生きていてもいいですか~献血する理由~
読売新聞の「発言小町」というコーナーに下記のような質問が出ていました。
「人はなぜ献血するのか」
回答もたくさん寄せられていますが、自分でも献血する理由を考えてみました。
先月も私は献血にいきました。前回は比重が基準に足りなくて200mlしかできませんでしたが、今回はばっちり。400ml採血してもらうことができました。
カードの記載によると、これで44回献血したことになります。
以前は、一生で100回を目指していましたが、血管が人より細いらしくそのせいで成分献血はできず、一回に採血する量が400mlになったら、女性は年間2回しかできなくなったので、100回は無理になってしまって。無念~
大学の時に学校に来ていた献血車に友人に誘われていったのが最初。
その後、学校に行ったのに急遽「休講」だったら、近くの献血ルームに行って、献血して帰る、というようなことをしばしばしていました。
まだ1回の採血が200mlだった頃です。
さらにその後、千葉、埼玉、東京など、いろいろな献血ルームにいくのが楽しみの一つになりました。買い物ついでに新宿の献血ルームにはよくいきました。
場所によって、アイスのサービスがあったり、記念品もそれぞれ。献血手帳が現在のようにカードではなく、それぞれの献血ルームでスタンプを押してもらえる方式だったので、古い献血手帳も取っておきコレクションにしていました。
手帳がカードになってからは履歴は手元には保存できなくなったので、意識していろいろな献血ルームに行くのはやめましたが、年に2回は献血するようにはしています。
その「理由」は、というと。
私は献血が「好き」なんですよね。
「好き」の理由を突き詰めて考えれば・・・
もし私が、自分に自信がある、もしくは、社会的に認められた芸術家だったり、政治家だったり、社長だったり、タレントだったり、スポーツ選手だったりしたら、それだけで社会貢献しているので、特段、献血に魅力を感じないかもしれません。
でも、私はいわゆる「その他大勢」ですからね…。
いてもいなくても、そんなに社会に影響があるわけではありません。
中島みゆきの昔のアルバムに「生きていてもいいですか」というタイトルのものがあります。
私も、普段はそんなに考えないのですが、自分の考え方の根っこのところにいつもこの問いがあって。
献血じゃなくてもいいのかもしれませんが、何かしらの形で自分が人の役に立てれば、その問いに答えられるような気がするんですよ。
以下は「生きていてもいいですか」のアルバムに入っている「エレーン」という曲の歌詞です。
(引用開始)
エレーン
「生きていてもいいですか」
と誰も問いたい
エレーン
その答えを誰もが知ってるから誰も問えない
(引用終わり)
「その答えを誰もが知ってる」?
「知ってるから問えない」?
この意味、皆さんはどう思いますか。
これって答えは「NO」ってことなんだろうと昔から私は思っています。
「YES」と誰かに言って欲しいから「問いたい」わけですが、答えが「NO」だったら怖くて訊けない。
献血は私にとって「YES」の答えそのものです。
生きて、人の役に立っている。
私がここにいることによって救われる命がある。
献血ができるということはその「証」です。
思っている以上に自分には大きな意味があることに、この記事を書いてみて改めて気づきました。
「生きていてもいいですか」
YESと答えてくれそうな友達もいますが、そんなことを訊くこと自体、笑われそうで訊けないです。
…いえ、私も年をとったので、本当は分かっているんですよ…。
「生きていてもいいですか」
その質問をして応えてくれる人は、おそらくこの世界に誰もいない。答えを出せるのは自分しかいない。
それでも私はこの世界が好きで、たぶん、この先も、献血はできる限り続けていくのだろうな。
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