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June 2009

2009.06.28

カフェカロチャのサクランボスープ♪

Cherry_2
京浜東北線の北浦和駅から歩いて5分くらいの住宅街の一画に、ハンガリー料理のお店「カフェ カロチャ」があります。

親しい友達がハンガリーが好きで、そこへ旅したときの話を聞いてから、自分も行ってみたくなって訪れたのは、もう4年前の話になってしまいましたが、カフェカロチャにはそれからもう何度かおじゃましています。

毎年、今の時期には、写真のサクランボのスープを出しておりまして。これがさっぱりしてとってもおいしいのよね~。今年のスープもまた格別でした。

夏にはいつもこのお店のオーナーは、お店はしばらくお休みにして、ハンガリーにお住まいの娘さんのところへでかけて、新しい食材などをいろいろ仕入れてこられます。

ハンガリーにはなかなかいけないけれど、時たま、こちらを訪れて、ハンガリーへ行った時の風景を思い出しながら、おいしい料理に舌づつみを打つのでした。

下の写真は、そば粉のクレープとサラダです。上の方に写ってるのはホットサンドです。

Karocha_2

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2009.06.24

poem(79)

もし私が男性だったら
いいだんなさんになれたのにな
結婚相手としては申し分ないと思うのよね

堅実な仕事についていて
土日は基本的に休みだし
きみのことを一番よく理解していて
何よりきみをそばで見ているのが好き

子供がいたらきっといいパパにもなるよ
いっしょになってゲームもするしマンガも読むけど
言わなきゃいけないことはビシッと叱る
そしてときには地球の未来を
いっしょに語ったりなんかして

きみが行きたいなら旅行だって行かせてあげる
きみがいなくてもご飯のしたくは自分でできる
きみが何かで迷った時はちゃんときみの話をきいてあげる
病気になったらいっしょに悩もう

きみが夢を追いかけていけるように
きみを支えずっと応援するよ
この先もずっときみがきみらしく輝き続けられるように
私には自分のことではあまり夢はないけれど
それが今の私の夢かもね

でも残念だな
私は女性だから
きみを守ってあげる
きみを幸せにする
そんな人にはなれないね

でもまあいいか
女性だから
この先何があったって
ずっときみと友達でいられるんだから

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2009.06.19

「殺人」という重荷を負って

昨日、テレビドラマ「アイシテル~海容~」が最終回を迎えました。
ドラマとなったのは、小学生の男の子が、近所に住んでいたもっと年下の男の子を殺してしまうという事件が起こり、その加害者となった男の子と被害者となった男の子、そしてその家族の物語。

見ていて、被害者と加害者、どちらに感情移入をしたらいいのか、分からなくなってしまうドラマでした。
どっちの気持ちも分かる。
そして失われた命は、誰を責めようと、どう悔いようと、その子のことを忘れなくても、忘れても、今、生きている人間が今更何をしたところで、二度と戻らない。

その取り返しのつかない事実の前で、被害者は一生加害者を許すことはできなし、加害者も許されることがないのを分かっていて。

それでもドラマの中の家族たちは、その事実の重みから逃げずに受け止めて、今後の人生を怒りや憎しみや悲しみを超えて生きていくというお話でした。

いろんなことを考えさせられました。

でもほんと、最後はそうなのだな。
どんな苦しみもどんな悲しみも、その後を生きていく人間は、それに囚われることなく、また新しい時間を生きていかなくてはいけない。
たとえ起きてしまったことがどんなに悲惨な出来事だったとしても、です。

自分の母親のことを被害者の少年に悪く言われてかっとなってしまって、もちろんいろいろな不幸な偶然も重なって、その子を殺してしまった男の子は、家裁の調停が終わり、更正施設で1年間を過ごします。
そして出てきてからも、自分は笑ってもいけないし、お父さんやお母さんのそばにもいちゃいけないんだと思っています。
自分は人を殺したんだから、死刑になるべきだったんだとね。

でもお母さんはその子をたたいて、その後、抱きしめて、いっしょに罪を背負って生きていかなきゃいけないことを男の子に話すのですよ…

難しい。
「殺人」という一生償うことが叶わない罪を背負っても、生きていくことを科せられた彼の一生を思うと、何とも言えない気持ちになってしまいます。

もし私だったら、その後の彼の人生をどう書くだろう。

たとえば彼が大人になって好きな人ができたり、結婚して自分の子供をも持ったりしたときに…

被害者の子供のお母さんは、加害者の子供にあてた手紙の中でこう言っていました。

「そのとき(あなたが愛する人と出会い、子供を持つことになった時に)初めて、あなたは自分のしたことがどんなことだったかを知ることになるでしょう」

だから、生きろ、と。

なんというか…これは救いなのかな。呪いなのだろうか。

以前にも書いたことがあるのですが、私は三原順の「はみだしっ子」というシリーズのマンガを学生の頃に読みまして、今でも忘れられない作品となっています。

そのマンガの中でも一つの殺人事件が起こり、主人公である一人の男の子はずっとそれを背負って、最後には家族の元を離れ、その罪を一人で清算しようとする。

…まあ、彼もまた、生き続けることを選択せざるを得なくなってしまうんですけど…

それが救いなんだろうか、呪いなんだろうか、というのは「はみだしっ子」の登場人物である、その彼の問いかけだったんですけど、その子のことが好きだった私はそれに答えることができなくて、「はみだしっ子」を最終巻まで読み終えて、なんともやるせない気持ちになりました。そして、今でも、こうして折りにふれてそのエピソードを思い出します。

生きていくってことは「変化」に他ならず、生きている限りは、その中で病や死や失恋や裏切りや拒絶や喪失・・・あらゆる絶望と向き合わなければならない。

だから、以前はよく、「生きる」ということと、「愛」とか「信念」とか、要するに「変わってはならないもの」との相克を考えて悩みました。どちらを重視するのが人としてよりよい「在り方」なのだろうと。

おそらく、人によって答えは違うし、その全ての答えに正解がないのだろうと思うので、最近の私は悩むことさえも「たま」になりましたが、みなさんはさて、どっちだと思われるでしょうか。

そしてまた
「他者を殺めた人間が自分が生き続けることの正当性をどう語れるのか」

・・・ね?グレアム。今でも私は彼の問いに答えることができません。

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2009.06.14

年齢詐称疑惑

「男と女と笑顔とあいさつ」にたくさんコメントをありがとうございました^^ いえ、実はこの話ね・・・

このブログを読んでくださっている人はご存知でしょうが、最近、私は転勤になりました。

新しい配属先は社内の情報システムを取り扱う部署なんですが、私にはコンピュータ関係の技術的な知識は、まったくありませんし、今まで、そういう部署についた経験もない。

正直、ちょっと参りました。しばらく、ろくな仕事ができないんじゃないかと。

その、ろくな仕事ができない状況の中で・・・やっぱ、女性でよかった、と思うのです。

毎朝、早めについて、元気に挨拶。それだけでも、とにかく実践、実践。

多分、男性だったらいたたまれないと思います。分からないことだらけで周囲に聞かなきゃ、ほんと、何も分からないわけで。よけいなプライドは捨てないといけないのは当然としても、男性だと「コンピュータのこと、分かりません」っていうのも、女性がいうのよりももっと、「男なのに?」的な見方をされてしまうのではなかろうか。

金曜日は、同じ係のメンバーで飲みましょうの会だったのですが、私よりもずっと年下の若い女性二人とその他大勢の男性陣の間で、私のポジションはかなり微妙で、宙ぶらりん状態。飲み会の間は、ひたすらニコニコしてました^^; 私はお酒がだめなので、飲みに徹するわけにもいかない。

若い女性陣はもともと知り合いだったらしく、おしゃべりをしていましたが、私はまったくその輪に入れませんでした。まーそういうもんよね。そのくらいでへこまない図太さはとりあえずあります。

男性陣の方々は、気を使ってくれて、ちゃんと話しかけてくれました。よかったなぁ。

よかったなぁ・・・はいいのですが、そこで衝撃の事実が一つ発覚しました。

今、私にいろいろ仕事の引き継ぎをしてくれている、コンピュータにとても詳しいベテランの男性がいまして。ちょっと髪に白いものが混ざり始めてはいますが、職場のみんなに頼られている重鎮で。

私やその方(仮にSさんと致しましょう)の上司にあたる方がいいました。

上司「BUBIさん(仮名)はSさんと同じくらいなの?」
 私「同じくらい・・・というと年齢ですか?(にっこり)」
上司「うん、まあ・・・そういうことかな、あはは」
 私「Sさんておいくつくらいなんでしょうか?」
上司「いやぁ、髪とかみてもだいたい分かるでしょう。Sくん、きみ、いくつだっけ?40になったのかな」
Sさん「まだですよ~。あと2年あります」

・・・唖然・・・

Sさんて、私よりも年下だったのかーーーーーっ!!

絶対に、この先も自分の年齢、言いたくないと思った瞬間でありました。

Sさんにはいつも親切にいろんなことを教えていただいています^^
私はどうも年齢より若く見えるようで、その分もちょっと得できているような気が、その瞬間、ものすごくしました。
(ばれてたら怖いよ)

今の私は、仕事は全くできてないので、その意味で年齢には全くつりあってないのですが、新しい部署にきちゃったんだからしょうがない。でもそのことを許容してもらえるには、女性であること、若く見えること、もろもろ活用できるものは活用するしかない状況におりますです。

前の職場だったら、組織も小さかったし、そこにずっと勤務してるわけだから年齢もごまかしようがないわけですが、転勤してきたばっかりだから・・・えへへ^^;

もしかすると、年齢だけで言えば、その場にいた一番上の上司の次が私だったのかも。
いやぁ、まいった、まいった。

年齢はどうあれ、これからもいっぱい教えてもらって、もう少しみんなの役に立てるようになりたいものです。

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2009.06.11

男と女と笑顔とあいさつ

昨日、ロンドンハーツの「格付けし合う女達」を見ていましたら、スザンヌが確かこんなことを言っていました。
(うろ覚えなので正確ではありません)

『女の子は勉強ができることよりも、大事なのはあいさつと笑顔。それさえできれば大丈夫』

・・・ちょっと残念な気もしますが、これはあたっている気がします。

まあ、勉強は人のためにするものではないので、できた方が自分にとって得なことが多いのですが、それとは別に、世の中を渡っていくには、女の子のあいさつと笑顔は「それさえできれば大丈夫」ってのは確かかもしれなません。

昔、大学生だったころ、社会人の女性の先輩が大学にきて、

「女が就職して社会に出るのに、一番大事なことは、周囲の人に可愛がられる女性になることです」

と言っているのを聞いて、そのときは、「なんなのよ、それ・・・」とちょっとむっとした覚えもあるんですが(まあ当時は女性の職場での位置づけって、庶務やお茶くみや飲み会の席でのお酌係だったりしたもんな)。「かわいがる」というコトバはちょっと語弊がありますが、明るい笑顔とあいさつは、意外と欠かさずにおくと、もろもろお得な気は確かにします。

で、ちょっといろいろと考えていたですが・・・ちょっとイメージしてみてください。

ここに男性が二人います。二人は初対面だとして。
そのときに男性同士が思うことって、こんなふうな感じじゃないでしょうか。

『こいつは俺よりも上だろうか、下だろうか』

年齢じゃなくて、力関係が上か下か、ですね。相手が若く見えても一流企業で部長とかやってたりして、自分が中堅企業の係長で、オマケに相手は取引先だったりしたら、相手が上。

で、上下関係がはっきりしたら、お互いにほっとして、それを前提にお互いの関係を築くことができます。

ポイントは、どっちが上でもどっちが下でも、上の人は下の人を見下してるわけじゃないということ。
上の人にとって、下の人はとても大事です。多くの下の人の人望を勝ち得て初めて人の上に立てる。多くの人を自分の下に従えて、その力を自分の力にできれば、その人はもっともっと上にいける。。

下の人は上の人を尊敬しついていく。本当に力があり、立派な人のイニシアチブで、仕事をしたり、いい人間関係を築いていけたりしたら、それは幸せなことです。

狼のような集団の群れを想像すると分かりやすいのですが、ボスがいて、その下に従う部下がいる。
元々、人間も群れだったから、そういう性質を持ってるんだろうなと思います。

で、そういう男同士の上下関係は実力勝負ですから、笑顔も挨拶も関係なく(多少は関係ありますが)要は、能力があるか、ないか。仕事ができるかできないか。無愛想でも仕事をきっちりやる男性なら一目おかれますし、そうでない男性は笑顔でごませるはずもない。

でもこれが一人が男性で一人が女性だと全然違うんですよね。

男性は女性とは権力闘争はしない。相手が女性なら、男性としてははなっから自分が上だとわかっているし、女性も男性がそう思っているのに対し、あえて逆らったりしません。笑顔ではきはきと挨拶もできる女性なら、男性は「この子にはいろいろ教えてやろう」って気になるだろうなー。

では二人とも女性同士だったらどうなのか。

男性が権力闘争をして上下関係を決めていく生き物だとすると、女性っていうのは集団の中で、集団を維持するための環境を作る性質を持っているような気がします。

だからね・・・女性が二人いたら、女性は相手に対してこう考えるんですよ。

『この人は仲間か、そうでないか』

仲間と分かれば仲良くするし、そうじゃなかったらシカトです(爆)。
笑顔とあいさつは『私はあなたの仲間ですよ』という意志表示なのかもしれません。仲間なら、能力のあるなし、関係なし。変に能力がありすぎるとやっかまれたりもしますから、スザンヌのようにおバカに見えた方がいいくらいかもしれません。

まとめましょう。

男性は他者との関係を「上下関係」としてみている。
女性は他者との関係を「仲間かそうでないか」でみている。

上下関係の中では、「能力」やそれを背景にした「肩書き」が重要で、別に笑顔があろうとなかろうと関係ありません。

でも集団の中で、その集団を維持するために「和」を形成する性質をもっている女性は、笑顔やあいさつで自分を相手に「仲間」だと認識させる能力がもっとも大事。それがないと他者に受け入れられにくい。
そういうことなのかな、と。

私はいろんな意味で「実力」はあまりないので、男性だったら今よりももっと大変だったろうなぁと思います。女性だから、多少おバカでも、それを愛嬌としてみてもらえる。これは・・・男性と比べたらすごくお得ですよ。

ただ、だからこそ、実力のある女性は、実力があるのに男性からそれ相応の評価をしてもらえない上に、女性からは仲間はずれにされたりもして、大変なんだろうなぁ・・・

でも、考えてみれば私は、そういう意味で「実力のある女性」には出会ったことはないんです。男性顔負けの仕事をして、女性にやっかまれる、みたいな。ドラマにはありそうですが、現実はそういう女性ってあまりいない。
どの女性も、ある程度の実力を持ちながらも、女性らしい弱さや愛嬌も持ち合わせている。

それが、一番、女性が生きやすく、世の中を渡っていきやすいからなのでしょうね。利口な女性ほど、それを知っていて、ちゃんとそれに適応している、ということなのでしょう。

おバカでもそうでなくても、女性が女性としてこの世界を渡っていくには、やはり、笑顔とあいさつって大事かもな。

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2009.06.08

美女揃いのルーブル美術館展

 先日、東京・上野のルーブル美術館展へ行ってきました。
 
 フランスのパリへは一度だけいったことがあって、ルーブル美術館も行ったんですが、海外旅行では、私は美術館へ行くのはこりごりです。日本の美術館じゃ考えられないほどヨーロッパの美術館て美術品がどっさりあるんですよ。ルーブルなんてそうじゃなくてもものすごく広いですから、ちょっと行っただけじゃ見きれないし、仮に見きれたとしても、何百点も見たらお腹いっぱいで何がなにやら、だろうな。

 ルーブルの絵画は、数多の所蔵品の中でも厳選された作品が、日本にやってきて公開されたときにありがたく拝見するのがいい。激混みなのは覚悟の上でもね。

 今回のルーブル美術館展は17世紀の作品を中心にした展覧会でした。
 難しいうんちくを語っても仕方ないので、ミーハーな私が感想を書くとするとこうなります。

「なんって美しい女性ばかりなのかしら♪」

 女性でも、いえ女性だからこそかもしれませんが、純粋に「女性の美」に圧倒的な魅力を感じます。

 まず入って、「マリー・ド・メディシスの肖像」の壮麗さ、「ド・ブロア嬢と推定される少女の肖像」のかわいらしさ(はだしにサンダルがまたお茶目なのです)に釘付け。ベラスケスの「王女マルガリータの肖像」も期待に違わぬ可愛さです。

 展示会の後半は17世紀なので宗教画が続くのですが、天使や神話に登場する美女たちの美しさといったら、これがまた…。特に受胎告知の「聖母」と「天使」のワンセットなんて、ずっと絵の前から離れたくないくらいでした。
 他に「6人の人物の前に現れる無限罪の聖母」「エスランの聖母」は聖母が本当に見ているだけで癒される感じですし、「アンドロメダを救うペルセウス」「アイネイアスの傷口にディクタムナスお薬液を注ぐウェヌス」は、女神や神話の美女が美しい裸身で描かれているわけですが、その中でも極めつけが…

 「バテシバ」という裸婦の絵画。きれいだぁ~。胸元のラインが美しすぎて、目がつぶれそう。
図録によると、バテシバというのは、聖書物語の中の人物だそうですが、まあ、背景が分からずとも、この絵の女性の美しさは見る人の心を捉えます。

 もし男性が、ルーブル美術館展を見て、同じ感想を書いたら、きっと女性陣から総すかんを食うんだろうな。
 いくら絵画なんだから別次元だろうと行っても、正直、私ももし恋人がいて、横でしきりに「あの絵の女性は美しかった」と何度も言われたら、ムカムカしてきそう(苦笑)。かわいそうだなぁ、男性の方々って。
 私は女性なので、惜しみなく美しい女性には美しいと言えますのよ。こういうとき女性は得だわ。
 
 もちろん展覧会には、女性の絵画だけでなく風景画や静物画や男性の絵画もあったんですが、これら女性の美しさの前ではかすんでしまいます。
 女性の美はすばらしい。そしておそらくそれが美しいと感じるのは、永遠ではないからなのかもしれません。

 絵画はそれを絵画として永遠に残すことができる。これを「奇跡」と言わずして何と言おうか。

 行ったのが金曜日の夜だったので、「レンブラントって誰?」って周り中に聞こえる声でおしゃべりしている女子学生のグループや、人混みの中、パートナーの女性をかっこよくかばおうとして妙な動きを見せるカップル(けっこう困るのよね)に混じって、背広にネクタイ姿の男性も目立ちました。そういう男性陣はルーブル美術館展をどう見られたんでしょうね。 聞いてみたいな。

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2009.06.04

非婚を語ることはタブーなのだろうか?

今日は、出生率が3年連続増加のニュースをよく目にしました。

無論、よいことです♪よいことですが。

ニュースは、まだまだそれでも出生率が低い、女性が1生のうち子供を生む数が少ない、という論調です。
じゃあ、子供を生める環境を作りましょう、という流れなんですが・・・

なぜそういうニュースのときに「非婚」の問題って取り上げられないのだろう???
なんかタブーなんですかねぇ?

別に語ってもよいと思うのですよ。
無論、昔とちがって、結婚して家庭をもって子供を生んで育てることだけが女性の幸せではなくなったわけですが、なくなったからこそ、いろいろな選択肢の一つとして、結婚して家庭を持つ、という生き方もけっこういいよって、もっと語っていく必要があるんじゃないかと。

女性だけの問題でもなく、男性も非婚率、上昇してると思うのです。
もし出生率増やしたいなら、男性にも家庭を持つことの良さみたいなものを浸透させていかなければいけないんじゃないかなぁ。

・・・うーん・・・
結婚して家庭をもつのは当たり前であり、自然だから、そんなこと語るまでもないと思ってる人たちってまだまだ多いのかしら。
それは甘いと思う、絶対に。

当事者の我々にとっては・・・というか、もう私は当事者からはずれかけていますが・・・出生率、出生率という前に、結婚してないんだから、ニュースのポイントがはずれてるように思えてならないです。結婚してなくたって子供はできることはなくはないですが、現実問題、一人で子供を育てるのは、人手、という面でやはり厳しいし。それに、子供というのは、やはり相手があってできるものだと思うので、相手がいないのに子供だけ作る気にはさすがになれません。(友達で子供だけ欲しいといってる人もいなくはないですがね)

出生率の低下を騒ぐわりには非婚率の上昇のための対策って何もされてないよなー。
まあ、最近は婚カツなんてコトバも流行りだしていますから、だんだん、そういうことが必要になってきているのを気付いている人は気付いているのかもしれません。

私個人も、出産適齢期に子供を作らなかったので、出生率低下のニュースを聞く度に申し訳ない気持ちになります。
というか、単純な話、女性として生まれたからには、自分の子供をもつことはやっぱり憧れます。いろいろ苦労はあるだろうけど、子供を育てるということはやっぱり素晴らしいことだと思いますし。

でも、残念ながら、いっしょに作ろうと思える相手がいなかったもんで。だったら、しょうがないよなぁ。
誰の子供でもいいわけじゃないもんな。

もう自分の問題としては過去のこととなりつつありますが、そのうち、この問題は総括してみようかと。

子供は作らなかったけど、その代わりに何かこの世界に残していけるものを作れたらな。

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