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July 2013

2013.07.16

恋の魔力

色っぽいタイトルですが、恋の話ではなく、趣味の囲碁の話です。
タイトルにつられた方、ごめんなさいm(__)m
「囲碁を続けていますか?」というコメントをいただきましたので、最近の私と囲碁について少し。

いやぁ、もう実は囲碁を始めて10年を超えたのですが、未だに初段にはなっていません。

ですが・・・

いえね、実はもうずっと囲碁を始めた最初の頃から、私は囲碁を打つことってあまり「楽しい」と感じたことはありませんでした。

対局は、楽しいというよりも緊張します。
自分が不利だと思うと、動悸、息切れ、めまいがします(まじ)。
相手に攻められてると息が止まりそうなくらい苦しくなりますし、自分が攻めてる時も、一瞬たりとも緩い手を打ってはならじと緊張の連続。

そして負けると自分のふがいなさ、実力のなさに落胆し、毎回、
「囲碁やめたほうがいいんじゃないか、もう才能ないし、向いてないし、一生、このまんま上達しないんだ、私」
と思います。その絶望加減たるや、負ける度にそんな落ち込んでて大丈夫なのかと自分でも思います^^;

じゃあ、何が楽しくてやってたのかというと、やっぱり勝てるとうれしいし、昇級するとうれしいから。
まだまだ私も捨てたもんじゃないってね。
「努力が報われた」「自分のやってきたことの正しさが証明された」・・・その他いろいろ、とにかくその瞬間は、

「ああ、囲碁をやってきて本当によかった」

って思えるんですよ。そのうれしさは他の何と比較したって「最高」です。

囲碁について、囲碁仲間との交流に使っているSNS「goxi」では、以前に「恋の魔力」というタイトルでこう書きました。


(引用開始)

恋をすると、私はめっちゃ元気になります^^
自分が何でもできるような気持ちになって、大好きって思うだけでうれしくなって、毎日がハッピーで、生きててよかったー♪って思って、ああ、この人に出会えてよかったー♪って思います^^

囲碁で勝ったときもそうなんですよ。
自分がなんでもできるような気持ちになって大好きって思うだけで…(以下略)

勝ってうれしいのって一瞬なのかもしれないんですが、私にとっては一瞬というよりは、なんというか、その瞬間に今までのすべての努力が報われたような、生きててよかったーというような、最高の気分です。

めっちゃ気持ちイイーーーーーーー♪
みたいな。
アドレナリンでまくり♪

で、負けると・・・・
・・・
・・・

でも、だから囲碁って好き。
というか囲碁で勝つのが好き♪(あー言っちゃった)

その瞬間にめっちゃ幸せになれるのです。

恋をすると、
「私はあなたに出会うために生まれてきた」
なんて思うじゃないですか^^

囲碁で勝つと
「私は囲碁を打つために生まれてきたんだわ」
と思ったりします。いやほんと。
そこの人、笑ったなーw

(引用終わり)

ずっと、長い間「囲碁が好きですか?」と問われると私は「好き」とは答えられませんでした。

だって苦しいばかりだったから。今も対局の最中は苦しいし、負けると落ち込みます。

でも・・・もう、ここまで来たら、認めてしまうことにしました。

私は囲碁が好きみたい。「みたい」じゃなくて、好きだーーーーー!!

だって恋ってそういうものでしょ?(苦笑)

本物の恋も片思いばかりですが、決して苦しいばかりじゃなかった。最高に幸せだった時もありました(遠い目)。

そういう意味では囲碁もね。
恋と同じでなかなか報われない感はありますが、それでも、長い付き合いの中で少しずつ理解は着実に深まっています。
まだまだ人生は長い。恋は自分だけではままなりませんが、囲碁なら、いくつになっても、あきらめない限り、いつかは報われる日がくるんじゃないかと。そう信じてこれからもがんばります。

ちなみに今度の日曜も囲碁の大会に出る予定です。目標は・・・もうずっと同じですけど、今年こそ初段!!
がんばります。

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2013.07.12

神はいない

神はいない…
これは確かなことだ
だってこの世に生きている獣や虫、植物たち
人間以外に神の存在を知っている生き物はいない

命はこの世界に必然と偶然によって誕生し
生まれる時からDNAに刻まれた時間を全うして死んでいく
それだけのこと

ならばなぜ人は神を作ったのだろう

たとえばある場所、ある時間において
何十、何百という生命のまとまり=集団があるときに
時として「イレギュラー」が存在することがある

たとえば
父親がいて母親がいる家族の中に子は誕生し
親の庇護の元に守られて成人するのがその生命の多数派である際に
父も母も早くに亡くしてその庇護が受けられなかった存在があるとする
それは「イレギュラー」だ

別のたとえをしよう
その集団において多くは視力・聴力等の能力を持つ
ある個人は視力がない
それが「イレギュラー」

自然界においてはそうした不利な条件にあるイレギュラーは淘汰される
だからこそ共通の環境で共通の特色を持つ個人が「集団」を形成するのだから

しかし生命にとって「多様性」は重要だ
大多数の個人が適応した「環境」に変化があった場合に
全滅せずに生き残れるのはそうしたイレギュラーだからだ

おそらく人間という生命はそのことを知っている
他ならぬ人間という種そのものが長い歴史の中で
イレギュラーであるからこそ生き残ったことがあるのだろう
その記憶が遺伝子に刻まれているからこそ
イレギュラーを認めその生存を許すプロセスが働く

しかし通常の条件下において
同じ環境に適応した集団の中に「イレギュラー」が生存し続けることはかなりの苦痛が生じる
その苦痛に耐えるため
理屈づけのために人間が生み出した「概念」が「神」なのだろう

親がいない子
生まれつき目が見えない子
その他いろいろと不利な条件に置かれた命が存在する
しかしその子達が淘汰されず生きていけるように
ある意味では集団を形成する他の命よりも強く存在し続けられるように
それは人間という種にとって「保険」だ
いつか人類が絶滅の危機に瀕した時にも死に絶えてしまわないための
あるいは今の繁栄よりもさらに拡大するための

神はいない
けれど命は神を信じることで
あらゆる逆境を乗り越えようとする
実際にそうして生き残った命も多くあるだろう

そうした生命の仕組みは
祝福されるべきことだろうか
呪うべきことだろうか

世界にはあらゆる現象が存在する
必然と偶然によって

その「現象」に意味や解釈を与えるのは人間
意味や解釈は「真実」とは異なるものであるし
異なっても別にたいした問題はない
なぜならそれは人間が人間の都合で勝手に作ったものだからだ

つまりは
何かの現象に意味や解釈を与え
それを「信じる」か「信じない」かは
(これを読んだ貴方がどう考えるか?)
それだけにかかっている

私はそれは祝福されるべきことだと解釈している
命には全て平等に生き延びる権利が与えられており
「可能性」という魔法の杖を生まれながらに与えられている

他の全ての命と同じように
遺伝子に刻まれた限りある時間をこの時の中で生き
あるいは何も残さず終わるかもしれないけれど
それが「命」そのものだと思うから

神はいない
でもそうした「命の在り方」そのものに
何か名前をつけるとするなら
もしかしてそれは…

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