこういるんだよなぁと思ってしまいます。

 たとえば薬害エイズ問題の頃、抗議デモがあったんですよね。(私の元ネタは小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」なのですが^^;)あんなふうに、必要な時には声を上げることは必要だと思います。でも、時にやっぱり、組織の力というのは間違った方向に進む諸刃の剣で。エイズ問題が終わった後にも、学生たちが、組織に取込まれようとしてしまったのを小林よしのりが危惧した顛末を読んでそう思ったことがありました。

 政治なんてのは、普通の人間が動かそうとするのなんて難しいに決まっています。
 それを分かってるから、私たちは税金を払い「政治家」という専門家に、政治をお願いしている。そいつが悪いことをしたら、選挙で落選する。仕組みとしてはしごくまっとうで。

 また、私たちは、官僚という人たちにも税金を払って面倒な仕事を代行させています。たまに、組織の力学・・・つまり慣例みたいなものにしばられて変なことをしますが、ここ何年かで、それでは生き残れないというのが彼らにも定着してきたのではないかなぁと思ったりします。
 政治家は「人気取り」のために、たまに変なことをしますが、官僚は「人気」には左右されず安定しているから、「よくできた仕組み」を粛々と動かすことには、向いています。つまり「大きくはずす」ことがありません。

 そういう政治家と官僚の組み合わせで日本の政治は動いている。
 もしもうまく動いているなら、デモやストする必要ないでしょう。火炎瓶を投げて町を破壊しなくたって、平和に暮らせるならばその方がいい。

 もちろんうまく動いていない部分、官僚が怠けて、政治家は利権だけで動いている部分もある。
 それを指摘しするのはペンの力・・・つまり「マスコミ」。
 「ワイドショー」的なんて言われたりもして、世論操作も可能だったりする危険な部分があるんですが、それでも、けっこう、この力は有効に動いていると思います。

 つまり。ストやデモは最終手段。しなくて済む世の中ならその方がいいじゃない。私はそう思うのですが、サンデーモーニングでは、誰もそんなこと言わなかった。おかしいんじゃないの!?

・・・あはは、テレビに向かって、怒っているなんて、ちょっと老人くさいですわね。

 
 

|

« poem(43) | Main | 「SINGLES BAR」とスタバ »

映画・テレビ」カテゴリの記事

Comments

Voice of Stoneさんから、トラックバックをいただきました。ご意見ありがとうございました。

以下、引用です。

(引用開始)

>「社会の痛覚としてのデモ」

サンデーモーニングは、年中デモがおきるようなおかしな社会を礼賛しているのではなく、おかしな点を感じたら誰でもすぐに危険信号を発せられる社会が望ましいということを言っているのだと思う。

デモ=社会的痛覚

人間の体は何かにつけてすぐ痛くなるが、それは人体にとって極めて重要なことである。鎮痛剤で単純に「痛み」を消すだけの対症療法は、重要な信号を見えなくするもので危険が伴う。

日本社会は手術(改革)嫌いで、鎮痛剤を多用するために、実は深刻な慢性病(官僚腐敗、財政難)に罹っている。痛みを感じない(デモが起きない)ことを健康の証として捉えることはできない

(引用終わり)

ふむふむ。
確かに何か問題があったときに、ちゃんと「痛いよ、なんとかしろよ」と言わないで我慢してるから、どんどん症状が悪化するんじゃないか、ということですね。
このたとえは確かにそのとおりだと思います。

「痛い時に痛いと言える」

これは大事。
でも、そのために今だと、たとえば「ブログ」とかがあるんじゃないのかなーと。

いや、今の時代にデモとかストとかやっても、何ていうんでしょう、時代遅れと見られがちで。
炎天下の中、座り込みをしたり、デモで練り歩いても、実際、それに参加する人の苦労の割に効果が薄くて、一般の人には迷惑がられるだけのような感じがします。ましてや町を破壊したりすればなおさら。

それとやっぱり「組織」というものへの抵抗というのは、若い世代には強く。今さら、彼らを組織に取り込んでいっしょにデモをしようとはとても言えません。

時代は戻らない。ならば、新しい時代には新しい声の上げ方があるはず。
ただ、サンデーモーニングのように、昔の映像を出して「昔はよかった、今はだめだ」みたいな番組作りはどーなのか、ということでした。

・・・ちょっとデモやストの話とは違うのですが。
日本の社会が病んでいて何か「痛み」の症状が出ているとすれば、それはデモやストのような形ではなく、今の社会では、弱い物への虐待という形で現れているようです。
またはテロ、とか。
ストレートに犯罪に結びついてしまってる。

健全な社会とは何なのか、もういちど考え直す必要があるかもしれませんね。

Posted by: BUBI | 2006.04.18 11:13

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference デモやストなんてない方がいい:

» 社会の痛覚としてのデモ [Voice of Stone]
サンデーモーニングは、年中デモがおきるようなおかしな社会を礼賛しているのではなく、おかしな点を感じたら誰でもすぐに危険信号を発せられる社会が望ましいということを言っているのだと思う。 / デモ=社会の痛覚 ... [Read More]

Tracked on 2006.04.18 00:30

« poem(43) | Main | 「SINGLES BAR」とスタバ »