きれいごとを言っている場合ではなくなってきたぞ。
え~、続いて囲碁の記事であります。
下記の記事で「次の大会もがんばりますよ」と書きましたが、件の大会が11月15日にありました。
結果は、全敗でありました~
いやぁ、今、下記の記事を読むとなんだか先週はまだ余裕だったんだなぁと思います。日中友好囲碁大会ではそれでも1勝しましたもんね。
毎年出場する日中友好囲碁大会に飽きたらず、翌週も大会に出たのは、その大会が日本棋院の囲碁教室に通っている人たちを対象にした大会であったことが大きな要因でした。
最近、自分の所属する教室ではいつも同じ人に負けるので、
「自分の教室は昇級基準が厳しいだけで、他流試合でならもっと勝てちゃったりするんじゃなかろうか」
それに囲碁教室に通ってるような人たちなら、変な手を打ってこないだろうし・・・
それが甘い考えであったことをこの結果で思い知りました。自分の教室の方がむしろ級位の認定に関しては甘いくらいだった!
気持ちの持ちようとかその日の体調とかいう問題でもなく、昇級できないのはつまり自分が弱いからでした・・・
全敗してからここ二、三日、少し考えていたことがあります。
私はなぜ囲碁をやるんだろう。
囲碁が好きだから?・・・いや、胸を張ってそう言えるほど「好き」って感じではない。あれ、それならどうして囲碁を続けてきたんだろう。
自問自答していて気がついたことが一つ。
これを読んでいる皆さんは自分に自信はありますか?
もちろん人間なら短所長所、いろいろあるとは思いますが、これだけは胸を張れること。
たとえばこういうのでもいいと思うのです。
「自分には未熟なところがあるけれど、この子にとって母親は自分だけ」
他の誰と比べてどうだろうと子供にとっては唯一無二の母親♪
お母さんというのはもうそれだけで、誇りに思っていいことだと思います。
私は単身者ですから、子供はいないしなぁ。
誰かや何かにとって唯一無二ってことないしなぁ。
もともと自信が持てる何か、なんてほとんどないんですよね^^;
けれど・・囲碁ってね。そういう意味では面白い。
運や偶然に左右されず、実力だけで勝負が決まります。
囲碁で結果を残せるということは、私にとっては自信につながることでした。
勝敗で決まる優劣が絶対的であり、感情や運やそのほかの余計なものをさしはさむ余地がない。
もちろん、これはいいことと悪いことの両面があり、負ければその結果を自分で引き受けるしかなくて、非常に落ち込むんですが、その分、勝てたときの達成感というのは、何につけても自信がない私にとって、かけがえのないものでした。
こう書くと、勝つことにしか関心がないように見えますが、勝つにしてもどんな手を使っても勝てばいいわけじゃなくてやっぱりいい碁を打って勝ちたいという思いもあって。
ちょっとずつでも有段者に向けて成長して、いい碁を打っていけるような自分になりたい。それをかなえることが、この、絶対的な優劣がある囲碁だからこそ、自信につなげていけるような気がしました。
で。
やっぱりそのためには、成長しなきゃ意味がない。
囲碁を始めた頃から上手(うわて)の方々に「碁は勝ち負けじゃない」って散々言われてきました。
でも、負けた碁に意味がないとは思いませんが、負けた碁も次に勝つための布石であればこそ意味がある。ずっと負けっぱなしでいいわけがないと思うのです。
なので負けっぱなしで、もう成長はないならやめる。
まだ成長できるのが自分に証明できたなら、これからもずっと続ける。
今年の決意は、囲碁に賭けた私の「自信を持てる自分になる」という夢の、総決算だったのかもしれません。
ということで。
泣いても笑ってもタイムリミットはもう近づいてまいりました。
「好きじゃない」とか言いながら、あっさりやめる気になれないのは、やっぱりそこに夢があるからであろうと思います。
夢を賭けてのチャレンジですから、これはほんとにやるだけやってみるしかありません。
大会で全敗して、かなり覚悟は決まってきました。残り1ヶ月半、スパートをかけますよ^^
表題は「きれいごとを言ってる場合では…」ですが、「夢」だなんてきれいな言葉になっちゃいましたね。
でもそれをかなえるためには本当は、七転八倒、泣いたり笑ったり、まさにきれいごとでは済まないプロセスを踏まなければ、「本気でかなえたい夢」なんてかなわないのかもしれません。
囲碁はいつだってこういうことを私に教えてくれるのです。
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Comments
気持ち なんとなくわかります。
でも、通らないといけない道なんだと思います。
私たちは、まだまだ負け続けないと
いけないんだと思います。
負けて負けて、その中からたくさん学んで
勝つということの意味を知るんだと思います。
そして、
勝つことの意味を知った人は
勝ち続けることに向かっていくんだと思います。
私は既婚者で子供がいます。
子供の成長がまさにそれです。
なんども失敗を繰り返して前へ進みます。
となりの子と比べたって無駄です。
平均点を気にしたって無駄です。
その子にはその子の成長のリズムがあります。
何十年も前にその過程を通った大人には
イライラすることも
あほちゃうかぁって思うことも
だめだ、こいつには才能ないって思うことも
ありますが、それこそ間違いの始まりです。
その子の芽を摘んでしまいます。
私たちは育っている最中なんです。
いっぱい失敗しましょう!
自分の中の芽を自分で摘み取らないよう
おおらかに構えて育てましょう!
Posted by: ゆう | 2009.11.18 01:55
私が最近はまってるドラマ”仁”のセリフに
”神は乗り越えられる試練しか与えない”と言うのがあります。
出典は聖書らしいです。
信者ではありませんが、
なかなか勇気付けられる言葉だと思いました。^^
Posted by: はみ | 2009.11.18 23:07
教室に通っているくらいだから、
きっと本格的に囲碁をやりたいんですね。
なんでもそうだと思うけど、
趣味範囲で満足できるかどうかが、
終着点の決め方だと思うんですよ。
歌うのが好き、でもカラオケで歌う事を楽しめたら充分という人もいれば、
いや、歌うからには人前に出てお金をもらいたいという人もいます。
囲碁も、勝とうが負けようが、
打っている事が楽しくて、
負けても、相手と一緒に打ち合って楽しい時間を過ごせた、
新しい発見ができて充実できた、
と感じられれば、それはそれでいいと思いますよ。
歌もプロになれないなら辞めるって道もあれば、
歌っていられればいいからと続ける道もあるわけですし。
夢って、全ての人が同じようには叶えられないのも現実ですね…
Posted by: あきら | 2009.11.19 07:39
>ゆうさん
自分自身に対してもできの悪い子供を見守るようなつもりでいればよいのかな~
「だめだ、こいつには才能ない」
と自分自身に対してあきれ果てることがしょっちゅうですが、そうするとこの子にこのままこれをやらせ続けることがいいのかどうか、迷っちゃうんですよ。
子供が
「え~ん、もう囲碁やめるぅ」
と言ったとして、親の立場だったら
「やりたくないならやめてもいいよ。でもほんとにやめたいの?」
と言うだろうな。
そして今の私はというと、そう訊かれて
「・・・やる・・・」(とりあえず年末までは)
というところ。あとは続けるのもやめるのも本人しだいといったところでしょう。
まったく、手のかかる子です。でも馬鹿な子ほどかわいいともいう(苦笑)。
>はみさん
「仁」いいですよね~。私もあのドラマ好きです。
無理だと思えることに挑戦し、成し遂げてしまうところがかっこいい。
でも、無理だと思えることに挑戦し、成し遂げられないケースも実際には世の中にはあるんだろうな。
そういうドラマの方がほんとはちょっと見たい気がします。
きっと非常に身近に感じられることでしょう。
>あきらちゃん
>教室に通っているくらいだから、
>きっと本格的に囲碁をやりたいんですね。
いやぁ~^^; 本格的にってほどでもないんですよ~
囲碁を趣味にしてる人たちって大体初段以上の人ばっかりなんです。
級の人はほとんどいない。
「碁会所」というところにいっても、級の人なんて相手にしてもらえません。
せっかく碁を覚えたからには、「趣味は囲碁」って堂々と言えるくらいの実力にはなりたいのですが、なかなかなれないので教室に通っています。
>なんでもそうだと思うけど、
>趣味範囲で満足できるかどうか
もちろん趣味でいいのです~
>囲碁も、勝とうが負けようが、
>打っている事が楽しくて、
>負けても、相手と一緒に打ち合って楽しい時間を過ごせた、
>新しい発見ができて充実できた、
>と感じられれば、それはそれでいいと思いますよ。
うんうん、そうなのよね。
私は囲碁を打つこと自体は楽しくないから、そこが問題なんだよな~
たとえばダイエットみたいなものです。
ダイエットしている最中は楽しくないけど、それで体重が減ったら嬉しい。
だからそこを目指してがんばるわけです。
おいしいものをいくら我慢してがんばっても全然体重が減らなかったら・・・ダイエットや~めた、ってことになるかも。ダイエットの場合は、そういうときって間違ったダイエットをしている。
・・・ん? もしかして囲碁も同じかも?
Posted by: BUBI | 2009.11.21 01:44