平等という名の危険
かくも“社会党的”害毒に満ちた菅政権/阿比留瑠比(産経新聞記者)
という記事を読みました。
個人的に篠田さんの「弥勒」を読んだばかりなので、ちょっと衝撃を受けました。
「夫婦別姓」「ゆとり教育」「外国人参政権」・・・一つ一つは悪いわけではないんだけど。
なぜ「平等」を目指すことが「独裁」を生み出すのか?
社会主義って何なのだろう?
改めて考えてみました。
※※※※※※
すごく単純なたとえをするとすれば
柿を11個とった猿が1匹いて、1個しかとれなかった猿が9匹いるとして。
社会主義というのは、11個とった猿から9個取り上げて、その9個を残りの猿に1個ずつ分けてあげること。
みんなが2個ずつ柿をもらえることになって、ああよかったね、という話なんですが。
その結果どうなるかというと、11個とる知恵や力をもっている猿も、どうせがんばったって2個しかもらえないならと2個しかとらなくなる。
結果、他の猿は当然ですが自分の分の1個しかない。
それならということで、今度は2個とった猿から1個とりあげて、それを10等分したりして。
そうして全体としてだんだん貧しくなっていく。
で、このとき、一体誰が11個とった猿から9個とりあげてみんなに配分したりするのか。
11個とった猿が嫌がったらどうするのか。
そういう時に強い権力を持った誰かが、多く持ってる猿から取り上げたり、それを分配したりする役割を担うことになる。「独裁者」の誕生です。
その一方・・・
資本主義社会では、柿を11個とったら、そのほとんどが自分のものになる。
自分のとった分が自分のものになるなら、みんながんばって11個とろうという気持ちになるわけです。
1個しかとれなかった猿も11個とる猿にはかなわないけど、2個や3個ならがんばればとれるかも。
よし、がんばってみんなで1個でも多くとろう!
・・・そうやって全員で競争していく。
柿の木はまだ緑の実まで毟り取られる。
緑の実を食べた猿はお腹を壊して下手すると死んでしまう。
みんなが自分の食べる分だけをとっていた頃ならば、柿は足りていたし、実るまではとったりしなかったのに。
こうして見てくると、言わずもがなのことですが・・・どっちがいいっていうことはないのでしょう。
世の中は、天秤で両者のバランスを取りながら成り立っていて。
みんなが自分のことしか考えなければひどいことになるし、かといって完全平等を目指せば人間に進歩はない。
「格差社会」も、柿を11個とれる猿と1個しかとれない猿と同じ。たくさんとれる猿ととれない猿には資本主義社会なら「格差」が生まれるのは当然と言えば当然です。
無論、ただ柿をとるのとは違う問題もあるんですがね・・・
たとえばこうです。
ある柿の木は日当たりがいい場所にあり80個実った。
ある柿の木は病気になって10個しか実らなかった。
80個実った方なら、11個とれる猿が11個とったって残りの猿も自分の能力に応じて柿がとれるんですが、10個しか実らない柿の木で10個とられちゃうと、他の猿は1個も柿がとれない。
それを個人の能力で片付けてしまっていいのか、と。
自分が柿をとっていい木は法律で決まっている。
もちろん必要があってできた法律なんですけど、そうなると、隣の柿の木にはまだたくさん実が余っているのに、こっちでは柿を1個も得ることができなくて飢える猿がいる。法律がおかしい。法律を変えろ。規制緩和だ、ということになる。
実際は規制緩和すると、いっぱい実ってる柿の木も11個とれる能力のある猿が群がってぐずぐずしてる猿には結局全くまわってこない、なんてこともよくあることだったりします^^;;;;
・・・さあ、何をどうするのがいいのか。
みんなが幸せになるためにはどうすれば?
シンプル過ぎる議論なのかもしれませんが、資本主義社会を受け入れるってことは、結局のところ、隣でたくさん柿をとって余った分は売ったりして楽しくやっている猿の家族がいて、自分には1個しか柿がなかったときにそれを許すことができるか、ということです。
あなたなら許せますか?
近所のある家族は年収1000万以上稼ぐ父親がいて、毎年家族で海外旅行に行っている。
自分はパートしか職がなくて、服さえここ何年も買ったことがなく、子供の給食費を払うのがやっとの生活。
真面目にやってきたのに、何がいけなかったのか。
働いても働いても貧しさから抜け出せないワーキングプア。
こんなことって・・・社会が、政治が、世の中の仕組みがおかしいんじゃないか???
「政治」というのはこういう発想から始まります。
今のままじゃだめだ。じゃあどうする?
でも柿をみんなが自由にとることのできる社会も、ある意味、みんなが幸せになるために作られてきた仕組みではなかったの?
難しいですね。
個人の幸せとみんなの幸せがいつも一致していれば何の問題もないけれど、現実は必ずしもそうではない。
みんなが自分のお腹を満たす分だけ柿をとる。余計な分はとらない。柿が実らない木があったら、そこの猿には分けてあげよう。
・・・正しいことなんだけど・・・
そこには危険も潜んでる。
私たちに必要なのは、この世界が両者のバランスから成り立っていることを知り、天秤をひっくり返さないように慎重に見守っていくことなのかもしれません。
確かに自民党政権下で、かなり天秤が偏りましたから・・・
今はこっちに振れるのも仕方ないのかな。
そしてそれに対し警鐘を鳴らす引用した記事みたいなものが出てくるのも社会的な必然、なのかしらね。
この記事を読んだ皆さんは、資本主義、社会主義、どちらをより好ましいと思われるでしょうか。
どちらも極端に過ぎればひっくり返るのは書いたとおりですが、政治家さんたちは時としてこの
「どっちがいいとも言えない」
のを利用して勝手にマッチポンプをして大衆を操ったりします。
だから、国民はみんな考えておいた方がいいのかも。私たちが本当はどういう社会を望んでいるのかを・・・ね。
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Comments
BUBIさんは、とても難しいことを、とても簡単な言葉で上手く説明していますね。感心させられました。
平等には、形式的平等と実質的平等があります。柿の話で説明してもいいのですが、より現実的な例で説明します。
消費税は、あるものを買った場合、それが金持ちであろうと貧乏人であろうと、同じ額の税金がかかります。だから形式的平等です。
所得税は、所得の多寡に応じて税率が変わりますから、実質的平等です。
ところが、所得税は源泉徴収される所得については問題ないのですが、申告納税する自営者などの所得については問題があります。申告が適正かどうかをチェックするには、相当に完備した社会である必要があり、つまり、申告納税というのは、相当に熟成した社会システムを前提としているのです。だから、私の住んでいるフィリピンでは、名の知れた大金持ちは別として、普通は、払ってもいいという金額から所得額を逆算して納税申告し、それで100%通ってしまいます。多分、開発途上国ではみなそんな感じだろうと思います。
形式的平等は、少なくとも形式的には平等です。でも、少し深く考えると何かおかしい、だから実質的平等の考え方が出てくる。
しかし実質的平等は、どこまで本当の意味の平等を実現しているか、絶対的基準がないから分からない。
難しいことですね。
Posted by: mikoinrp | 2010.07.22 07:51
柿の話で言えば、11コ取った猿から5コを税として徴収し、あとの9匹に1/2ずつ配って残りの1/2を政府がもらう、というのが、現在の資本主義国家の考え方ですね。3コとか4コ取れる猿がいれば、1/4コの税を・・・というわけです。
それが資本主義を前提とした福祉国家の理念ですが、富の再配分のバランスにはそれぞれの感じ方があって、全員が満足することにはなりませんね。
Posted by: 春海 | 2010.07.22 23:27
mikoさん、春海さん、コメントありがとうございます。
所得税は発展途上国だけでなく、日本でもそんな感じですね。
サラリーマンは源泉徴収されているので、自営の方よりも税金はしっかりとられていて、その不公平はよく言われるところです。
結局、自分が一番得したいという資本主義の中では税なんてごまかしたもん勝ちなのでしょう。
海外では大富豪や大企業は、自分が儲けたお金を税金にとられる代わりに、自ら社会貢献に使ったりする。
資本主義が成熟したら、本当の金持ちは、自ら社会のために資金を提供したりするようになって、政治家や官僚よりももっとましなお金の使い方をしてくれるかもしれません。
日本もそうならないかな。
自分だけが儲ければいいんじゃなくて。
儲けたらそのお金は国に収める代わりに、自ら社会に還元できればいい。
ある意味、ふるさと納税みたいな話ですね。
日本の大企業だって昔は、儲けたお金をスポーツ振興とかに使ったりしてた。
昔の日本は、その意味では今よりも心が豊かだったのかなぁ。
Posted by: BUBI | 2010.07.28 21:39