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2011.06.15

幸、不幸の定義とツイッター

 以前、友人ともいろいろな話をしていて、確かその友人が言ったことなのですが、同じ言葉を使ってお互いに意見交換をしていても、その言葉の定義や解釈が、それぞれ違うと、お互いの言っていることがまったくかみ合わず相互理解に至らないことって比較的よくあることのようで・・・・

 「人間同士は分り合いたいと願い、互いに言葉を尽くせば、必ず理解し合える」
 というのが基本的なスタンスの私にとっては、けっこうその事実はショックなことでした。

 ショックだけど、ちゃんとどの言葉について、お互いにどう解釈していて、その違いがどこにあるのかまでおりていけば、最後はちゃんと相互理解までたどり着ける、と、この年になってもまだ考えていることを友人が知ったら、彼女はまた苦笑するだろうなぁ。

 でもその難しいことに、ちょっとまた挑戦したいと思います。

 ツイッターでいろいろな方々のツイート(つぶやき)を読んでいてふと、ひっかっかったことがありました。

 まず、知的障害の子供を持つ心理学者の先生が「障害があることは不幸だ」とツイートされていました。

 それに対して、いろいろな人から反対意見が寄せられていました。

 反対意見は「障害は不幸じゃない」という意見です。「障害は個性の一つ」「障害があっても幸せな人もいる」と。

 この議論はなかなか難しい問題を含んでいるんですが、私も、幸、不幸はその人自身が決めるものであって、客観的に、他人から、あなたは幸せだ、とかあなたは不幸だとか決められたらかなわん、と思っていることもあり、この議論に思わず注目してしまいました。

 最初は反対意見の方の側だったのですが、ずーっと読んでいくと「障害があることは不幸」とツイートされた方の意見の方がだんだんまっとうに思えてきました。

 その方のツイートはここでまとめて読めます。
http://twilog.org/ynabe39

 この方は繰り返しこうおっしゃっています。
「障害は不幸だ。でも障害を持つ人の人生が不幸かはまた別の問題である」

 うん、そういうことならそうかもしれない。

 てか、これって「不幸」ってことの言葉の意味が、受け取る人によってかなり強烈に響くから、そのせいで、議論になっちゃうのかもってちょっと考えました。いろいろ読んでみると、けして二つの意見は対立するものではなく、「障害」という事実をどう受け止めていくか、そのスタンスが違うだけで(もちろんスタンスの違いにも理由がちゃんとある)考えていることはそんなに変わらないような。

 「障害」は私は当事者ではないから語る資格を持たないので、他の話に例えます。

 たとえば「40まで結婚できていない独身の女性は不幸だ」というツイートが仮にあったとして。
 ぱっと見、「なんて失礼な」と思うわけですが、まあぶっちゃけ、愛するパートナーがいて、愛する子供がいて、暖かい家庭を育んでいる友人がもし隣にいたら、そりゃそれと比べたら「不幸ってのもあながち間違いではない」と私自身、思ったりします。

 でも、そのことと、だから「BUBIさんの人生は不幸か」というと、それはそうでもない(苦笑)。

 「事実」とそのことに対する「評価」であるところの幸、不幸の話がごちゃまぜになると、議論自体が混乱してしまうみたいですね。

※  ※  ※

 多分、高校生か中学生のころ、保健体育の教科書に載っていた話で、(ということは誰でも知っている知識かな)人間は何かの欲求を持ち、それがかなわないという事実に相対した時、自然と心に「防衛規制」が働く、というのがありました。

 以下は「すっぱいぶどう」の例でよく心理学の教科書とかに載っている例。

(1)合理化・・・すっぱいぶどうで我慢する
自分が行った失敗や不満の真の動機を隠し、理屈付けをして弁解する。◎すっぱいぶどうの機制

(2)代償(置き換え) ・・・ぶどうの替わりにりんごにする
ある感情が向けられている対象を別の対象に置き換えること。

(3)抑圧・・・あきらめる
不満や葛藤などの原因となる欲求や動機を無意識の領域に押しやられる機制。

(4)昇華・・・エネルギーを芸術活動に向ける
置換、補償などの機制によって本来の欲求が社会的・文化的に価値の高い目的に向けられ、努力すること。

(5)反動形成・・・ぶどうを好きなのに嫌いなふりをする
自己の弱点に対する非難を避けるために、正反対の行動や態度をとること。

(6)逃避・・・論文の締切りが迫っているのに行詰まり引き出しの中を片付ける
困難な状況から逃避することによって不安から逃れようとする消極的な機制。
 

これって人間が自分の心を守ろうとする働きなので、どれが間違いでどれが正しいって話でもないんでしょう。
できれば「昇華」できればいいのでしょうけど、これは「心がこういうふうに働くものである」っていう「事実」であって、それを「評価」するのは、ちょっと置いておきます。

つまり、人は、そういう働きをする心を持って生きているので、世の中に起こるいろいろな「事実」に対していつもフラットではいられない、というのがまず前提としてある。

そこで難しいのは「議論」っていうもののあり方。

特に「幸、不幸」なんていうキーワードからいくと、それが個人の心の問題でもあることから、どうしたって自分の個人的な心の在り方からどうしても意見を述べざるを得ません。

確かにそういういろんな人の経験や思いを背景にした意見てのもありだとは思うのだけど、それに「防衛規制」のバイアスがかかると、議論がただ、互いを攻撃しあうだけのものになってしまうみたいです。
いろいろなことを乗り越えようとしているのはみな同じはずなのに。

私にはそれって非常にもったいないことのように思えてなりません。コミュニケーションの仕方によっては、対立せずに建設的な話し合いにもなりそうなのに。
(対立が必ずしも悪いとは思わないのですが、どうもそうなるといい方向にはいかない)

特にツイッターはねー。
どうしても短い言葉だけが一人歩きをしてしまうものだから、その人がどういうシチュエーションで、日ごろどのような立場でどのようにものを考えていて、その上でどういう経緯でその発言をしたか、ということは一切顧みられることはなく、議論の俎上に載ってしまうからなぁ。

ツイッター上で流れるツイートなんてそもそも「感想」が行きかっているだけなので「議論」ですらないのですが、そうだとしても、そういうものだということを前提にうまくこのツールを使って、コミュニケーションの輪が広がっていけばいいな、と私は考えています。

ツイッターとの付き合いも1年半くらいになりました。
フォローする人がちょっとずつ増えてきて、いろいろな人の意見を目にすることができて楽しいです。
ipad2を買って、使い勝手がよくなったこともありますし。

ツイッターの中で流れる情報の取捨選択は、情報を受け取る方にあります。いろんなツイートの中で、どれが「事実」でどれがただの「感想」で、どれが傾聴するべき意見なのか・・・それを見極める目が、利用者一人一人に必要となってくるツールなのかも。

けっこうこれってすごいことです。
まだツイッターを使ったことがない方がこのブログの読者にいらしたら、この難しいことにぜひチャレンジしてみてください。
ツイッター自体はただのツールで、情報の取捨選択に何の制限もありません。
登録した瞬間は0なので、その「0」から自分の世界を作り上げる。
そのプロセス自体を楽しめるなら、きっとツイッターはとてもいいコミュニケーションツールになると思います。

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Comments

ツイッターを委員会の外部会議的に使って
やってたことがありますが
うまくいきませんでした。

つぶやきには
その人独特の世界観と解釈があり
誤解を招いてもめごとの原因になったりしました。

日本人はもともと
あいまいで 間を大事にするところがあると
思うのですが
ツイッターって
日本的じゃないなーって思います。

ブログのように
個人の世界観が出せる者の方が
向いているかも。

たった一言のつぶやきが
いろんな受け取り方をされて
独り歩きしてしまい
収拾つかなくなっていきそうで怖いです><

Posted by: ゆう | 2011.06.16 21:54

ゆうさん、コメントありがとう。

短いフレーズは誤解も生みやすいですよね。

というか、たぶんネットじゃなくても同じなのだけど、本人はそれほど悪気はないのに、受け取った方は悪意に感じるっていうのは現実の世界でもあることで、人と人がコミュニケーションをとるってことはそのリスクをある程度呑み込んでいかないといけないなって思ったりします。

ツイッターは特に言いっぱなしですからねぇ。
そういう難しさは特に強いかも・・・
情報収集には面白いツールなのですがね。

Posted by: BUBI | 2011.06.25 06:18

BUBIさんの関心と少しズレがあるのかも知れないのですが、

昔、ある月刊誌に「貧乏は恥ずかしいことではない」と書いた映画監督がいます。彼はフィリピンのスラムでお菓子や何かを配って、それに群がる人々を映画の1シーンとして撮影したのです。私は、字数制限がある中で「貧乏が恥ずべきこと」である所以を書いて投書し、その雑誌に載せられたことがあります。

私は当時貧乏のどん底に近いところにいて、貧乏であることを恥じていましたから、私の正直な感想を書いただけなのですが、貧乏にしろ、身体障害にしろ、そういったことを経験していない人は、それらの事実に対して少し気軽に物を言い過ぎる嫌いがあるのではないでしょうか?

Posted by: mikoinrp | 2011.07.18 14:42

mikoさん、いらっしゃいませ。
コメント、ありがとうございます。
うーん、私もおしゃべりだから気をつけねば。

Posted by: BUBI | 2011.07.22 23:41

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