重松清の「舞姫通信」という小説を読んでいます。
「自殺」はなぜいけないのか。
読んでいて、それを問われる作品です。
まだ途中なんですが、作中のここを読んで、この記事を書いてみる気になりました。
(引用開始)
いまも胸の中に残るクエスチョンマークは、ただひとつ。
僕はなぜ死んでいないのだろう。
(引用終わり)
また作中では、
Q1 あなたは自殺を認めますか?
Q2 あなたは自殺したいと思ったことは(あるいは未遂体験をした)ことがありますか?
という問いが出てきまして。私は、これ、どっちもYesです。
Q1に対して、簡単に「自殺をしてもいい」というつもりはないのですが、認めるか、認めないかと問われたら、「認めない」と答えることはできません。
だって、この世の中には、死ぬよりも辛い苦しみってあると思うから。「自殺はいけない」と言えるのは、そんな体験を想像できないから言えるような気がします。
Q2については、思うだけなのと、実際に死んでしまうのとは、すごく差があると思っているので、実は、これ、どんな人でもYesだと昔は思っていました。
世の中には、この問いに胸を張ってNOと答えられる人がいる・・・のかな。
だとしたら、この世界って、私が思っているよりもずっといい世界なのね(苦笑)。
それで、最初の問いかけに戻ります。
(なぜ僕は死んでいないのだろう)
自殺を認めないと言い切ることはできない。自分も実際に自殺を考えたことがある。
なのに、なぜ、今、死んでいないのか。
文庫本を片手に、自分に問いかけて帰ってくる答えは、私の場合はこうでした。
私には、私の命って、私のものじゃない気がするんですよね。だから勝手に自分で終わりにできない。そんな気がします。
じゃあ、誰のものかというと、ここから先は精神論というか、自分なりの哲学になるんですが。
人がこの世界に生まれるのは、自分が生まれようと思ったわけではないことは確かで。この世界に生まれ出た命に、小さな意志が宿る。
小さな意志はしだいに成長して、自分のことや世界のことやかけがえのない誰かのことを考えたりする。命から生まれたものなのに、まるで命を自分のもののように思ったりする。
私は、紫堂恭子の「不死鳥のタマゴ」というマンガが大好きなんですが、人の命って、この「不死鳥のタマゴ」に書かれているようなものだと思うんですよ。
どう書かれているかというと・・・まあ、それは、ここにくどくど書くのは恥ずかしいので、興味のある方はマンガをあたっていただくとしまして・・・
つまりは、命ってのは、与えられたものなんじゃないかなぁと。
与えられたんだから、その間は一生懸命生きればいいだけで。
ほんのひととき、「私」は永遠の「何か」から命を預かっているんじゃないか。いつかは返す時が来るので、それまでは、せっかくもらった時間を、いろんなことに使ってみたい。
命が自分のものでないならば、それに仮に宿っている小さな意志としては、それを勝手にどうこうするのはいけない気がします。
「自分」は何かに「生かされている」ということでもあるのかもしれない。何かの役目が私にあるのかどうかは分かりませんが、自分を生かしている「何か」があるなら、死ぬまではその何かに、がんばって報いなくちゃ、なんて気もします。
それができたら、死に際して、贖罪の祈りの中で、静かに逝けそうな気がする。贖罪の祈りは、もちろん、宮部みゆきの「ブレイブ・ストーリー」の中に出てくる言葉。(記事はこちら。)
(引用開始)
ヴェスナ・エスタ・ホリシア
ヒトの子の生に限りはあれど、命は永遠なり。
(引用終わり)
私は、普段はたいして神も仏も信じていなくて、都合のいいときだけ何かに祈ったりする一般的日本人なんですが、生きるってことの本質が、人間の意志の外にあるのはおそらく真実で、その意志の外にあるものを、なんて呼ぶか・・・それが神様だったりするのかなぁなんて思うわけです。
私が今、死んでいないのは。
この命は私のものじゃないから。
私の答えはこうですが、さて重松清さんの「舞姫通信」の中ではどんな答えになるのでしょうか・・・
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