« January 2010 | Main | March 2010 »

February 2010

2010.02.22

poem(85)

「おまじない」

何のために生きているのか
何のために生まれてきたのか
分からなくなって途方に暮れる冬の日の夕暮れ

こんなふうに言ってみる

『またきみに会うために』

ううん
それが詭弁であることくらい
きみに言われなくたって分かっているんだ

でもそう思うことで
私は次の一歩を踏み出せる
自問自答の迷路から
抜け出すためのおまじない

またいつかきみに会ったら
どんなところへ行ってきたか
どんなことを新しくやってみたか
楽しかったこと 嬉しかったこと
面白かったこと わくわくしたこと
きみがおなかいっぱいで
もうたくさんって言うくらい
話して聞かせよう

与えられた時間はまだまだ長い
何かを始めるのにいつだって遅すぎることはない
今が0でも これから何をやってみようかと
また考え始めることができる
全てはそこから始まる

『この間はね
 3年ぶりにスキーにいってきたんだよ
 雪もとてもいい感じで
 山頂から見る山々がとってもきれいだった
 スキーっていいね
 また行きたいな』

そうまたいつか
大好きなきみとね

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.02.15

グレアムの教え

前にも書いたことあるかな。

昔、グレアムがこんなことを話していました。
え? グレアムって誰って?
亡き三原順さんのマンガ、はみだしっ子というシリーズの主人公の一人です。
また二次元の話かよ、と言わず、まあ、ちょっと聞いてください。

AとBという二人の人がいて。
AはBが幸せじゃないと自分は幸せじゃないと思う。
BもAが幸せじゃないと幸せじゃない。

BはAが幸せじゃないのは、自分が幸せじゃないからだと思って落ち込む。
そんな悲しそうなBを見てAも悲しくなる。
悲しそうなAを見てますますBは・・・

という負の連鎖がありまして。
お互いがお互いのことを愛していて、自分のことよりも相手の幸せを心から願っているのに、なぜか二人とも互いの姿を合わせ鏡のように見ながら、ずっとその不幸せな状態から抜け出せなくなってしまう。

この負の連鎖は、AかB、どちらかがその思考回路から抜け出して、自分が幸せになることを考えられれば止めることができます。

Aが幸せになればBも幸せ。
Bが幸せならAはもっと幸せ。

件のグレアムは、そんなふうにいつも先に幸せになって、ともすれば負の連鎖に落ち込みそうになる自分を救ってくれた子がいたことを、知り合いになった少女に打ち明ける、というのがそのマンガでの1シーンでありました。

「はみだしっ子」を読んだのはまだ10代の頃でしたが、その後も折りにつけ、このグレアムの話を思い出します。

人を好きになったときって、一番、望むのは、好きな相手を喜ばせたいということだったりしませんか。
そのためにプレゼントを贈ったりして。相手のために自分ができることを考える。
でも、それって決していい結果をもたらすとは限らない。

だって相手にとっては、好きでもない人から勝手に「きみ、これ欲しかったよね」と本当は欲しくもないものを贈られたところで嬉しくもなんともないわけで。
「てめぇの自己満足で、こんなもの贈ってくんな」
と思いつつ、そんなことを言って相手を傷つけるのも悪いから、にっこり「ありがとう」と言ってみたりね~

冒頭のAとBのたとえは、これと同じことが「好きな相手」でも起こり得ることを示唆しています。両思いでもね。いや、両思いだからこそ、かな。

仮にAがBのためにと思って、ものすごい無理をして、たとえばうん百万するダイヤの指輪をプレゼントしたとします。
でもBはそんなもの欲しくない。苦労して手に入れたプレゼントなんかよりも、Bが一番望むのは、Aが自分のそばで笑って幸せでいてくれること。
「自分のために無理をさせてしまった」なんてのはBにとって負い目でしかないのです。

だからBはせっかくのAのプレゼントに全然喜ばない。
それを見てAは悲しくなる。悲しそうなAを見てBはもっと悲しくなる。「喜ばせよう」と思ってくれたAの期待に応えられなかった自分を責めて落ち込む。時には嘘をついて喜んだふりをするかもしれない。

でもそれも逆効果で。
Aは、本当は嬉しくないのに自分のために無理して喜ぶふりをするBに失望してしまう。というか大好きなBを喜ばせることができないどころか逆に気を遣われている自分に失望してしまう。それを見てまたBは・・・

もうこうなると、プレゼントなんてしなきゃよかった、ということになるわけですよ。あ~あ。

いや、なぜこんな話になるのかというと、やっぱりバレンタインデーだったからですな。
チョコレートもいいけれど、本当はAとB、どちらかが先に幸せになることが、お互いにとっての一番のプレゼントなんじゃないかしら。

自分が先に幸せになることがまるで罪悪かのように考える必要なんかなくて。
本当に好きな人のためを思うなら、何よりも自分が幸せでいることが一番大事です。

必ずしもこれは男女間の話に限りません。親子だって同じで。親は子供のために自分を犠牲にしていろんなことをやってあげたいと思いますが、そのためには親自身が自分を大事にできなければね。

だから私も…そんなふうに自分が先に幸せになって、私を大事に思ってくれる人を悲しませることのないように。
もっと言うなら、その人を幸せにするために、自分自身がいつも、未来への希望を持ち続け、幸せに生きていきたいな、なんて思いながら毎日を過ごしています。

…ん? そういう人、いたのかって? いやぁ~? それはまた別の話(おい)。

| | Comments (4) | TrackBack (1)

2010.02.12

「悼む人」

ずっと図書館に予約をしていて、やっと借りることができました、天堂荒太の「悼む人」。ベストセラーなので2010年2月現在、もう読了された方も多いと思います。

読んでみてびっくりしたことが一つ。

「これ、ほんとにそのまんま『悼む人』の話なんだ~~」

冒頭のプロローグで、まず「悼む人」がどんな者なのかが客観的な視点で書かれており、読んでいる人にも概要が分かります。
どうやら、日本中を旅しながら、亡くなられた方を「悼む」ということをしている人がいるらしい。

その人にとっては、悪人も善人も赤ちゃんも年よりも、全て同じ。
殺人だろうと事故だろうと病死だろうとそれも全て同じ。

ただ、その亡くなった人が、誰に愛され、誰を愛した人だったか、どんなことで人に感謝されたことがあったかを聞いて、その人が亡くなられた場所で地にひざをつき、その人が生きていたことを、そして亡くなったことを胸に刻む。

そんなことをして何になるのだろう?
その行為はどこへ行き着くのだろう?

知りたくて、読むのをやめられなくなっていきます。

悼む人、本人だけでなく、それをとりまく何人かの人たちを、その内面も含めて丁寧に語りながら、物語は進んでいく。
悼む人が淡々と旅を続けていくのに対し、周辺の人たちの生き様がまたとてもドラマティックで、ちゃんと、読者を満足させるエンターテイメントとして、この小説が成功しているのが嬉しい。

いい小説だなぁ・・・

最近は伊坂幸太郎の本を読むことが多かったりするものですから、物語に何か仕掛けとか寓意とか、これは何かのたとえなんじゃないかといろいろ勘ぐることも多いのですが、「悼む人」はとてもストレート。分かりやすい。

誰が読んでも、きっと「悼む人」の在り方を思い、人の生と死について考えさせられる小説なんじゃないかと思います。

・・・読書が好きで、マンガも好きで、アニメも映画も好きで、つまりいろいろな物語を読むのが好きな私ですが、時々、
「ああ、この物語に出会えてよかった」
と思う作品に出会うことがあります。
天童荒太の「悼む人」も間違いなく、私にとってそういう作品の一つとなりました。

きっともう図書館でも比較的容易に借りられるようになっているはず。私が言うまでもありませんが、興味がおありの方、ぜひご一読を。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2010.02.03

不思議なツール「ツイッター」

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。(土佐日記)

巷で評判のツイッターといふものを、我もしてみむとてするなり・・・ってわけで、私もツイッター、やってみています。

とはいえ、なんなんだろう、これ。不思議なツールだなぁ。

ツイッターには二つの機能があります。情報の「発信」と「受信」。

ブログやホームページやmixiなどのSNSがどちらかというと発信側に重きを置いているのと比べ、どうもツイッターは「受信」機能がメインのように感じられます。

使っている人の多くは、広瀬香美さんや鳩山さんなど有名人のつぶやきを読んでみたくて使ってるのかな。
その心理はちょっと分かりますが、私は昔から情報を「読み飛ばす」ということが苦手なので、今のところフォロー(受信する人)は3人しか登録していません。100人も登録したらそのつぶやきを全部なんて読めないもの(いや、読めなきゃ読まなくたってほんとはいいんですが)。

一方、「発信」側の問題としては。
ツイッターは自分のつぶやきを誰に発信するか、制限するようには作られていないようです(アクセスブロックの機能はあるのかな。まだあまり分からないのですが)。

たとえば、mixiでは自分の日記を、自分が「友達」だと登録した、いわゆる『マイミク』だけに公開することが可能です。つまり「発信」機能を制限することができるので、自分の発信を受信できる人が分かっているから安心していろんなことを書くことができます。一般公開のブログじゃ書けない本音の話とかね。

それにmixiは参加者がそれぞれ自分も日記を書いたり、プロフィールを公開してたりしているから「得体の知れない誰か」に日記を見られることはある程度防ぐことができます。

ツイッターのつぶやきはどこで誰が見てるか分からない。これじゃ怖くてたいしたことは書けないな・・・ツイッターを始めて一番最初にそう考えました。
文字制限もあるからどっちみちたいしたことは書けないですけども。

だから「おなかが空いた」とか「今日は雪が降った」とかどうでもいいようなことを書く。
誰が見ても別に問題ないようなことばかり書く。
でもそれって、面白いの???

つい自分のことをつぶやいちゃうからそういうことになるんでしょうか。
これ、「ケータイ小説」とか連載するのにはいいのかも。架空の世界、架空の自分でつぶやけば個人情報垂れ流しの心配もない。
それを面白いと思ってくれる人がいればフォロワー(自分のつぶやきを受信する人)が増える。つまんなきゃ増えない。
有名人でもない一般の人々にとってのツイッターの「発信」機能はそういうことなのかもしれません。

それに、なんなら個人は別に「発信」は使わなくたって「受信」専用でもいいわけで。
「発信」はたまに有名人の発言に返事したいときに使えばいい。相手はそれをフォローしてないかもしれませんが(苦笑)

ツイッターについてはこう言えるかもしれません。
受信は「私」(プライベート)に属し、発信は「公」(パブリック)に属する。

だから、好きな人の好きな情報をいくらでも受信できるけど、自分が発信するときは気をつけないと。
使う人が限られていた今まではたいしたことはなかったんでしょうが、これ、普及すれば、いくらでも個人情報を収集できちゃうし、悪用しようと思う人がいたらけっこう・・・若く美しい女性などは気をつけた方がいいです。ストーカーされちゃうかも。
思えばmixiだって、ユーザーが少なかったときは性善説でいけたんでしょうが、個人情報を利用しようとする業者とか諸々入ってきてから、かなり中身も変わってきたようですし。

いつの時代、いつのツールでも、結局道具をどう使いこなすかは、ヒトしだい。インターネットが世界に誕生してから、見知らぬ誰かとのコミュニケーションというのはいつだってリスクと隣り合わせです。
その中でどんな情報をどう得て、どう発信するのか。ツイッターはこれからどんな方向に成長していくでしょうか・・・

まだ、始めたばかりの私には、有名人でもない一般の人が、どうでもいいつぶやきを公開の場に綴り、それを常に見知らぬ誰かがチェックしているのってなんとなくちょっと不気味な気はしますが・・・。
(それを言ったらブログだって同じでしょうか(笑)。でもブログはまだ少しは人に読ませようと思って書いてるからなぁ~)

なんてことを言いつつ、たとえば中島みゆきさんがツイッターを始めたら、ぜひフォローしたいと思う私です。
でも、きっとみゆきさんはしないだろうな~。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.02.01

poem(84)

「1日(ついたち)」

1日(ついたち)って

昨日と同じ1日
明日と同じ1日
のはずだけど

何かが始まる期待に
なぜだかワクワクしている私がいる

今月は何を始めようか
今月は何をしようか

…きみは知っているだろうか

本当は私たちにはみな
等しく与えられているのだ

好きなことに使える一月(ひとつき)
好きなことに使える一年
好きなことに使える一生が

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« January 2010 | Main | March 2010 »