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October 2008

2008.10.28

野菜炒めライス

 昨日の夕飯は「野菜炒めライス」。
 
 大きなお皿の半分に野菜炒めを盛りつけて、カレーライスのようにあとの半分にはご飯を盛りつけます。ご飯は、朝炊いて食べた残りの冷やご飯。どーも、保温されたご飯ておいしくない気がして・・・

 ひとり暮らしを始めた頃、なるべく出費を控えるために炊飯器は小さくて一番安いのを買いました。一応、それでも保温はできるんですが、きっと保温機能はかなりチャチなんじゃないかと。
 ただでさえ長く保温したご飯はおいしくない。普通、おいしくご飯を保存するには、炊きたてをラップにくるみ、冷凍しておいて、食べる時に温めるのがベストというのが定説であります。

 冷蔵庫も一人用で冷凍庫が小さいのと、冷凍ご飯にする手間が面倒な(その方が理由としては大きいな)私は、朝炊いたご飯はそのまま保温もせずに炊飯器に入れておいて冷やごはんになるにまかせています。夏はちょっとやばいですが、今の時期なら、1日くらいなら常温でも大丈夫。

 夜、寝る前にタイマーにして、朝、ごはんが炊けるようにするので、夕ご飯はいつも冷えたご飯なのですが、冷やご飯を、おいしく食べる方法にはおかげでかなり長けてきました。
 おじや、チャーハン、お茶漬けなどなどですが、わかめスープにご飯をいれて簡単雑炊にするのもけっこうおいしい。

 そして野菜炒めライス。熱々の野菜炒めといっしょに盛りつけるとちょうどいい具合になります。
 ちなみに昨日の野菜炒めのラインナップは、豚肉、ニラ、キャベツ、長ネギ、えのきだけ。野菜たっぷりで体によさそう~(ちょっと野菜不足だったので)

 自分で新鮮な野菜を買ってきて、シンプルに料理して、たっぷり食べる。
 誰でもやってることでしょうが、こういうときに「ささやかな幸せ」を感じます。私はそれで十分幸せなんですが、もし家族がいたら・・・そんな夕飯、いやだろうな~(笑)。 

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2008.10.27

シリーズものはシリーズものという明記をしていただきたい。

 東直己(あずま・なおみ)という人の「疾走」という本を読みました。

 いやぁ、間違えちゃいましたよ。重松清の「疾走」を読もうと思っていたのに><

 でも、読み始めは面白そうな感じ。

 北海道の核廃棄物処理場で苛酷な労働就役に耐え切れなくなった外国人労働者が反乱を起こし、施設側は銃器を用いて暴力的にこれを鎮圧しようとするのですが、その時、施設を見学にきていた小学生達にその現場を見られてしまう。そこで施設側は、この小学生達をバス事故を装って全員殺そうとします。
 たまたま、難を逃れた二人の小学生を、主人公の男性が、二人を抹殺しようと執拗に追いかけてくる追っ手から守る・・・というストーリー。
 主人公がまた、めちゃめちゃ強い。元殺し屋とかいう噂。

 面白いんですけど・・・主人公が何者か、なぜ彼が子供を守るのか、そのへんの話が・・・いや、いつか明らかになるだろうと読んでいたら、これ、シリーズものだったのです^^; そのへんの経緯は、前の本を読んでないとわからないんですよ~

 シリーズものならシリーズものとどっかに書いてほしいんだよなぁ。
 書かないなら、1冊で物語を完結させるのが、読者に対する最低限の配慮ではないかと。

 出だしがおもしろかっただけに、ちょっとがっかりです。
 図書館でただで借りた本だからいいんですけど~

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2008.10.24

poem(75)

きみを好きだということを忘れようとしたり
きみを好きでいるのをもうやめようとしたり
きみのことを考えずにいようとしたり
きみの心配をしないようにしたり
そう思うとよけいにきみのことばかり考えちゃって
一歩も前に進めない

だから…いいかな?
無理にそうしなくても

「今もきみを大好きだよ」って
自分の気持ちをきみにきいてもらえると
急に心が軽くなって元気になる
それで
また新しい恋をしてみようって思えるんだ

人の心って
ちょっと不思議で
とってもおかしいね

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2008.10.22

杉山文野さんの講演を聴きました

 性同一性障害の杉山文野さんの講演を聴く機会がありました。
 杉山さんのブログ
 とても楽しくて、分かりやすく、ためになる、そしていろいろ考えさせられた講演でした。

 講演の冒頭がこんな話でした。みなさんもちょっと考えてみてください。

 これをお読みの皆様は、生物学的にいうと、男性でも女性もある、または男性でも女性でもない人がいるのをご存じでしょうか。知り合いにそういう人がいる人、いるかな。
 多分、いないだろうな・・・私もいないし、そういう人がいること自体を知りませんでした。でも知らないから「いない」わけではない。
 
 正確な統計があるわけではないので、何万人に一人、いや何十万人、何百万人に一人いるのかどうか、それは分からないのですが、SFでもなんでもなく、そういう人は実在しています。それと同じように。
 
 性同一性障害・・・体と心の性がなんらかのホルモンの関係で違ってしまう人も世の中にはいて。いるんだけど、多くの人がそのことを「知らない」。
 特に、性同一性障害の場合、見た目が女性なら、周りの人はみんなその人を女性だと思うわけで、まさかその人が心の内で、女性である体と男性である自意識の間で苦しんでいることなんて誰にも分からないわけです。
 知らないから「いない」ことにされてしまう。
 そうやっていないことにされた人が、どんなにそのことで困ったり悩んだりしているか・・・。

 講演のテーマは、そういう少数派(マイノリティ)の人々が生き生きと人間らしく、自分らしく生きられる世の中になるためには、まずはそういう人たちがいることを知ること、そして、ほんのちょっとの工夫で、いっしょに生きられる世の中が作れる、ということでした。
 杉山さんのストレートな思いが伝わってくるすばらしい講演でした。いやぁ~、杉山文野さん、かっこよかったなぁ♪

 感銘を受けて帰ってきて、その後もつらつらと講演の内容を思い返していました。

 素朴にちょっと不思議な感じもします。
 男性であること、女性であること。それって、それほどまでに違いがあるんですね。
 私は、同じ人間なんだから生物学的に違うだけで、心の中はそんな違うはずがないと思っていました。

 でも体は女性でも自意識が男性だと、やっぱりスカートははきたくないし、女性らしい体つきになるのに嫌悪感があるし、好きになるのも女性だったりする。(性志向は人それぞれなので、女性だから男性が好き、女性だから男性が好きってそこもまたそうとは限りませんけれども。)人の仕組みって不思議。

 性同一性障害の場合は、ホルモン注射や手術で自意識に合った体にすることも今では可能なのですが、杉山さんは今のところ、手術はしないで、今のままの自分でがんばってみようと思われているようです。すごいなぁ~

 たとえば、昔は・・・昔っていっても、そんな前でもないですが。
 ある程度の年齢に達しても結婚しない男性や女性ってってマイノリティでした。きっと周りから変な目で見られたり、誤解を受けたりしたんだろうな。

 でも今は私なども普段、特に不自由することなく、自分らしく生きていられます。もちろんこれは、未婚の男性や女性がマイノリティではなくなってきているからに他ならないのですが、そう考えるとやっぱり、まだ世の中って、人間個々の多様性をすっかり受け入れるところまでは来ていないのかもしれない、と思います。

 杉山文野さんが、そうして大勢の人の前で、自分の歩んできた人生の中での悩みや苦しみを赤裸々に語り、堂々と自分の在り方について語ることで、もしかしたら世の中はちょっとずつ変わっていくのかも。
 そう思うと、なんだか世の中も捨てたもんじゃないなぁと思ったりして。

 とてもよいお話でした。興味のある方は上のリンクから、杉山文野さんのブログ、のぞいてみてくださいね。

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2008.10.19

いい日旅立ち・房総へ・・・

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千葉県千倉市で、友人の坂田仁さんのイラスト展がありました。写真は千倉市のローズマリー公園です^^

「坂田遊園」

※13日までだったので、もう終了です^^; もっと早くここでも宣伝すればよかったな。

で、友人ご夫婦の車に乗っけてもらって、房総へ。坂田さんのイラスト展に行くのも二回目であります。
坂田さんのステキなイラストで癒されたあとは、前回は館山から内房の方を周って帰りましたが、今回は外房へ。

御宿の月の砂漠の像や、犬吠崎で360度海の展望台、立ち並ぶ風力発電の風車などを見てきました。

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風車の写真はうまく撮れなかったので、展望台近くのコスモスを。秋ですなー。

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2008.10.16

「見張り塔からずっと」~集団の怖さの話~

重松清の短編集、「見張り塔からずっと」という本を読んでおります。

最初の短編「カラス」を読んでいて「うわぁ~」と思いました。

私は基本的に、人間って好きなんですが・・・これ、ありそうだなぁ。ありそうだと思うだけに、
「人間ってこんな残酷な面もある」
ということを見せつけられて、やりきれない思いを感じました。

あらすじを簡単に書くと。
とある郊外のニュータウンに、バブル絶頂期の頃、何千万もの借金をしてマンションを購入した人々がいまして。もちろん彼らは、まだまだ不動産が値上がりするのだと思っていたわけですよ。

ほどなくして、マンションの価格は暴落する。
落胆しているところに、彼らが買ったのよりも1千万近く安く、同じ1室を購入して、引っ越してきた一家がいました。

落胆していた、第一期入居者たちは、そんな一家が面白くない。
自分たちよりも得をしている彼らが許せない。
自分たちが同じ物件を高く買わされて損していることを、彼らにせせら笑われてるように勝手に感じて、勝手に悔しがって・・・

自治会の知らせをその一家にだけ連絡せず、ごみ置き場の注意事項を知らせずに、決まりを知らない一家がほかの家と違う方法でゴミを出せば、そこに「規則違反」の貼り紙をしたり。その他、陰湿ないじめが始まります。

結局、ターゲットにされた一家は、数々の嫌がらせに耐えきれず、せっかく買ったマンションを手放して、引っ越していきます。身も心もぼろぼろになって。

いじめに荷担していた第一期購入者の家の夫と、嫌がらせを受けた家の夫は、毎朝バス停で顔を合わせるのですが、第一期購入者の家の夫は、そういうことが行われているのを全部知っていて、知らんふりをしています。
最後、ついに引っ越していく、嫌がらせを受けた方の夫がこういいます。

「お宅は大丈夫だといいですね・・・」

この話のいやぁなところは、マンション価格の暴落に落ち込んでいた、第一期購入者の人々が、後からその一家をいじめることで、一致団結して、元気になっていくところです。

そして、いじめを受けてその一家がそこを去れば、また次のターゲットが生まれる。
それは、この間まで、みんなといっしょに嫌がらせに荷担していた誰かかもしれない・・・。

・・・
・・・
やだなぁ~~。

いえ、嫌なら読むなって話じゃなくて、人間がそういう面を持っていることが嫌だなぁと。この小説自体はうまくできているのですよ。嫌がらせをする側の心理もされる側の心理もよく伝わってきます。

子供の頃、私はいじめを受けた経験がありまして。
そのせいか、大人になってからも集団心理というものにことさら警戒感があります。

人間て、基本的に、自分が負ってる負い目や愚かさを、自分自身で受け止めることをしないで、誰かのせいにしたい性質を持つ生き物なんだよな。

甘ったれんじゃねぇ、と私などは、自分に対しても他人に対してもそう思うのですが、現実にそういう人は多いし、そのこと自体は『弱さ』ではあっても『罪』ではないのですよ。

そういう弱さも弱さとして受け入れることは大事だし、自分で受け止めきれない重さを、信頼できる誰かと共有することができなければストレスでつぶれちゃうので、自分で全部引き受けろ、と言うつもりはないのですが。

ただ、他人にそれを転嫁してはいけない。

でも結構、日常生活の多くで、こういうことは多く行われています。注意していないと自分も巻き込まれるし、もしくはターゲットにされる危険もある。

もっと怖いのは、個人個人ではこういう危険性を十分に知っていながら、こと、集団に紛れると、誰かにせいにしていた方が楽だし、みんなといっしょになって何かをすることは=「正しいこと」に思えてきて、自分の中で、やっちゃいけないと思っていることも「正当化」されてしまう。

この怖さを、身をもって知っているので、私は集団というのが嫌いです^^; というか、やっぱ怖い。
今は一人暮らしで、地域の集団からは孤立しているので、そういう煩わしさは感じずに暮らせるのですが、もともと、集団に馴染めないはぐれもんだからなぁ~

一人一人はいい人なのに、何人か集まるとどうしてそうなっちゃうんだろう。
自分のことに自分で責任を取らずにいられるということがどんなに楽かは・・・実はよく分かるのですが、分かるだけに、その楽さにだけは負けちゃいけない、といつも自戒するところです。

でも、思えば、私のようなはぐれものもかなり生きやすい時代になってきました。結婚とかしない限りは新たなコミュニティに組み込まれることもないものな。

「自由」であることと「責任」はいつもセットで。その自覚さえあれば集団には寄り添わずに生きて行かれる。人を傷つけることも傷つけられることとも無縁でいられる。

・・・ただ、だから・・・
もしかすると、集団にだけじゃなくて、誰に対しても寄り添えないのかもしれないなぁ~

はぐれることがいいわけではありません。個人の力ではできないことが集団ならできることもある。みんなで力を合わせることが、よい方向に働くこともあるはず・・・なんだけど。

この年になっても、結局このテーマに答えは見えません。

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2008.10.10

セカイ系

「北野・宮崎・押井作品、ベネチア映画祭で受賞ならず」

というニュース解説を読んでいましたら、「セカイ系」という言葉が出てきました。

「セカイ系」という専ら萌え系アニメの王道パターンがあるらしく。
私がざっと把握したところでは

○物語は、少女と男の子の間で展開される。
○世界の破滅の鍵を少女が握っている。

という感じの話のようです。

リンク先の記事では、『大きな物語の喪失から端を発する、「ぼくときみ」と「外の世界」の断絶の物語』なんて言葉で語られているのですが、何のことを言ってるのか、分かるような、分からないような。

私もたまに恋愛テーマで詩を書いていたりしますが、恋愛が局所的に終わるものではなく、世界の趨勢と関わっている・・・という考え方はちょっと、不遜な感じもして好きじゃなかったりします。

恋愛はあくまで恋愛で。それ以上でもそれ以下でもない。
私自身の感覚だとそうだなぁ・・・

このリアリズムはもしかしたら私が女性だからなのかもしれません。女性よりも男性の方がロマンチストだという説を聞いたことがありませんか。女性も愛や恋に夢を見たりはしますが、多分、男性よりも女性にとって「恋愛」は「現実」に近い。

男性はどこか「女の子」を好きになるという気持ちを、非現実として捉えているような気がします。
だから目の前の、生身の女性は別物で。イメージの世界でなら「ぼくときみ」の関係が、世界の破滅にも簡単に結びつきやすいのかもなぁ。

恋愛は恋愛として、「世界の破滅」について私は・・・

もともと「世界」って、人間の心の中とは無関係な「現象」としてただ存在するんだと思うのですよ。
地球も宇宙もそこにあるだけで意味はない。世界の始まりにも終わりにも人間は存在しない。そんなたいそうな存在では人間はない。

ただ、そういう元々意味のないところに「命」が生まれ、その命はなぜか世界に「意味」を求める。そのことを、不思議だなぁ~~とよく思います。

「恋愛」はその、人の「命」の思いの究極のパターン。
まあ、命が、この世界に存在し続けようとすれば、恋愛があってそこから新しい命が生まれなければ続いてゆかないから、生き物がそこに最高の価値を見出すのは必然と言えば必然ですな。
多分、恋愛ってのは、この、意味のない世界に「命」が存在し続けようとするが故にあるのでしょう。
(これって「利己的な遺伝子」っていうのに似てるかも・・・)

「セカイ系」は「大きな物語の喪失」から生まれたそうですが。

「大きな物語」はまだ存在すると私は思っています。
というか、大きな物語を作り出そうとする意志こそが、私たちがこの世に存在し、意味のない世界に、意味を見出そうとする・・・「生きることの証」のような気がするのです。
全ての物語は、それゆえに存在する。

半径3m以内に、全てのものがあるのなら、私たちは全ての物語を捨てて、目の前に存在する誰かだけを見ていればいい。他の動物や植物と同じようにあるがままに生きればいい。

でも、私たちはそうはしない。いつもこの世界に意味を求めようとしている。少なくとも私を含め、物語る者たちはみな。
多分、あらゆる「創作」は、命が、その限られた生の中で、世界に意味をつける、大きな物語を創り出そうとして生まれるものなのだと思うのです。
そして私たち人間は、そのためにこの世界に存在するんじゃないかと。

宮崎駿さんは、そういう意味で、同世代に生きる者の中でも、抜群のセンスにあふれた語り手だったんだけどなぁ~。彼の物語はいつも、見るものの生に「意味」を与えてくれました。

もちろん半径3m以内の世界も悪くはないんですが。
どっちかというと私はまだまだ、もっともっと大きな物語を見たい。自分じゃ作れないけど、世のニーズが優れた創作者を育てるなら、そういう作品を支持したいな~なんて思ったり致します。

うむ。私の記事の方がニュース解説よりも意味不明になってきたかなぁ。

私は押井作品の持つ世界観も、けっこう好きなんですけど、終わりなき日常を越えて、やっぱりまだどこかにたどり着きたいという野望を持っているので・・・まあ、それも、何かの掌の上かもしれないということは承知してるんですけどね。(「ビューティフル・ドリーマー」か。なつかしいな。)

この先、また、宮崎・押井という両氏を超える、「大きな物語」を創り出す勇気を持った創作者の誕生を期待したいところです。

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2008.10.09

泣けてしまった・・・「容疑者Xの献身」

 「容疑者Xの献身」。東野圭吾の小説の方を先に読みまして、とても面白かったので、今回の映画も楽しみにしていました。

 小説の方を先に読んでいたので、実は事件の結末もどうなるかも知っていながら見たんですが・・・思いがけず、泣けてしまいました。一人で見に行ってよかったなぁ。友達と行ってたら恥ずかしかったところです。

 いやぁ・・・なんかね。
 人を好きになることって、そうなんだよなぁと思って。

 『あなたに会えて幸せでした・・・
 あなたは僕が何を言っているのか、分からないでしょう。それでいいんです』

 どんなに彼が彼女のことを好きだったのか。
 彼女にはなぜ彼がそこまでしてくれるのかまったく分からないだろうなぁと思うのですが、一方で彼が、彼女との何気ない触れあいをどんなに大切にしていたのか。私には分かるなぁ~

 彼の思いを思いやるにつけ・・・映画の結末が胸に迫ってしまって。
 私は彼ほどの勇気もないし、数学の天才でもないので、彼と同じように愛する人を守ることはできないだろうなぁと思うのですけど、もし私が彼の立場だったなら。

 自分の計算どおりに全てうまくいったなら。自分は愛する人を守りきれて幸せで。他人から、そして親友からそれがどう見えても、構わなかった。なのに・・・彼が計算しきれなかったことが一つだけあったのが、このストーリーのミソというわけですな。

 泣けちゃうかどうかは人によりますが。 福山雅治もかっこよかったけど、堤真一の演技、最高でした。

映画の公式サイトはこちら

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2008.10.06

poem(74)

前にきみと会ってから
きっかり1年ぶりだね
1年に一度会う関係
七夕みたいだなんて
言ってる自分も笑えないジョークだ

1年ぶりに会うきみは
仕事でいろいろ大変なこともあるようだけど
一番つらかっただろう1年前よりも元気に見えた

心配ばかりで何もできないのに
漠然とした不安や懸念の材料を
きみの前に並べて見せることがいいことかは分からないけれど

何も起こらないよう祈るより
この先に何があってもきみがくじけないようにと
強く願う

そうして僕は
やっぱり今も これから先も
きみを思わずにはいられない自分に気づいた

正面から向き合っていればすれ違いも生じるけれど
幸いにしてきみは僕とは違う方を見ているから
僕が自分とした約束をいくら破っても
自分の中だけで処理できる
これは実は二人の関係において
とてもラッキーなことなのかもしれないよ
だから

きみとの関係はこれからも続いていく
またおいで
また会おうね
それがまた来年の今日でも
今度はとっておきのカフェに
きみを連れていってあげる

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2008.10.05

やっと読めた・・・「図書館戦争」

「図書館戦争」という小説がありまして。
今年、深夜アニメにもなって、爆発的人気だったそうなので、ご存知の方もいらしゃるかもしれません。
先ごろ、さいたま市の図書館の本が、ネットで予約できることを知って、真っ先に予約したのが、この「図書館戦争」でした。
が、当時から100人以上の予約が入っておりましたよ、この本。

アニメの放映も終わり、DVDも出る今頃になって、やっと「図書館戦争」読むことができました。ざっと3ヶ月はかかったな(爆)。

感想ですが、待たされたせいか、期待が膨らみ過ぎてしまい、うーん、面白いけれど、このオチは王道といえば王道かもな~

原作を先に読んで、鬼教官「堂上」や主人公の「郁」、そして同僚の「手塚」くんなどのイメージがすっかり出来上がってから、ネットでアニメ「図書館戦争」の絵を見てみました。

原作はけっこう泥臭い、大映ドラマちっくなのですが、アニメはなんてポップな仕上がり。できればもっと手塚くんが今風のキザ野郎だったなら・・・いや、実は筆者は手塚ファンです。何につけ「アンチ」なもんで。すびばせん。

本を愛する気持ち、図書館を愛する気持ちは、私はかなり強い方でして^^
設定自体はおそらく、私のために存在するといっても過言ではない(笑)

「女の子が銃を携えて、オートバイに乗って旅をする、若い世代に人気の本」ってアレだよな・・・
とピンと来てしまう自分が、なんともはや。

8才の頃、自分の住む市内に図書館が新しくできてから、私の生活には図書館は必須アイテム。そして今もそれは変わっておりません。

郁、がんばれ。
知らず知らずのうちについ応援している自分がいます。

アニメも見たいな。GyaoかレンタルにDVDが出るのを楽しみにしています。

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2008.10.03

「あたし彼女」

いつも「虚構新聞」というサイトを愛読しています。
その虚構新聞に「『あした彼女』掲載サイトが削除 」と記事が出ていました。

虚構新聞なので、記事の内容は「虚構」なんですが、題材にしている事件は本物なので、虚構新聞によると『あした彼女』という小説が盗作をしたとされる『あたし彼女』という作品は実在していて、ケータイ小説大賞をとったという話はほんとなのだろうなぁと思って、例によって検索してみたら・・・ありました。

「あたし彼女」

虚構新聞の記事によれば・・・

(引用開始)

 こんな

 小説で

 200万

 円

 なら

 オレにも

 くれ

 みたいな

(引用終わり)

これを読んで、笑ってしまいました。
私もざっと「わたし彼女」を読んでみましたが。

世の小説なんて得てしてそんなものです。
「こんなのなら俺にも書ける」
だけど、それに誰が気づいて、誰が作品として、世に出すか。それがポイントなのですよ~

「わたし彼女」はなかなかよかったですよ。よくあるドラマなのでしょうが、やっぱり読んでいてちょっぴり胸が痛みます。

すぐに読めますので、みなさま、のぞいてみて下さいね。

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2008.10.02

「デパ深」って知ってる?

 朝の4時に目が覚めてしまったので、ふとテレビをつけてみると、こんなテレビショッピングがやっていました。

「ボシュレデパート深夜店」

とっても面白かったです~

ちょうどトイレットペーパーのプレゼンをしていて。もともと、テレビショッピングのパロディなのでしょうが、一切の値引きなし、そもそもトイレットペーパーなのに「値段がはっきり言ってバカ高い」とこなんかも笑ってしまいました。

このテレビショッピング、深夜にしかやってないそうですが、興味のある方はぜひ一度、ご覧下さい。

それにしても木製のキーボードなんかも買う人いるのかな~
想像すると楽しくなってきますわ。

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2008.10.01

十五の君へ

 アンジェラ・アキさんの「手紙~拝啓 十五の君へ~」という歌がヒットしているそうです。NHKの全国学校音楽コンクールで中学校の課題曲だったそうです。そうか。なんか聞いたことがあると思ったら。
 合唱としては混声三部合唱かな。なかなかよい曲ですよ。

 さてアンジェラ・アキさんのオリジナルは聞いたことがないのですが、歌詞がネットに掲載されているので見てみました。→歌詞はこちら

 ふむ・・・15歳ってやっぱみんなそうなんだなぁ。何か分からないけれど、何かに不安で。それに押しつぶされそうな息苦しさ。未来が見えない恐怖。自分は何になれるのだろう。何も分からない・・・「自分の声を信じ歩けばいいの」か~ 今の子供はそれができないのかも。
 
 私も思えばよくこの年まで来られたものだと思います。
 私は、どっちかというと、こうして自分の声を聞くことが得意な方でした。たまに自分の声ばかり聞いて、他人の声を聞いていないことがあるくらい(笑)

(歌詞より引用)

 「自分とは何でどこへ向かうべきか問い続ければ答えが見えてくる」

(引用終わり)

 ・・・私は、今も問い続けてばかりです。でもどこへ向かうべきかはちょっと見えてきたかな。なんというか、問い続け、答えを探し続けることがそのまんま「生きる」ということの答え、みたいな。

 大人になってよかったなと思うことの一番は、全てを自分で選べるようになったこと。それが15才の自分との一番の違いです。ただ、大人になったらなったで、15才のときとは別の何かに縛られて、自分で選べない人も、実は多いのですけれど。

 何も強制されない、何にも縛られない生き方を、多分、私の場合は、自分の声を聞いて、自分で選択してきたのかもしれないな。

 だから私がもし15才の自分に会うことがあったなら「苦しいのは今だけだから、がんばれ」って言ってあげたい。私は私の望むものをちゃんと手に入れることができたから。
 
 そして・・・多分、こういうことなんだと思うのです。
 願いや夢や希望って、自分の思い描くとおりには叶わないこともあるんですが。それを目指すことで私たちは違うものをちゃんと手に入れることができる。

 うーむ、うまく言えないなぁ~。

 でもほんと、十五の時には何も見えなかったけど、大人になるとちゃんと見えてくる。だからほんと、子供たちにはがんばって欲しいです。

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