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January 2018

2018.01.27

非武装中立

「非武装中立」を発言すると馬鹿にされるのが今の日本のトレンドらしい。
だったらなぜ、日本では銃の所持が規制されているのだろう。

「他国が攻めてきたら殺されるよ。殺されてもいいの?」
と武装支持の人は言うんだけど、それって理屈としては個人の場合でも同じ。

銃を持っている何者かが家に入ってきて、金品を奪おうとしたとして、抵抗したら私たちは撃たれて殺されます。
「殺されてもいいの?」
と問われて、殺されたくないなら武装するのが当然、ということなら、各世帯は銃を所持し、国民個々人も武装した方がいいですよね。

でもそうはなってない。。
強盗目的で人を殺すような犯罪が発生する確率は0にはならないけど、私たちはリスクを抱えつつも武装せずに暮らしています。

国と国との関係もそうなんじゃないかと。
隣の国が銃を持っているからって、自分も銃を持って武装するべきってなんでそうなるのか分からない。
個人と国とは違う、個人は警察が守ってくれるんだから、っていうなら、本来、国と国の争いも、個々の国が武装しなくて済むような仕組みを作るべきではないかしら。実際、そう動いた時期もあった。それが国連だったはずで。

基本的に、私たち個人が銃を持って武装することが現実的ではないように、国の場合も、全ての国が、そして日本が、武装して核を持つのは間違っていると思うんだけど。

いろんな国と協定を結び、自分が銃を持って戦うことよりも一定程度の経費を負担し、守ってもらうことだって、個人だったら普通でしょ。
なんで「自分の国は自分で守らないと」っていうのが正しいようにまかり通るのか。

銃を持って殺し合うことになる前にそうならないように努力する。
憲法9条の戦争放棄はそういうこと。

国際を紛争を解決する手段として「武力」は使いません。
だから日本は軍隊は持ちません。

なぜそれが非現実的なのかな。

もちろん、国連が当初の理想どおりにいかなかったのは分かってるし、世界の警察だったアメリカがその役目を放棄したのも分かってます。
ただ、だからって、やはり個々の国それぞれが武装しようって安易に流れちゃっていいのか。

また20世紀の二度の世界大戦のようなことが起こるよ。いや、もっと悲惨かも。
そもそも国連って、あの世界大戦の反省の上にできたものじゃなかった?

「非武装」を主張するのが、馬鹿にされるような世の中の雰囲気を誰かが作ろうとしている。
気を付けないと。それしかないと思わされることが一番危険です。

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2018.01.19

新春のエゴグラム

 皆様は「エゴグラム」ってご存知ですか?
 質問に答えていって、その答えによって性格を診断できるというもので、ネット上にもいろいろ診断できるサイトがありますので、興味がある方はやってみてください。

 性格診断は、何がいい、悪い、というものではなく、自分の性格の傾向を知ることができます。
 そこから自分の強みや弱みを知ることができる。

 今日、職場の研修で、久々にエゴグラムをやってみました。初めてではないような気がするけど、たぶん、えらい久々です。

 エゴグラムは、一回だけでなく何回かやるといいそうですよ。
 そしてやるたびに違う結果が出ることも。

 全般に、気持ちが弱っているときは低い点が出るそうですし、そういう意味でも自分が今、元気なのか、少し弱ってるのか、それも分かります。

 エゴグラムの結果には5つの指標があり、ある指標が高く出れば、性格的にその傾向が強く、低ければその傾向は弱い。そんなふうに読みときます。

 指標は「CP」「NP」「A」「FC」「AC」の5つ。
 Pは「parent」、つまり親で、Cは「child」、子供です。

 「CP」はcontrolling parent、説明を聞いて私は、これってつまり父親度だと思いました。
 責任感が強く、秩序を守り、信念があり、他人の言いなりにならずに、はっきりNOと言える。
 他人にも自分にも厳しい。
 これが強すぎてしまうと、権威的で支配的な感じになり、反感を買うことがあるようです。

 「NP」はnurturing parent、同じ親でもこちらは母親度でしょう。
 思いやりがあり、他人を受け入れることができる。
 人にやさしい言葉をかけ、親しみやすい。
 これが強すぎると、親切の押し売り、おせっかいになるようですね。

 「A」はadult。まんま「大人」ですが、この場合の大人とは、感情に惑わされず合理的に判断できる性格傾向のことです。
 仕事をする上では、生産性も高く、能率的で、いい相手のようですけど、強すぎると打算的で冷たいと思われがちみたいです。

 
 「FC」はfree child、天津爛漫な子供です。自由奔放で直観的で行動的、感情に素直。
 好奇心があり、積極性もあり、創造性に富む。
 強すぎるときまぐれで自己中心的って感じになります。

 最後の「AC」はadapted child、順応した子供。従順で他人に依存し、感化されやすい。
 周囲に合わせようとしすぎて主体性に欠けるきらいがあります。
 しかし忍耐強く、協調性に富み、他人に対しては寛大です。

 私の今日の結果は「A」が突出してました。
 冷たいと確かにたまに言われるなぁ。
 でも仕事に向いていると言われればまんざらでもありません。

 特に低いものはなかったのですが、標準より低めだったのは「FC」。
 エゴグラムで低くでるのは自分の弱点なので、それを自分で補おうとするのではなく、仕事の時は、自分に足りないものを補ってくれる人とチームを組むとうまくいくそうです。

 確かに、私、企画しろとか自分でなにか新しく創れと言われると超苦手なのよね。

 もし、誰かそういうアイデアマンが近くにいれば、それを取り入れて、合理的にそれを実現できるように助けることができるかも。メリットとそれに伴うリスクを考えながら、実現のためのベストな方法を考える。そういう仕事が結構好きかも♪

 そしてもう一つ低めだったのは「CP」。
 責任感は強くないんだよなぁ。
 いや、もちろん、やらなければならない仕事はしますが、理想とか使命とか信念よりも、できるかできないかの方が確かに私には大事で、つまりできない目標は立てないというか、そういうところで妙に打算的。
 冒険はできないし、できないものはできないと、自分に甘いし、要はかなりのヘタレです。

 だから「CP」の強い人がリーダーシップをとって、方針を示してくれたらうれしい。

 リーダーシップのとれる上司、アイデアマンの部下、両方がいれば、私がプロジェクトの実現のためにいくらでもお助けしますよ♪

 そんな気持ちになりました。

 いやぁ、面白いな、エゴグラム。

 私はNPやACもそこそこの得点なので、合理的で打算的な割には人と協調することもできるし、受け入れる度量もあるようなので、リーダーをやらせたり、企画をやらせたりしない限りは、組織の中でうまくやっていけるんだよな。

 これ、自分のことがよく分かっていいなぁ。また何年後かにやってみよう♪

 

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2018.01.10

「ベッキーにタイキック」問題について

私は件の番組を見ていないのですが…

たとえば子供達が「ガキの使いごっこ」と称して、誰かがボケてそれを笑ったらキックしていいというゲームをしていたとして、一人の子に他の子がキックを浴びせてたりしたら大人はそれを止めるのかしら。

止めるんだろうなぁ。

そういうゲームって、いつの間にか、特定の子がいつもキックされる側になり、キックする方は笑っても「今のセーフだもんね」とか言いながら、弱い子だけが「今、笑っただろ」とカウントされて一方的にキックを受ける側になるのが常。目に見えるようです…。

たとえば「男気じゃんけんごっこ」と称して、特定の子が、無理矢理、他の子におごらされて「ゴチになります!」なんて言われてたとしたらやっぱり大人は止めるんだろうか。

止めるんだろうなぁ。

この場合もおごらされる子は決まって来ちゃうだろうし。

これからは、こうしたバラエティ番組は消えていくのかもしれないな。
それがよいのか悪いのかは何とも言えません。
それで学校のいじめがなくなるかというとまた別の問題でしょうし。

クイズ番組と「あなたの余命○年」みたいな健康診断番組ばかりになるわけだわ。

個人的には、「しくじり先生」の復活を希望します。

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2018.01.07

運命って何だろう~映画「君の名は。」を見て~

1月3日に、アニメ映画「君の名は。」がテレビで地上波初放送となりましたが、みなさん見ましたか?

 私は映画館でも見て、今回、二回目でしたが、面白いし名作だと思うんですけど、この作品ってなぜか見終わった後に、もやっとした感じが残り、ネットでいろんな解説を読みたくなってしまいます。

 以下のリンクはそんな解説の一つ。なるほどなぁと思ったので御紹介しときます。
http://blogos.com/article/269090/

 リンク先の解説を読んで、私が思ったのが本日の表題。

 運命ってなんでしょうね?

 解説の中では「運命」と「意志」という二つのことが、対比するように書かれています。

 つまり「運命」は「意志」の力で変えられるか?ということ。

 解説の中で「君の名は。」とともに引用されている「秒速5センチメートル」と「国境の南、太陽の西」では、結局、運命は変えられず、人の意志は静かな諦めとなっていく。

「運命」、つまり過去から未来まで全てのストーリーが決まっているとしたら、それに乗っかって、私達は、植物や他の動物と同じように流れるままに、あるがままに生きていけばいいわけですが、人は時にその流れを自分で変えようとします。で、実際に変えてしまう物語が「君の名は。」

 そのように、運命と意志はしばしば、対立するようにフィクションの中で描かれるわけですけど、そうやって人が時間の流れを変えようとすること自体が、あらかじめ定められているのかもしれなくて、大昔から…それこそ「お釈迦様の手の中で暴れる孫悟空」みたいな例えでも描かれているので、人が古くからそうした「意志と運命との対立」というテーマを持ち続けていることが分かります。

 つまりこういうことかしら。
 人って生き物は、自然環境という定めを変えよう、変えようとして今まで進化してきた。それこそが人であることの意味なのかもしれないと思えるほどに。

 だからこそフィクション世界でも、このテーマで何度も作品が作られ、多くの反響を呼ぶ。

 現実の世界ではどうなんでしょう。

 科学の世界でも、経済の世界でも、ミクロとマクロでは物事の動き方や考え方が違ったりすることがよくありますが、現実世界での運命と意志の対立でも、ミクロの世界では人の意志が優先するけど、マクロの世界では運命が優先するように思えたりもします。

 たとえば今晩何食べようか、みたいなことは私達の自由意志で変えることができますが、今後の日本の人口減少は変えることのできないストーリーな気がします。

 それともミクロの意志決定がマクロの「運命」の流れを作っている、と言えるのかなぁ?

 だから人の意志で、運命さえ変えられると言えるのかしら。
 人類の進化とそれによる世界の変容はまさにその例とも言えるわけで。

 「運命」なんて人が勝手に作り出した定義なだけで、実はそんなものはないのかもしれない。
 何も決まっていることなんてないのかもしれない。
 
 けれど、人の意志は環境によって定義され、その枠の中で自我を形成し、意志を育てる。
 だとしたら、私達の乗り越えるべきものは「運命」ではなく「環境」であるのかも。
 そして「環境」を乗り越えるための手段が「フィクション」なのかも。
 自分に与えられた環境だけでなく、全く別の環境を知ることが本を読んだりテレビを見たり、あらゆる情報を得ることで出来る訳だから…。

 そうして人類は、世界を変えてきた。
 私達の意志に基づいて。
 それでもまだ「地球」という環境や「人体」という生物としての環境には縛られているのが21世紀なんですけど、もしかしたら、将来はそれすら乗り越えることが可能になるのかもしれないな。

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2018.01.05

作ってみた!

作ってみたよ。美味しくできました!
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2018.01.03

牛丼問題

 あけましておめでとうございます。
 今年も当ブログをよろしくお願いします。

 さて、新年最初の記事のテーマですが、ツイッターを眺めていたらこんなツイートが流れてきました。

(引用開始)

独身男性の皆さん、まだ牛丼チェーン店でご飯を済ませているんですか?国内産霜降り牛の切り落とし¥1000(400gくらい)を弱火で放置するだけで味の染み込んだ牛丼の頭ができます…。大盛りでも4食分ほどあります…。1食¥250です…。まだ牛丼チェーン店に通うつもりですか…。

(引用終わり)

 こちらのツイート、今年の元旦に投稿されていまして、以降、非常に多くの反響を呼んでいます。
 たくさんコメントがついていて、読んでいて、いろいろ考えさせられました。

 このツイートの後に、おいしい牛丼の頭を作るためのレシピも投稿されています。
 久原醤油のあごだしつゆを使うレシピでしたが、無論、普通のしょうゆでもよし。
 フライパンで肉と玉ねぎを炒め、酒、砂糖、みりんで煮て白滝を入れるだけ。私も作ってみようかな。
 
 で、まあ、それはいいのですが、この記事には、反論のコメントがたくさんついていました。

 それが皆、ごもっとも、というか、なかなか面白くて。いろんな考え方があるのだなーと。

(反論その1)
 面倒。

 久原醤油のあごだしのくだりもそうなんですが、私も一人暮らしなのでよくわかるんですけど、料理を普段しない人にとって、これだけのレシピがどれだけ面倒か、という話。

 作る人にとってはなんでもないことなんですけどね。

 要は自分で作る方が簡単でおいしくて衛生的だというのは分かっている。分かっているけど、自分で作るのは大変だから、牛丼チェーンにいく。そこで食べる一杯の牛丼がとてもとてもおいしい。

 分かるなーw

 実は私の家には砂糖がありません。みりんと酒は最近、煮魚をよく作るようになったので、あるんですけどね。
 なので、普段は、レシピに砂糖とあるだけで、そのレシピは使いません。

 独身男性なんて、みりんや料理用の酒だっていちいち買ってこないとないでしょう。
 
 もちろん、買えばいいだけではありますが、砂糖もそうですけど、たとえばたまに牛丼のあたまを作るためだけに砂糖や酒やみりんを買ったとして、次に使うのいつって話。

 ソースや醤油だって、使い切らずに賞味期限が切れて冷蔵庫の肥やしになるというのに・・・

 自分で作る方がおいしいし、安いのは分かっていても、作んないよなぁ~。
 普通に牛丼チェーン行くよなー。

 私は反論コメントの方に非常に共感してしまいました。

 でもね、こっちの反論コメントは意外でした。

(反論その2)
 人の作ったものの方がおいしい。

 へぇ。男性ってそうなんだ。
 いや、男性に限らず、家庭の主婦だって、旅行にいって、食事が出てくると、
「片づけもしなくていいし、誰かが作ってくれるっていいわねー」
 とおっしゃるので分かる気もしますが、それは楽だってことで「その方がおいしい」かどうかはまた別の問題な気がしていました。

 楽だというだけでなく、本当に自分が作るものよりも人が作ったものの方がおいしいってあるのかな?

 いや、たとえばね。風邪で寝込んでいるときに、旦那が心配して作ってきてくれたおじやなんかおいしそうですよね。

 そうじゃなくても、一流の料理人が一流の食材を作って作った一品をレストランとかで食べたら、自分で作ったものよりもそりゃおいしいでしょう。

 でも牛丼チェーンでも? 自分で作るんじゃなく、人に作ってほしい? その方がうまい?
 これにはびっくりしました。

 私は自分で自分のごはんを作るようになってもう長くなりますが、外食よりも家庭で作ったものの方がおいしいです。たとえば餃子でもハンバーグでもね。作るのが面倒なので、餃子もハンバーグも一人暮らしでは作りませんけど。

 料理ってのはレシピどおりに作れば大体そのとおり出来上がるものなので、そんなに難しくないです。
 少なくとも自分が食べる分にはね。
 人に食べさせるのは難しいです。その日、何が食べたいかは人によって違うからなぁ。好みもあるし。
 私は家族に食事を作る主婦(夫)を尊敬します。

 自分で食べるものは自分が食べたいものを自分で作る。
 私はこれが全ての基本だと思っていました。

 人の作るものは、自分で作るよりも概ねおいしくないけど、作る手間をお願いしているんだから、それは文句を言ってはいけない。 
 そう思っていたので、「人の作ったものの方がおいしい」という人がいるのにはびっくりしました。
 
 ・・・男子厨房に入らず、なんて人が今もいるのかな。
 料理なんて、人がするもので俺様がするもんじゃない、的な。
 いやぁ、でも俺様が作った方が絶対うまいって(笑)。

 面白いなぁ。
 とりあえず、ちょっと牛丼のあたまは、私、自分で作ってみたいと思います。私にあの牛丼チェーンの味が出せるかな。
 それにはそうか、砂糖を買わないといけないか・・・大体、ちょっと使った後、固まって何年も放置されることになるんですよね。スティックシュガーにするかなー。
 少し考えてみます。みりんの甘みだけでもいけるかもしれませんしね。

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