どこか痛いのがデフォルトだった
語り始めようとして今、ちょっと感動しました。
昔・・・というかそれほど昔でもありません、このブログを始めた当初はこの話をするのはけっこう勇気がいったのに、ずいぶん話しやすくなりました。
前も何度か書いていますが、私の母が「うつ」だった話です。
今や「ツレがうつ」「友人がうつ」「引きこもりの子供がうつ」「親がうつ」「部下がうつ」「上司がうつ」・・・
「そりゃ人間、この時代に生まれたらうつくらいなるよね」
というのが一般化してきています。
うつの人が増えてきてるとしたら喜ぶのは変なんですが、個人的には「うつ」も本人の怠けではなくて「病気」なんだってことが周知されてきたのは喜ばしいことです。
私の母の時代は、うつで何ヶ月も家の中で寝たきりになり、風呂にも入れず、食事もとらず、じっとしている生活なんてあまり普通の人々には想像できなかったんじゃないかな。そばで母を見てきた私にとってはデフォルトでしたが。
母は「そううつ」だったので毎年季節の変わり目にホルモンの関係なのか具合が悪くなりました。春は3ヶ月ほど寝たきりってことが多かったです。夏になると元気になったりしましたな。元気な時はいやに元気でした。
This is「そううつ」。
で、タイトルの話なのですが、これは一時元気になっても再び寝たきり&引きこもり状態になるのを繰り返す母の話ではなくて、その母に育てられた子供、つまり私の話。
最近は、自分が母の年代になったせいなんでしょうけど、しばしば子供の頃の自分を客観的に考えることがあります。
子供の頃の私は、大体どこかが痛いのがデフォルトでした。
歯が痛い、足が痛い、耳が痛い・・・
たまに思っていました。「どこも痛くない」生活ってあるんだろうかって。生きているのが苦痛の連続のように感じていました。
そんな子供っているのか、って客観的に考えると自分でもびっくりですが実際にそうでした^^;
幼稚園や学校にいけば、対人関係でうまくコミュニケーションがとれなかったりもして・・・まあその結果どうなったかは言わずもがな。
そもそも風呂に毎日入ってなかったからそりゃいじめられますわな。
服も何日も同じの着てたってそれがおかしいことだというのも分かりませんでしたし。
だから私は、「親に面倒を見てもらえない」子供、というのが一体どういう状況になるのか、自分の身に置き換えて考えることができます。
そして、それを「親のせい」にしてみたところで何の解決にもならないということを。
だって子供は自分でそれをどうにもできないのだもの。
一方で、子供にとって自分の母親は世界で一人きりの自分のお母さん。子供は母親を守ろうとします。どんな母親だってね。
私にとっても客観的に見られるようになった今でさえ、母を愛する気持ちに変わりはありません。
少なくともちゃんと殺さないで大人にしてくれましたし、よく私を殺して自分も死のうと何度考えたか分からないとは言っていましたが、実行には移せなかった。(うつのときは殺人も自殺もするほどの気力はないのです^^;)
何より、子供にとって一番大事なものはちゃんと与えてくれました。愛されてたもんな。かなりできはよくない子供だったけど。一人っ子で比較対象がいなかったのも幸いしました^^;
私が、「親の愛情」とは別に、子供を育てるのに「保育ロボット」でもなんでもいいから、面倒を見られる環境を作らないといかん、と考えるのにはそういう背景があります。
「愛情」はある。でも「世話」はできない。そういう母親は実際にいて。
もっとまずいパターンは「世話」ができない故に愛情さえ消えかける。
生まれたばかりの赤ちゃんから小学生まで、親ができないんなら、代わりに子供を「世話」する「システム」は必要です。
こんなこと言うと、今までちゃんと世話も愛情もたっぷり手をかけてきた人からするとおかしいと言われる気はとてもするんですが、人間って完璧じゃないからなぁというのが私の考え方の根本にあります。
「平等」ということの意味については以前も記事にしましたけど、私たちにとって平等でないことや能力差があることがすでにデフォルト。けれど、生まれてくる子供には、少なくとも生きていかれるだけの環境は与えてあげたい。だって子供は、親だけでなく社会の宝ですもの。
私は大人になって、自分の面倒を自分で見られるようになってからは「どこか痛い」のはデフォルトではなくなりました。
そりゃたまに腰を痛めたり、歯が痛かったり、風邪をひいたりすることはあるんですけど、ちゃんと気をつけて、自分の体をメンテナンスして、痛んだらできるだけ早く病院にいったり薬を飲んだりできるようになりました。
それって、大人には何でもないことです。
今、私が小さい頃の私に会うことができたら「痛い」のがデフォルトでないことを教えてあげたい。
その苦しみはあなた自身のせいではないことを教えてあげたい。
多分、大人達のほんの少しの手助けで、今も苦しむ子供を救うことができるはず。
朝も気持ちよく起きて、普通に電車に乗って、普通に会社に通って、普通に仕事して、普通にご飯が食べられる。どこも痛いところがない。
そのことがどんなに幸せなことなのか、今も私はかみしめる毎日です。
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Comments
8月18日の読売新聞(関西で読んだので関西版かも?)の、香山リカさんの記事に、同じようなことが書いてありました。
「血のつながっている親が育てるのが一番という考え方を変えないといけない時代かも。。。社会全体が子供を育てるという時代に変化しつつあるのかも」
「自分の子供を育てられない親がいるということを認識しないと、事件は減らないかも」
こんな内容だったと思います(うろ覚えですみません)。
香山さんは極論すぎる部分が多いこともあるのですが、たしかに、保育園や祖父母同居など、いろいろとお世話になってこそ、親の負担がへったり、発散できる部分もあったり、自分の仕事にうちこめるということを考えると、そういう考えもあながち本当だよなとおもうのでした。
友達が子供がいながら、海外出張をよくしているのですが、ご主人に理解があったり、シッターさんを雇ったりと、環境に恵まれているのが事実。
社会が子育てを手伝ってくれると、ありがたいのになと思うことはよくあるし、それが仕事じゃなくても、ひとそれぞれ、いろんな理由があるとおもうんですけどね。少子化は「兄弟がいると損」とおもう人が多い部分もあるとおもいますので。
Posted by: ちゃい | 2010.08.19 23:14
ちゃいさん、コメントありがとうございます。
介護もそうなんですが、ほんのちょっとの手助けで楽になるんですよね。
世の中、「自己責任」って話ばかりですが、それだけではすまないこともあると思っていて。
子育ては親の自己責任ではないといいなぁと思っています。
Posted by: BUBI | 2010.08.23 21:41