きみへの手紙
先週、ドラマ「ラブシャッフル」を見たときにこんなシーンがありました。
菊田さんという診療内科医の先生がいるんですが、その先生に、愛瑠(あいる)という女性がこんなことを言います。
「そんな菊りんやだよ。私の好きな菊りんじゃないよ。温かくて穏やかに海のように優しいあの菊りん、どこへ消えたのよ。だったら菊りんじゃない・・・」(後略)
その先生は、とても素敵で、優しくて、いい人なのですが、過去に恋人に自殺され、絶望した過去を持っています。
ドラマの中では、今でも、その恋人の死に、
「なぜ?」
という思いを拭いきれずにいる彼の姿が何度かでてきます。彼の恋人の自殺は、本当に原因が不明で。愛し合っていたのになぜか急に自ら死に赴いてしまった。
「ラブシャッフル」というドラマの中では、そんな菊田先生の前に、亡くなった恋人とそっくりの人が出てきます。菊田先生はそのことをずっと誰にも言わずにいるのですが、それが愛瑠という女性にはばれてしまいました。
恋人に似ている、というのは愛瑠ではありません。
菊田先生は男性ですが、恋人だった人も男性で。似ている人も男性。
菊田先生の恋人に似ている(でも本人はそのことを知らない)旺次郎という青年は、つい最近、海里(かいり)という女の子に恋をして、プロポーズをして、うまくいくかに見えたのですが、海里が突然、理由も無く旺次郎の前から姿を消してしまいます。
苦しむ旺次郎。それを見ている菊田先生。
元々、旺次郎が海里と出会ったきっかけを作ったのは、実は菊田先生でした。
愛瑠は、菊田先生が最初から、自分の恋人だった人に似ている旺次郎に対して、過去「突然恋人をなくして苦しんだ自分」と同じ目にあわせ、菊田先生が旺次郎に接近するきっかけにするつもりだったのではないか?と疑っているんですな。
で、冒頭のシーンとなります。
菊田先生に愛瑠は、自分の疑いをストレートにぶつけます。菊田先生は、それを、否定しない。そんな菊田先生を愛瑠が責める。
・・・私は、このテレビのストーリーとは関係なしに、愛瑠の言葉にふと考えこんでしまいました。
第三者から見て、「あたたかくて穏やかで優しい人」。
本当は、その人も、心の内に耐え難いほどの絶望を抱えている。でも決して外にそれを出さない。誰に対しても優しく接している。
人は、そんな、その人の外側を見て好きになったりする。でも、本人からしたら・・・本当の自分の絶望も知らない人間に、「好き」とか言われたって、
「俺のホントの姿も知らないくせに」
と思いますよねぇ・・・
でも・・・でも。
私は思ってしまいました。
別に「ホントの姿」なんて誰にも知らせる必要はないんじゃないかと。
自分の演じている「優しい人」を誰かが必要とし、愛してくれるなら、別に相手が本当の自分を知らなくても、それはそれでいいのかもしれない、と。
いえね・・・
私は今までずっと
「本当の私を知らないのに、私のことを外側だけ見て勝手に判断されても困る」
と思ってきました。
過去、人に「結婚向き」だとか「いい奥さんになる」とか言われたことがあるんですが。
本当の私は、きっとあまり優しくもないし、働きものでもないし、思いやりもないのかもしれない。でも、人に嫌われたくないし、嫌われるよりはよく思われたいから、優しいふりをしたり、相手を思いやったりする。
「嫌われたくない」という強迫観念で優しいふりをしているんだよなぁ。
でも「本当の自分」なんて、他人に分かってもらう必要なんか本当はなくて。
私の「やさしいふり」が誰かの役にたったり、誰かを癒したり、誰かがそれを好きになってくれたなら、それも「私」の一部分ではあるんだし、別に「本当の私はそんなじゃない」なんて、相手の好意を否定する必要なんてないのかもしれないなぁと・・・
ドラマ「ラブシャッフル」の菊田先生は、私にとって、そういう存在です。
自分の絶望を誰にも言わずに、抱えたままで。その思いを分かち合える人間なんてこの世界のどこにもいない。それでも・・・菊田先生は、愛瑠や旺次郎や、そしてドラマの主人公であるうさ(玉木宏さん演じる宇佐美啓(うさみ・けい))と出会い、いい信頼関係や友情を育んでいく。
それを見ていたらね。
菊田先生ほどの絶望を味わった経験もないくせに、一人で勝手に、自分の頭の中の存在でしかない「本当の自分」にこだわって、誰から自分を評価されても、それを素直に受け止めることが出来なかった自分を、
「ばっかだなぁ・・・」
と自戒してしまったのでした。
ということで、さて。
この記事のタイトルは「きみへの手紙」。
私は今、きみにはどう見えていますか?
その姿こそ、もしかしたら、私の頭の中の「本当の私」よりもずっと、実は「真実」に近いかもしれないから。
いつか、機会があれば・・・きみから見た私の「本当の姿」を、私に教えてね。
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Comments
難しい質問ですねぇ、直接答える代りに、「ふりをする」ことに関連して少し思うことを・・・
「他人に優しく」というのは親や先生からよく言われますね。孟子は、井戸に落ちそうな子供を見たら誰でも助けようとする、ということを性善説の引き合いに出しています。これは「優しさ」とは少し違いますが、「優しさ」は「善」の一部と思われ、根本にあるのは「他者への思いやり」ではないでしょうか。
一方荀子は、善は教育によって身につくものと言っていますが、全く素質がなければそれも難しいと思われるので、優しさをふくむ善は、程度の差はあれ、人が本来持っている資質だと思います。
でも、他人によく思われたいから優しさを演じるということも現実にはあり、それこそ教育の効果の一つでしょうが、長く付き合えば化けの皮がはがれるはずです。
実のところ、「本当の自分」は自分にも他人にもわかり得ず、二重の「誤解」をかかえながら付き合っていくのだと思います。そのうちに知らなかった面が見えてきて、それが決定的に許せないことなら、交際は終わるわけです。
「優しい人」と思っていたのにそうでない面が見え、そっちが本質と感じた場合などですが、ひょっとすると、それも「誤解」かもしれませんね。
何が言いたいのかよくわからないまま、長いコメントになってしまいました。すみません^^;
Posted by: 春海 | 2009.03.20 18:38
おお~♪
春海さんには私の記事の趣旨が理解していただけたようで大変嬉しいです。
「優しい人だと思っていたらそうじゃなかった」
私は誰かにそう言われるのが怖くて、誰とも付き合えないで今まできたのかもしれないなぁとたまに思うのですよ。
「優しくない」のが本当の自分で「優しい」と見えるのはそういうふりをしているからで。
でも、人から「優しく」見えるならば「優しくない」と思っている「本当の自分」の方が虚構で「優しい」方が本当かもなぁ~~。いや、本当じゃなくたって「本当」ってことにしとけばいいんじゃないかと。
それで誰も困らないんじゃないかと^^
でも案外、外から見ても「優しく」見えてなかったりするかもしれないので、人の目というのも案外あなどれません。
あ~怖い、怖い(苦笑)
Posted by: BUBI | 2009.03.22 00:30