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February 2009

2009.02.26

石原真理子さんの復縁に『暴力』について考える

 以前、「ふぞろいな秘密」を読んで当ブログに感想を綴ったことがありました(こちら)。

 その時に思ったのは、美しくて、かつ人がよい女性にはいろんな男性が群がり、アプローチを受けると断れないが故に次々つきあって、そして別れた数だけ傷ついていく・・・そんな女性の悲劇、みたいなものを感じました。

 もっと彼女が強い人だったらよかったんだよな、と。
 自己主張をはっきりとし、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと言えるような。

 でも往々にして男性ってのは自己主張のないぽやっとした女性に安らぎを感じたりするもので。
 それは仕方ないとしても、つきあった女性がいつまでもぽやっとしていると、今度は
「この女は俺のことをほんとに好きなのだろうか」
 と疑問が湧いてきて、彼女がその自己主張のなさ故に他の男性にも誘われてついていっちゃったりすると、彼女の肩をつかんで、無理矢理
「おまえ、ほんとに俺のこと、好きなのか? 好きならなんで他の男性にもいい顔したりするんだ!」
 なんて言いながら、殴っちゃったりする。

 これって、けっして女性が悪いわけではない、と私は思うのです。
 男性って勝手なもので、自分のことは何も言わず受け入れてほしいと思うけど、それは自分に対してだけであって欲しいと思うのですよね。 自分のことは無制限に甘えさせてほしいし、自分に対しては自己主張なんかしないで欲しいけれど、他の男に対しては頑なであって欲しいと願う。
 
 私は自分が女性なので、男性がそういう女性を求めながら手に入れたとたんに独占欲を発揮する図式を見ると、つくづく女性側がかわいそうだなぁと思ってしまいます。

 だからもう石原真理子さんにはあまり男は近づかないで欲しいと思いました。
 彼女が平凡な1女性ではなく、芸能界という非情な世界に自らの意志でがんばって復帰しようとしているなら、もう男になんか頼らずに、強く、女優として再起して欲しいと願っていました。

 そこへ今回の報。

 玉置浩二・・・信用できるのかなぁ。彼女を本当に幸せにできるのかなぁ。
 もう二度と殴ったりしたらただじゃ置かない、と、他人のことながらつくづく思います。

 石原真理子さんは玉置さんのことが好きだから、きっと、プロポーズされたら、とてもうれしかったろうと思います。これで、彼女が最愛の人とやっとゴールインして幸せになるのならいいんですけど。

 でも、だからこそ・・・もう彼女を傷つけないで欲しい。本気で彼女を守って欲しい。ただ彼女のいいところばかりを愛するんじゃなくて、彼女の本質を理解し、彼女をいたわり・・・そのことによって自分も満たされるような。そんな関係を築いていって欲しいと願います。

 ・・・うーん、赤の他人なのに、なぜ、こんなに心配になっちゃうんだろうか。
 多分、それくらい私は、男性が女性にふるう暴力を許せない。そういうことなのかもしれません。

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2009.02.25

「チームバチスタの栄光」

今頃ですが「チームバチスタの栄光」を読んでいます。(映画にもドラマにもなりましたけど、どちらも全く見ていませんでした^^;)

たくさん登場人物が出てきますが、皆、個性的な面々な上に、一人一人をちゃんと読んでいる方が思い描けるような描写になっていて、大変読みやすい小説です。

本を読んでいるとこれはぜひ、映像を見てみたいなぁという気になってきますね~
あの役は誰がやっているんだろう、とか興味が湧いてきます。

その他、こんな感想を持ちました。

(その1)麻酔医って大事だと思う。

「バチスタ」というのは心臓の手術の名称なのですが、バチスタ手術のチームにも欠かせないのは麻酔医。でも人数が少ないので、目の回るような忙しさの中、いろんな手術を掛け持ちして、麻酔をかけまくる。それでもミスはあってはならない。ミスがなくて当然。
患者は、外科医には感謝するけど、麻酔医に感謝はしてくれない。
あらゆる手術に必要な、大事な技術でありながら、軽視されている技術。もっと麻酔医は、大事にされてしかるべきじゃないかという感想を持ちました。

(その2)「解剖をして欲しい」と言えるか

私の母も病院で亡くなりましたけど、今、思えば、その亡くなり方にちょっぴり疑問があったりします。病状が安定して、リハビリを始めましょう、という段階になったので転院したんですが、転院したとたん、急激に病状が悪化、あっという間に亡くなってしまいました。
亡くなったものは仕方ないので、淡々と退院して葬儀までいって終わっちゃったんですが、解剖してちゃんと調べてもらった方がよかったのかな、と。
でも、亡くなったものは生き返らないので、もうさわって欲しくない、という気持ちにどうしてもなっちゃうんですよね。

医者ってどうも苦手です。
一般の人間は、専門の技術は分からないから、引け目を感じてしまって、聞きたいことも聞けない。

本当に愚痴外来なんてのがあって、患者の話をしっかり聞いてくれるような病院があればいいのに・・・
「チームバチスタの栄光」を読んでいるとちょっと医者が好きになるかも。

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2009.02.22

2009年のバレンタイン

 一週間前はバレンタインデーでしたが、どうなんだろう、チョコレート業界は、例年どおり売り上げを伸ばしたんでしょうかねぇ。今年は逆チョコなる言葉をはやらせて、消費拡大を狙っていたようにも感じますが、逆チョコ、はやったんだろうか。

 世の中の移り変わりが激しくて、バレンタインが過ぎ去ったら、そういうニュースもぱったりなくなってしまって、結果がどうだったのか、イマイチ、分からないままです。

 私? 私は、ちょうどその日、デパ地下を通りかかりましたら、惣菜屋さんにまで、チョコレートを使った商品が並んでいるのにびっくり。
 クリスマスには鳥もも、5月にはなんとなく柏餅、夏の土用丑の日にはうなぎを買ってしまう、ミーハーそのものの私としましては、思わず、リトルマーメイドというパン屋さんで、チョココロネを買って帰り、家でしみじみと食べました(爆)。すみません、色気のない話で。

 ブログ友達のRuccaさんが「チョコは玉砕の味」という記事を書かれておりましたが、ご多分に漏れず、私もそうでございます。

 いやぁ、そもそも誰かを本気で好きになるという経験がかなり遅かった私。バレンタインに、好きな人にチョコレートを送る、という経験をそもそもしたことありませんでした。

 最初に「これが恋なのね~♪」という恋をしたのが手元の資料によると(笑)1996年なのですが、その時は自分から告白したのが秋で、即行ふられたので、バレンタインにチョコを渡すタイミングになりませんでした(苦笑)

 なので、「バレンタインに好きな人にチョコレートを渡す」という行為自体に非常に憧れがありまして。

 1996年の後、「もういい年だし誰かに恋をすることなんて金輪際なかろう」と思っていたんですが、その後、こりもせずまた好きな人ができました。手元の資料によると2003年。え? ブランクが長すぎる? そ、そうなんですが・・・(-_-;)

 この恋は結果的には片思いだったんですけど、うまく2月にあたりまして♪ チョコ、あげましたよ~ ゴディバのチョコレート。思いっきりベタですが、あげてみたかったのです♪

 好きな人にチョコレートをプレゼントするってよいですね。あのときのドキドキワクワク感は今でも忘れられません。そして自分がどれだけその人を好きだったか・・・思い出すと、今でもあの頃に戻っちゃう。人を好きになることの意味やそれがどんなにパワーをくれるものなのか・・・恋って不思議ですな。

 またいつか、誰かにチョコレートを贈ることが、私もあるのかな~。
 もうないかもしれませんが、それでも私にとってバレンタインは、たった一度でも、本気で人を好きになって、その思いを手渡した大切な思い出のイベントとなりました。

 ここまで書いて、その時、渡したチョコがどうなったかを書かないのはアレですが、ま、ご想像にお任せします^^気になる方は今度いっしょにどこか遊びに行った時に直接聞いてやってください♪

(追記)
当時の思いを書いた詩をこのブログにも載せていました。
よろしければどうぞ♪
http://light-snow.cocolog-nifty.com/cocolog/2005/05/poem_22.html

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2009.02.16

は虫類の脳

最近よく思うのですけど、大人になってから、あまりものを考えなくなった気がします。

どういうことかというと、なんだか日々、「気持ちよければいい」ってだけで生きている気がする・・・
以前にコーチングの勉強をしたことがあるのですが、その中で、確かこんな話がありました。

日々暮らしていて、やろうと思ってもできないことってないですか。

たとえば「ダイエット」
たとえば「健康のためにスポーツクラブへいく」
たとえば「資格をとってキャリアアップを図る」etc.

やろうと思うんだけど、できない。それはなぜかというと、ちゃんと目的をもって日々を過ごしているわけではなくて、「快」と「不快」だけを基準にして過ごしているからみたいです。
「快」と「不快」の判断をしているのは、大脳ではなくて脳幹。
脳幹は生命維持のための基本的な機能を司る大事な場所で、は虫類あたりの脳には脳幹しかないんですって。

つまり。
「快」と「不快」だけを基準に生きているっていうのは人間じゃなくて、は虫類並ってことですよ。どひゃぁ~

そう思って、日々を振り返るわけですが、もう日々の行動のほとんどが「快」と「不快」だけが判断基準。毎日「気持ちいい」ことしかしてないですな^^;

子供の頃は違っていました。
「快」「不快」なんてあまり考えたことなかった。
というか「快」も「不快」も自分で選択できなくて、親が与えてくれた環境だから、自分はそれ以外のことをいっぱい考えていました。

今は逆なんですよ。「快」も「不快」も自分で選べる。「不快」なら「やらない」ということを自分で選択できる。できるから、日々、なるべく「不快」を排除し、快適な生活をするための環境整備に心血を注いでいる。なんとなく手段と目的が逆転しているような。

「気持ちよければいい」のか。
それでいいと割り切ってしまってもいいんですけど、もうちょっと、せっかく人間に生まれたからにはプラスアルファできないとな。

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2009.02.15

20年の記憶

 今日は中学校時代の友人と、ランチにおいしいカレーを食べてきました。カレーのあと、いろいろお茶をしながらおしゃべりしていまして。

『20年前ももう大人だったなんて信じられないね』

 なんて話していました(苦笑)。同学年ですから、お互い同じ年なんですけど、目の前に座っている友人が40歳だなんてまったくもって信じられない。なんでこんなに変わらないのかしら。

 見た目が若いのはいいことなので、よいとして。
 ただ、ちょっといろいろ振り返るにつけ、不思議な感覚になります。

 友人とは、中学時代に同じ部に所属していて苦労を共にした仲なのですが、その後は学校も住まいも違います。
 それぞれにいろんな経験をし今に至りますが、たまに連絡を取り合ってこうして会ったりしてはいるものの、たまに2~3年は平気で空いたりします。

 今日はふと振り返ってみて、

「あれ? 京都にいっしょに旅行にいったのはいつだっけ」
「房総は? その前かな、後かな?」
 
 などと話していたら、そのどちらもがもう10年以上前なのに気がつきました。10年以上前の出来事なんて、お互いに忘れてます。なかなかそれがいつのことだったか思い出せない。
 でも、旅に二人でいって、その道中何を話したかを思い出すと、自分が何歳くらいの出来事だったか段々記憶が戻ってくる・・・。
 大人になってから20年。変わらないようで、やっぱりいろんなことがあった20年。

 友人も単身者ですし、私もそうで、そうなるとなんだか外見はともかく中身はほとんど変わっていないような気がします。それでもいつの間にか20年も経っている。そのことがとても不思議です。

 この先また10年後。
 カレーを食べてお茶をした今日の出来事を私たちは覚えているだろうか。お互いに何かが変わっているだろうか・・・そんなことを考えました。

 何もしないでも時間は経ってしまいますね。そろそろ、自分の人生であと一体何ができるか、考えてみたりもして。
 10年後も多分友人とは、こうしておいしいものを食べてお茶をしているでしょう。その時に、私は彼女と何を話せるか。
 1度きりの人生、まだまだいろんなことに挑戦してみたい。それをまた胸を張ってお互いに話せたらいいね。

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2009.02.09

poem(77)

「一人旅」

一人で旅をしているのはさみしくないか、って?

そうだね
たとえば旅先のビジネスホテルで
近くのコンビニで買ったおにぎりとお茶で
晩ごはんにするときなんかはちょっとさみしいかな

ビジネスホテルがある都会ならまだいいけど
もっと地方でビジネスホテルもないようなところだと
一人で泊まれる場所や食事をする場所を探すのに苦労する

でも体裁にさえこだわらなければ
最近は一人でも泊めてくれる旅館もあるようだよ
私はまだ旅館に一人で泊まったことはないんだけど

一人で旅をすることの一番の良さはね
自分の行き先を自分で決められることなんだ
誰かといっしょだったらそうもいかないものね

「一人きり泣けても一人きり笑うことはできない」
という、ある歌のフレーズがあって
聞いたときは「確かにそうだなぁ」と思ったんけど
一人でもとても幸せに感じるときがあるんだよ

たとえば天気のいい日に
電車のホームに立ち
遙かの遠くの山々まで
見渡せるような朝とか

私の旅の目的は決まっていない
何のためにどこへいくのか自分でも分からない
そのことを不安に感じることもときにはあるけど

もうずいぶん長く旅を続けてきて
人の死に目に幾たびか出会った
逝く人を見送る度にいつも思った
「この人はたどり着けたのだろうか」

でも今はこう思う
たどり着くことが旅の目的ではないらしい、と

旅をすることの目的は
旅を楽しむことそのもの
好きなところにいって好きなものを見て楽しむ
翼はないけれどこの体一つで
もうどこへだっていける

だからきっともう何もいらないんだ

たとえ大好きなきみと
二度と会えなくても

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2009.02.06

ドラマ「ラブシャッフル」が好きなわけ

金曜日、夜10時からのドラマ「ラブシャッフル」を毎週楽しみに見ています。

8人の男女がシャッフルするので、いろんなカップルが見られるんですが、多分、このドラマがいいなぁ~と思うのは・・・

シャッフルして組み合わせが決まった男女は、1週間だけカップルとして付き合うんですけども、なんというか、このドラマに出てくる彼も彼女も、お互いに対して実に誠実なんですよ。

偶然決まった組み合わせなのだから、望んでカップルになったわけではないのに、ちゃんと、ルールにのっとり、目の前の相手に対してきちんと向き合う。

えらいなぁ。

自分を振り返ると、普段の生活で、こんなふうに他人と真正面から向き合ったことはあるだろうか。
誰かにちゃんとこうやって真正面から受け止めてもらえたことってあるだろうか。

多分ないな~~

まあ、ある意味で、当たり前ではあるのです。
ストレートに誰かと向き合うのなんて、誰だって面倒だし、怖い。

おいしいところだけ相手と共有して、いっしょにいてつらい相手だったら、無理して付き合わずにすぐさよならしちゃえばいい。そうやって生きていくほうが、誰にも縛られず、誰をも束縛せず、いつも快適でいられます。

でも…

そうやって生きているからこそ、互いから逃げずに、1週間限りとはいえ、ちゃんと相手と向き合って、どんな相手だろうと受け入れようとする・・・「ラブシャッフル」のそういう関係が、実にうらやましく見えるのです。

私は、今までの人生で、自分が誰かにすっかり受け入れられることなんてないって、思ってきました。ある意味、信念と言ってもいいかもしれない。最初からそんなに期待していなければ、少しの優しさや誠意でもうれしく思える。それだけで充分だと、ね。

周りを見回してみても、きちんと向き合っている人って少ない。
パートナーとだって、妥協や打算で折り合いをつけながら暮らしている人が大勢います。
もちろんそれが悪いわけじゃなくて、人間なんて所詮、そんなものだと、思ってきた節があります。

でも「ラブシャッフル」の人たちは、そうじゃないんだなぁ~

所詮はドラマだと言ってしまえばそれまでなのですが・・・ドラマの中でだけでも、ちゃんとそうやって、人と人とがしっかりと向き合う物語を作ることができるのってすごいなと、思います。

もしかすると、私自身がいろんな物語を作るのも、だから、なのかも。

現実の人間同士の付き合いなんて、軽く、軽く、流れていけばいい。
そこで得られない何かは、「物語」の中にあればいい。

もしかしたら、私が囲碁を打つ理由の一つも、これなのかもしません。
人と人とが、互いに正面からぶつかり合う。お互いから逃げずに誠実に。囲碁は、まさにそういうゲームで、囲碁でなら私もいろんな人たちと、そういう関わり方ができます。

ホントは物語と囲碁の世界以外に、現実でも、そういう関わり方を誰かと持てるといいんですが。どうもいくつになってもそこは未熟らしくて。
叶わない願いの代わりに、いつか「ラブシャッフル」のような物語を創れたら、というのが私の夢なのかもしれません。

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2009.02.01

厄除けの効果はまだ続いている

昨年、いろいろついてないことが続いたため、年末に明治神宮に厄除けにいってから1ヶ月。(その時の記事はこちら

ついてないときというのは、自分でも普段なら絶対しないようなミスをしてしまうもの。気をつけていても、ミスが起こります。
いつもしてるミスや勉強不足で囲碁に負け続けるなど、自分の至らなさが原因でまずい事態におちいるのはある意味、仕方がない。でも「ついてない状態」のときは、自分でも
「なんでこんなことが起こるのだろう???」
ということがいっぱい起こります。

年末の立て続けの災難には人智を超えたものを感じてしまったため厄除けにいったのですが、幸い、出張続きの1月も元気で乗り切ることができました。
よかったなぁ~と思っていたら、昨日、ちょっとしたトラブルが。

いつも土曜の午前中は、市ヶ谷にある、囲碁の総本山、日本棋院の囲碁教室に通っているのですが、朝、雨が降っていたので、持って行ったカサを、置き忘れそうになりました。
(失せ物、忘れ物は、ツキを測るのに最適な基準です。)

いやー、いかん、いかん。
忘れて棋院を出たのですが、すぐに気付いて取りに戻ったので事無きを得ました。

それはよかったんですが、その後、友人と昼食をとって、そのままその足で大宮の図書館に本を返しにいきまして。

埼京線に乗って大宮に着き、電車を降り、しばらくいく内に。

あっ!! カサがないっ!!!
電車に置き忘れたーー!
信じられない。1日に二度も同じものを忘れるなんて…

ホームを振り返れば、もう電車は出発してしまっています。あ~あ。

ビニール傘ならほっときますが、この日に持っていたカサは、しっかりした店で買ったいいものでした。

ふとみるとすぐそこに駅員さんが歩いています。埼京線の地下ホームでそんなにすぐに駅員さんがいること自体、珍しいことです。

駅員さんに、カサを置き忘れた旨を話しましたら、すぐに駅の事務室に案内されました。で、終点の川越に連絡していただけまして。電車が川越に着いたらカサを探してくれるとのこと。

とりあえずお願いして、私は図書館へ。図書館から戻る頃に伝えておいた私の携帯番号に電話が入り、カサは川越で無事に見つかりました。

で、結局、川越駅まで、自分で取りにはいったんですがね~(近くはないな、川越^^;)

でも、ちゃんとカサは手元に戻ってきました。

何かを無くして困っても、こうして戻ってくるうちはまだツキはあります。
大宮駅で、運良く駅員さんにすぐ会えたこと。誰にも持っていかれないで、川越ですぐに見つかったこと。川越で見つかるまでに大宮での用は済ませたので、時間的なロスは川越までの往復だけ、最小限で済んだこと。まだまだツキはあります。

こういうちょっとしたトラブルは、言わば黄色の「注意信号」です。
健康なことやいろんなことがうまくまわっていることに驕らずに、2月はいっそう慎重に堅実に過ごさないとな。

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