「大往生したければ医療とかかわるな」
「大往生したければ医療とかかわるな」(著・中村仁一)という本を読みました。
ちょうど、読売新聞の記事でも「こんな記事」が出ていましたが、趣旨はこの記事と同じ。日本では、人を生かすためにできる限りの処置をするのが、正しいことだとされています。本人が望もうと望むまいと。
私は以前から「患者よ、がんと闘うな」でおなじみの近藤誠医師の著作が好きでよく読むのですが、近藤さんの著作の趣旨とも共通しているような気がします。
「大往生したければ医療とかかわるな」という本を読んでいると、昔読んだ、これは完全なフィクションですが「廃用身」という小説を思い出しました。
たとえば、ある老人ホームに入居した老人は、倒れても病院に運ばれないとしますよね。
食べられなくなったら、食事は与えない。
飲めなくなったら、水も与えない。
そうして静かに亡くなっていく・・・として。
そんな施設がこの日本で実在できるものだろうか?と考えてぞっとしてしまいました。そのくらい、この本に書かれていることはどこかフィクションのようなのです。
鼻や胃から無理やり栄養を詰め込まれて動けない状態で、何年も生きて死を迎えるよりも、動けなくなったらすっ死を迎えることを望む人の方が多いんじゃないかと、私は直感的に思うのですが、実際のところどうなのでしょう。そういう人にとっては、余計な医療行為を施さず、もしかしたらそこで死を迎えるかもしれない老人も、ちゃんと受け入れてくれる老人ホームが実際にあったら、とてもありがたいはずなのに。
少なくとも、私はそうありたい、と思ってしまいます。
最近はたまに自宅で一人で亡くなる女性が多くて、もちろん50代や60代だと、
「もし一人でなくて、異変があったときに、誰かがそばにいたら助かったかもしれないのに」
と思ったりはしますが、「自宅で一人で亡くなること」自体はそれほど悲劇ではないんじゃないかと私は思います。
誰だっていつかは死を迎える。それがいつもの自分の家で、まるで生の延長のように、安らかに亡くなるのだとしたら・・・ね。
「死」というものを。
これだけ延命の技術や医療が進歩した今に至っては、もう一度ちゃんと考える必要があるんじゃないかなぁ。
人がみな、より良い最後を迎えるためには、食べられなくなってもお腹に穴をあけて栄養を送り込めば生かすことはできると分っていても、それをするのが本当に正しいのか、考えてみないと。
私はいくつまで生きるかな。
誰にも分からないことだけど、いつ死んでも悔いがないように今日を生きていきたいと思います。
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