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November 2016

2016.11.29

オリラジ中田先生の授業を聞いて~星の王子さま~

私は「星の王子さま」を読んだ事があり、箱根の「星の王子さまミュージアム」にも行ったことがあります。
でも最初の「星の王子さま」との出会いは、手塚治虫「火の鳥」の「望郷編」で星の王子さまの一節が引用された時かな。
あのときは意味もよく解りませんでしたが…

その後、星の王子さまのイラストが表紙になった本を読み、さらに、音楽座の「リトルプリンス」という星の王子さまのミュージカルも見ました。
なので「星の王子さま」歴としては古いし、長いし、ということで折々に接してきた作品です。

でも、昨夜、中田先生の授業を聞いたら、詳細はすっかり忘れていることが発覚し自分でも驚きました。

王子さまが地球に来る前に巡った六つの惑星なんて、点灯士と酒浸りの男くらいしか憶えてなかったもんな。

そして六つの惑星を巡った後、地球を見た王子様が言ったという衝撃的な言葉。びっくりしたなー
全然記憶にありませんでした。
星の王子さまの物語のクライマックスはやはり後半なので、前半はほとんど印象に残っていないのがよく分かりました。

とはいえ、地球に着いた王子様がたくさんのバラを見て、自分の星のバラがありふれたものだったと感じ悲しくなるくだりも実は忘れていました。
『高慢なバラに嫌気がさして王子さまは星を家出してきた』
とか、一番最初の
『みんなが帽子の絵だと思った、象をのみこんだうわばみの絵を、王子様は正しく言い当てた』
とか
『バオバブは怖い』
とかそういうのは覚えていたのに。

それと昨日の授業では触れられていなくて、私が覚えている最も好きなのはきつねがこんなことを言うシーンです。詳細は忘れていますが・・・

~僕はパンを食べないから、小麦畑を見ても特に今まで何も感じたことはなかった
 でも今日、君と出会ったから、これからは小麦畑の金色の波を見る度に君を思い出すだろう~

 大切な人との出会いでありふれた光景が特別なものに変わる。感動しました。

さて、本題。
中田先生の授業では、王子様と王子様の星に咲いたバラの関係や、バラに対する王子様の思いなどを解説しつつ、それが何の象徴なのか、という話をしていきます。

すると面白いことに、中田先生の授業を受けている番組の中でもそれぞれに意見があって、みんな違うようでした。
中田先生は「恋人」だと思ったそうです。
つまりはバラのエピソードは「愛情」の象徴であって、「愛情」の対象が誰なのかによって、人によって回答が違うのだということが授業の中で分かりました。
中田先生自身も授業をしてみてそのことが分かったと言っていましたね。

つまり・・・

「それ」は、他人から見るとどこにでもあるありふれたもの。
でも、心をこめて世話をし、会話をし、たまにはケンカしたりもしながら、大切に育てることで、それは自分にとって唯一のものに変わる。

「それ」が何なのか、という話です。
関根さんや藤本美貴さんは「子供」だと思った、と番組の中で話をしていました。

私にとっては何だろう、と番組が終わった後にずっと考えていました。
やっぱり「恋人」かなーとも。

でも、私の場合はどうもこれ、「自分」のようです。

愛情が、子供でもなく、恋人でもなく、「自分」だなんて、どれだけ自己愛が強いんだよ、と我ながらちょっと恥ずかしいですが、自分を大事にできないと他人も愛せないですからこれも大事なことです。

「私」という存在はありふれています。
地球にあふれる何億人のヒトの中ではたいした存在ではありません。

でも、これもまた星の王子さまが育てていたバラと同じ。
どんなにありふれていようとも、大切に育てていけば、それは、使い古された言い方ですが「オンリーワン」になります。

「本当に大切なものは目に見えないんだよ」
これも星の王子さまの一節ですが、これも星の王子さま関連では重要なキーワードにもかかわらず、昨日の授業では触れられていませんでしたね。
わざとはずしたんだろうなぁ。それも作戦のような気がします。

バラといえば、真っ先に思い出すのは私の場合、「バラが咲いた」という歌です。

♪バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが

で始まる有名な歌ですが、私はこの歌が子供の頃からとても好きでした。
咲いたバラはすぐに散ってしまうんですけど、

♪僕の庭のバラは散ってしまったけれど
♪さみしかった僕の心にバラが咲いた

うん、そうなのよ~
目に見えるものは移り変わっていくし、他と比べたらそんなに素晴らしくもないかもしれない。
でも、心に咲いたバラはいつまでも散らずに咲き誇り続け、私達を勇気づけてくれます。

現実ではありふれた私だけど、心の中ではそうありたい。
それが私の、おそらく一生涯の願いなのです。

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2016.11.28

パンを踏んだ娘

「残酷」スケートリンク謝罪、中止に 魚5000匹氷漬けの上を滑る

今朝のニュースでこの話を目にしました。
聞いた瞬間に「なし」と思いましたけど、よく考えるとなぜ「なし」なのかがなかなか深いようにも感じます。

もし「氷の水族館」なんてのがあるとして「いろいろな魚たちが氷漬けにされた氷のトンネル」なんてのがあれば、それは「あり」のような気がします。
そもそも普通に水族館では、生きた魚を見世物にしているわけですしねぇ。
生きてない魚としては、魚の剥製もありますし。

死んだ魚で言えば、魚市場などには死んだ魚が山のように売られています。
切り身になっているのもあれば、そのままの形のものもあります。
それを見て「気持ち悪い」とか「残酷」とは思いません。

魚料理を出す料亭などでは水槽に魚が入っていて、それを取り出して目の前で活き作りにしてくれたりもしますよね。
踊り食いなんてのもあるしなぁ。
踊り食いまでいかなくても、私、アサリの吸い物を作る時なんてちょっと残酷だなぁと思いますけど。
アサリの酒蒸しも。生きてるアサリをレンジでチンでしょ?

そして釣り。魚をえさの付いた針でひっかけて釣り上げる。残酷なレジャーですな。

というわけなので、結局、魚が氷漬けされたスケートリンクがなぜなしかというと
「命を遊びに使うなんて」
とか
「殺すなんて残酷」
とかじゃないんですよね。

「足蹴にする」
これがまずい。

昔、萩尾望都のマンガで「パンを踏んだ娘」というのがありました(マンガのタイトルは「「白い鳥になった少女」)。
元々はアンデルセンの創作童話だそうですが。

主人公のインゲは美しいけれど、その美しさを鼻にかけたあまり性格はよろしくない少女。
ある日、もらったパンを片手に道を歩いていたらそこに水たまりがあったので、服を汚したくないインゲはパンを水たまりに落としてその上を渡ろうとしたんですな。

そしたら、そのままぬかるみの底に引きずり込まれてしまって、ずっと暗い沼の底で生きることになってしまう。
でもインゲはずっと、なぜ「たかがパンを踏んだだけで」自分がそんな罰を受けなくてはいけないのか分からなかった。

そんなインゲの話を聞いた人は皆が
「食べ物を粗末にするなんてなんとひどい娘だ。罰を受けて当たり前だ。ざまあみろ」
と思い口々にインゲを批判します。
でもそんな中、一人の小さな女の子だけは「インゲがかわいそう」と涙を流します。

インゲが自分がしたことの罪を悟ったのはその瞬間でした。

何百、何千の人にそしられ、ののしられても、
「パンを踏んだことの何が悪いのよ。ふんだ」
と思っていたインゲがその少女の涙を見た途端に考えが変わる。

ちょっと不思議ですが、もし自分がインゲだったらと想像してみると、なんとなく理解るような気もします。

自分が憐れむべき存在なのだということ。
自分のしたことをその少女の目線で見ることができたこと。

そして、インゲは沼の底から出ることができるわけですが・・・

そのくらい、つまり「足蹴にする」のは罪の重いこと。
なぜそう感じるのか不思議ですけどね。理屈じゃないのかもな。
余談ですが、人々がインゲのことを口々に噂して批難するところも、今回のニュースと被りました^^;

小野不由美の「十二国記」のエピソードも思い出しました。
主人公の陽子は、一国の王になったときに最初に出す命令「初勅」で「伏礼」を廃止しました。
伏礼とは、相手に向かって地に頭を付けて拝礼すること。
そのたびに人としての尊厳とかいろんなものが踏みにじられていく。
陽子は「人は誰の奴隷でもない」と言います。民のみんなに王になって欲しい、と。その証として「伏礼を廃す」とね。
かっこよかったな。

魚を氷漬けにすることや、生きてるor死んでる、が問題なのではないみたい。
それをスケートリンクの下に埋めて、人がその上を滑る。
それがまずいんですな。

魚でもパンでも人でも踏んではいけません。

蹴ったり踏んだりしていいものは…そうねぇ、サッカーボールくらいですかねぇ。
あとは缶蹴りの時の缶くらいか。
それ以外のものは大体、踏むと親に叱られます。

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2016.11.21

ぼのぼの的おひとり様考

昔の記事ですが、当ブログで【「だってみんなひとりだろ?」byアナグマくん】という記事を書きました。


なんで思い出したかというと、読売新聞の発言小町で、

【「お一人様」「ぼっち」「1人」って、ナニ?誰基準?】

という記事を見たからです。
私にとっては今更な質問だなぁ。人間、みんな一人なので、別におかしくはないです。私なんぞは一人が気楽で気持ちいいからなー。

ただそれに対し、もし「あの人いつも一人だよね」とかいう人がいたとしても、私はこの質問者のように突っ込もうとは思いません。

だって、自分は一人で楽で気持ちいいとしても、たとえば私の友達が結婚したら「よかった」と思うだろうし「私は一人でいいんだ」とその友達が言ったら
「そんなこと言われたら私がさびしいじゃないの~♪」
というに違いないですもん。

私は結局、結婚しませんでしたが、一般論として結婚はできるんならした方がいいとも思ってます。
独身だと思っていた友達が、実は恋人がいて一緒に暮らしていると言う話を聞いた時も、心からほっとしたっけな。これで安心だわって。自分のことは棚に上げてね。

「だってみんなひとりだろ?」は「ぼのぼの」というマンガのアナグマくんのセリフですが、同じ「ぼのぼの」でこんなフレーズもあります。

(引用開始)

「ボクらは誰かといっしょにいるのがふつうだから、 ひとりでいたらさびしそうに見えるのはあたりまえなんだって」

(引用終わり)

これはフェネギーくんのセリフなんですけどね。一人でいるのが快適そのものの私ですが、このセリフにも納得、なのです。

だから、一人でいるのがさびしく見えるのは、当たり前。
一人でいることを「あの人、いつも1人だよね」と言われて気になるなんてまだまだ甘い。
というか、この言葉って質問者自身に言われたわけでもなく、第三者について、誰かが論評していることを質問者がたまたま耳にしてむかついたって話です。
それこそ「余計なお世話」ってもんじゃないかしらw
この質問者には「ぼのぼの」を読むことをぜひお勧めしたいです。

>1人って、オカシなことですか?

おかしくはない。でも一人だと他人からはさみしく見える。
さみしいと見られたくないなら誰かといる必要はあるけど、他人への見栄のために「誰か」を求めるのもおかしな話なので、言いたい人には言わせておけばいいんじゃないの?というのが私の結論です。

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2016.11.10

反グローバリズムとは

あるところに小さな村がありました。
その村に住む人はみんなが自分の家の前に小さな畑を持っていました。
みんな、自分の食べるものは自分の畑で作って暮らしていました。

ところがある日、住民の一人、Aがこんなことを言い出します。

「ねえ、おれたちってさ、みんながそれぞれ自分の畑で、芋を植えたり、野菜を育てたりしているよね。
 こういうのってさ、分担決めて、たとえば

Aの畑 芋
Bの畑 豆
Cの畑 キャベツ
Dの畑 大根

って、自分の畑では担当の作物だけ育てた方が「効率的」なんじゃね?
いろんな作物を自分の畑で作るよりも楽だと思うんだよね」

みんなはそれを聞いて「そうかもしれない」と思ったので、担当を決めることとしました。
確かにこれで少しみんなの仕事は楽になりました。
今まではチマチマ、1年中働かないといけなかったのが、自分の担当の作物だけを育てればいいことになったので。
作った作物はそれぞれ自分の畑で取れたものと交換して今までどおりいろいろな作物を手に入れることもできました。

ところが、ある日、CがBにこんなことを言いました
「Dの畑の大根ってうまくないよね。すかすかでさ。すっげーからいし」
Bも言いました。
「俺も実はそう思ってた。前に俺の畑で作ってた大根の方がめっちゃうまかったよ」

そこでBはこっそり豆畑の片隅に大根を植えて、Dの大根はもらわないことにしました。
Cも自分のところのキャベツをDとは交換せずに、Bに多めにあげてBが作った大根をもらうことにしました。

Dはキャベツや豆を譲ってもらえなくなりました。

そんなある日、Cの畑で青虫が大発生し、キャベツが全滅しました。
交換するものがなくなり、Cは飢え死にの危機に直面します。

Aは「困った時はお互い様だ。みんなでCを助けよう」と言い、Bも賛同しましたが、Dは自分の作物をCにあげることはしません。
別にキャベツなんかなくても生きていけますし。
Aは
「俺の言うことを聞かないと芋もやらないぞ」
とDを脅します。DはBがこっそり大根を作ってCとBで食べていたことをAに訴え、自分の正当性を主張しましたが、Bは大根を作っていたことを隠蔽し、Dの大根がまずいことを声高に言い始め、Dは畑仕事がへたくそだ、そんなヤツとはまともに取引するヤツが馬鹿だなどと攻撃します。

Aは困ってしまいました。
実はAもBが大根を作っていることを黙認していたのです。Dの大根がまずいことはAも分かっていたので。

AはDを説得するのをあきらめ、Dと交換する予定だった芋はCを助けるのに使いました。
そしてBが大根を作るのを認め、Aも大根をBからもらうことにしました。

激怒したDは、A、B、Cと縁を切り、独自で豆や芋やキャベツも作り始めることにしました。

・・・つまり「反グローバリズム」ってこういうことですかね。
いえ、トランプさんがどんな主張をしているのかと考えていたのです。

「自国の利益」だけを考えてたらいろいろ非効率だよねっていうのはよく分かる「理屈」です。

日本が自動車を作るのがうまく、アメリカでは穀物がたくさんとれるなら、それぞれ分担して、お互い、得意なものを交換すればいい。
アメリカと日本だけではなく、全世界で、物を交換することで、みんなが豊かになる。
それがグローバリズムの基本的な考え方なのだろうと思います。

でも、そうはうまくいかないのが世の理。
みんなが自分が他よりも得しよう、もうけようとすることで、
「なんだよ、あいつ、ちょっとずるいんじゃね?」
ってことになります。暗黙のルールは破ったら得をする。
それもある種の「パラダイムシフト」なのかもしれなくて、その繰り返しが文明を発展させてきたとも言えますが、ただルールはルールで、それを守らなくなることで大切な何かを失ったりもするんだよなぁ。

結局、今のグローバリズムの流れってのは、地球全体で見た時に、みんなが「自分だけ得しよう」としたら、資源は枯渇するは、温暖化は進行するはで、人類全体の命が縮むって話ですよね。
だから世界全体で協調しようよ、と。

トランプさんを大統領にしたアメリカ国民の主張も分かるんですけどね。
「世界全体の理想を語るより、俺を救ってくれ」
とね。そして、
「よし、分かった。日本やメキシコのことなんか知るか。強いアメリカを取り戻そうぜ」

しかしねぇ・・・

大転換が起こっていることは確かです。私達は第二次世界大戦の後からずっと、アメリカという超大国が人類全体を守っているという世界の中で生きてきました。

ところがそんなのは日本だけの幻想だったのかも。
アメリカに守ってもらってない国からしたらそりゃ日本はおめでたく見えるよな。

人類全体のことなんか誰も考えちゃいない。
みんながみんな自国の利益だけを守り、他の国のことなんて知るかということになっちゃったら。
そりゃ次の戦争も起こるでしょう。

私達は…
人類全体のことを考えたり、地球全体のことを考えるなんて「理想」に過ぎないのかもしれない。「幻想」なのかもしれない。
明日の自分のご飯もままならないのに、なぜ100年先の人類の心配なんかしなくちゃいけないかって思う人がいるのも分かります。
でも、それを忘れてしまってはだめだと思うんだけどな。

トランプさんは誰もが言えなかった本音で語ってくれるところが魅力だと言います。
でもその本音が
「俺さえよけりゃいい。他のことなんて知るか」
じゃなぁ~
大統領選出後の演説では、トランプさんも少し他の国とうまくやっていこう的なことを話していたように思います。ぜひそうして欲しい。

冒頭のたとえ話に戻ります。
このようなトラブルが起きた時どうするか。今まではアメリカがルール違反を取り締まってきたわけです。ところがその取り締まる役をアメリカが降りてしまった。
そしたらみんなDのように、もう協調なんかやめて自国のことだけを考えるようになっても不思議ではありません。
どうなってしまうのか…とても不安です。

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