アニメ・コミック

2017.04.24

好き過ぎる♪ 「正解するカド」

 知り合いの勧めで、この4月から「正解するカド」というアニメを見始めました。

 「正解するカド」? ヘンな名前…。
 というのが第一印象でしたが、第一話を見たら、めちゃくちゃ面白い。一言で言うと「リアル」。

 何がリアルかというと、今のこの日本にもし信じられないような「超常現象」が起こったとして、それに私達はどう対応するのか、というリアルさです。昨年、公開された映画「シンゴジラ」を見たことがある方なら、ああいう感じ、と思っていただければ。

 「超常現象」とは…
 ある日、突然、羽田空港の上空に未知の「何か」が現れます。

 「何か」としか言いようがないのですが、見た目は馬鹿でかい立方体の構造物。一片が2キロメートル以上あります。
 そういうものがいきなり上空に出現し、空から羽田空港の滑走路に降ってきて、たまたま滑走路にいた飛行機が一機、下敷きになってしまいます。

 一体これは何なのか?
 どこから現れたのか?
 それはともかく、下敷きになってしまった飛行機はどうなったのか? 乗客は全員死亡? という大きなニュースになりました。

 立方体は未知の物質でできていて、外部からのどんな干渉も受けません。
 壊すこともできないし、全く、何なんだ、これは?

 と、対応に苦慮しているところへ、いきなり、物体の上部が階段状になったかと思うと、一人の人間がそこから現れました。なんと、それは下敷きになった飛行機の乗客の一人。

 そして、その後からもう一人。
 その人物こそがヤハクィザシュニナ。この立方体の所有者(?)だったのです。

・・・というところが第一話なんですが、導入部がリアルなので、ヤハクィザシュニナの登場シーンに仰天しちゃうんですよね。

 え? 宇宙人? 何なの? 的な。

 いや普通、アニメでSFなら宇宙人や幽霊や未来人や地底人、どんなものが出てきたって驚きませんよ。
 設定が超リアルなため、つい現実を前提に物語に入ってしまうので、目の前に人でないもの、なのに人の形をしているものが登場した時点で、びっくりしちゃう。

 今、アニメは3話まできていますが、そのヤハクィザシュニナという人に見えるソレが何なのかは全く分かりません。もちろん馬鹿でかい立方体の正体も。

 でも、ちょっと分かってきたことはあります。
 どうやら立方体(この立方体が「カド」と呼ばれています)はノヴォと呼ばれる異世界からこの宇宙に出現したらしい。
 そして「ヤハクィザシュニナ」は、人類とのコミュニケート用に用意された「人型(ひとがた)」みたいです。
 でもこのコミュニケート用「人型」はよくできていて、カドに飲み込まれた飛行機に乗っていた人間が持っていたスマフォを調べることで、人類のコミュニケーションの方法や言葉を一瞬にして学習してしまいます。

 カドに飲み込まれた飛行機は、カドの中で無事で、乗客も全員生存していました。
 たまたま載っていた外務省の役人が「タフネゴシエーター」と呼ばれる交渉人のスペシャリストで、彼が、人類として最初にヤハクィザシュニナと接触しました。
 ヤハクィザシュニナも人類とのコミュニケートに彼を間に立てることが有効だと判断し、以降、人類とカドの交渉は彼が間に立って行われることとなります。

 真道(しんどう)という名のその交渉人は、かなり優秀でこれまでも様々な交渉を手がけていることから、ヤハクィザシュニナという得体の知れない存在にも臆することなく接しています。

 「臆することなく」
 普通、こういう場合って「冷静」に、というのが一般的な気がするんですが、真道さんという人は不思議な人です。冷静って感じでもないんですよね。
 未知の存在を目の前にして、クールではないんですよ。恐れもない。普通は怖いと思うんですが、どうも怖いとは思ってないみたい。勇気があるなぁ。
 相手が何をしようとしているのか。何を求めているのか。それに興味がある。というか相手の存在に自分も興味がある。
 ヤハクィザシュニナとのコミュニケートを本人も楽しんでいるように見えます。
 そして彼の言葉、彼の意図を人類に伝えることが、自分の役割であることに「燃えている」という感じ。

 カドが出現の際に飛行機を飲み込んでしまったのはたまたまで、真道さんがその飛行機の乗客だったのもたまたまなのですが、「カド」と「ヤハクィザシュニナ」にとっても、ファーストコンタクトがこういう人類だったのはまさに僥倖だったでしょう。普通はこうはいかないよなぁ。

 「カド」の出現の目的は不明で、ヤハクィザシュニナの話だと「人類を推進するため」らしいですが、何のために「人類を推進」させたいんですかねぇ?

 ヤハクィザシュニナはまずその証として「ワム」と呼ばれる、無限の電力を、彼らがやってきた「異方」からこの世界に供給するという物体を現出させます。

 もう一つ一つがパニック。
 ファーストコンタクトには「贈り物」は必須なのかもしれませんが、この贈り物はちょっととんでもなさ過ぎでは・・・

 というか、人類との接触にあたり、最初にワムの提供を申し出ろと言ったのは、誰なの? 真道さんなの? もうびっくり。

 真道さんとザシュニナ(略称で呼ぶのは信頼が深まった証らしい)は、どうも舞台裏でずいぶんいろんなことをコミュニケートしているみたい。ザシュニナの意図をかみくだいて分かりやすく伝えるのも真道さんの役割みたいですが、私はこの舞台裏に非常に興味があります。どうやってるんだろう? 

 つまり真道さんは人類ではあるけれど、ザシュニナの代理人なんです。
 ザシュニナの意図を汲み、彼の提案を人類に受け入れさせるように動いている。どこまで彼はカドとザシュニナのことを理解しているんだろう? 興味は尽きません。

 ザシュニナは謎ですねぇ。
 なんであの姿と格好なんだろう。
 カドもなんであの形なんだろう。
 あれだけ大きいものが出現したら、確かにオオゴトで政府が動くわけですが、そういうの分かってたのかしらん。全人類が相手ならたとえば地球の外から彗星のふりして現れてもよかったのに、なんで「カド」なの?

 ザシュニナはなぜあの姿形なの? もっと年配でもよかったんじゃ? 日本に出現するのに、なぜ日本人をシュミレートした人型じゃないんだろう。髪が白、目が赤なのはなんで? 女性型でもよかったのになぜ男性型なの? 裸じゃないほうがいいと言われてなんであの服なの? 上着は絵本の王様を参考に作ったみたいだけど…

 もうね、謎だらけ。
 そして知りたいことだらけ。
 
 そして・・・
 この作品もDVD化されるし、あとでまとめて見る人もいそうなんですが、リアルタイムで毎週放映されるアニメを見るというこの体験はまた格別です。まさに今しかできない。
 次の回まで、カドとヤハクィザシュニナの正体をあれこれ想像し、後の展開を予想する・・・楽しいなぁ。
 DVDでまとめて見るんじゃこの楽しみは体験できない。

 皆様、まだ間に合います。見逃した方はネットで動画が配信されていますので、3話まではそれで見て、残りは一緒にリアルタイムで見ましょう。
 これ、すっごく面白い♪

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2016.04.03

「私だけがいない街」

 2016年の1月~3月の期間で、「僕だけがいない街」というコミックが原作のアニメが放映されていました。何かの事件が起ころうとするときに、一人だけ時間が逆行するという「リバイバル」と名付けた能力を持つ、一人の青年の話。時間が逆行した瞬間に、青年は、その未来の記憶を利用して、起こるはずの事件を未然に防ぐことができます。
 このリバイバルがすごいんですよね。主人公の母親が何者かに殺されるという事件が起こって、その際にもリバイバルが起きるんですが、なんと、青年は、小学校の時の自分にリバイバルする。つまり「母親が殺される」のを防ぐためには、小学校時代でその原因となる事件を防ぐ必要があるという…いやぁ、この導入部の設定ですごくドキドキしました。
 果たして、彼は、心は大人のまま戻ってしまった小学生時代の自分の力で、母親を救い、かつ、その事件の原因となった連続幼女殺害事件を防ぐことができるのか!?
原作のコミックは未読ですが、アニメには本当に夢中にさせられました。2016年4月現在で、すでにアニメは最終回まで終わっていて、どうなったか私は知っているのですけど、ラストは原作とは違うのかな~。
 お馴染み、藤原竜也が主演する実写映画にもなっていて、昨日、それも見てきました。映画とアニメのラストは大きく違います。私は、アニメの方のラストが好き。いい意味で予想を裏切ってくれてるから。映画の方は「僕だけがいない街」というタイトルならそうなるでしょう、というある意味では予想どおりのラストです^^;

 と、「僕だけがいない街」の話を書いてきたところですが、今、ふと思ったこと。
 この話の中に「雛月加代」という女の子が出てくるのですが、この記事のタイトル「私だけがいない街」はこの子が小学校の文集に綴ったお話です。抜粋しますと。

(引用開始)
今よりもっと大きくなって一人でどこへでも行けるようになったら遠い国に行ってみたい。遠い島に行ってみたい。誰もいない島に行ってみたい。辛いことも悲しいこともない島に行ってみたい。島には大人も子供もクラスメートも先生もお母さんもいない。その島で私は登りたいときに木に登り、泳ぎたいときに海で泳ぎ、眠りたいときに眠る。その島で私は私だけがいなくなった街のことを考える。子供はいつものように学校に行く。大人はいつものように会社に行く。お母さんはいつものようにご飯を食べる。私は私だけがいない街のことを考えると気持ちが軽くなる。遠く遠くへ行きたい
(引用終わり)

 映画で改めて触れても、とても心に残る文章です。
 なんというか、めちゃくちゃシンパシーを感じるんですよ。そのせいで、アニメの雛月が自分のことのようで。そうか、だから、私はこのアニメが好きなのか。

 物心ついたときから、誰もいないところでずっと一人でいたいというのは私の願望でした。
 誰にも構われたくない。一人で本を読んだり、心の中でお話を作って遊んだりしていたい。
 
 雛月のこの文章を第三者として読むと、とても孤独を感じる切ない話なんですが、私自身は心からほんと、誰もいない島にいって「登りたいときに木に登り、泳ぎたいときに海で泳ぎ、眠りたいときに眠る。」こういうふうに暮らしたかったんだよな。
 雛月のような状況に自分がいたわけではないんですけどね。
 でもなんとなく雛月が感じていたはずの「閉塞感」には心あたりがあって。

 子供の頃って何かに閉じ込められているような気がしていました。
 毎日やることが決まっている。やりたくないのにやらなくちゃいけないことがたくさんあって、明日が来るのが怖くて。明日が来ればまた学校に行って・・・うん、私はいじめられっ子だったのでね。また明日がくれば友達にいじめられる。それが嫌で、とてもつらかったのです。
 
 だから、誰もいない島に行きたい。登りたいときに木に登り、眠りたいときに眠る・・・望むのはそれだけ。
 思い出しちゃったな。

 雛月はいじめではなくて、いじめよりも子供にとっては逃げ出せない、親からの虐待という状況にあるわけですけれども。
 今、この瞬間も、私や雛月のように苦しくて辛くて、なのに自分ではどうしようもない状況に置かれて苦しんでいる子供たちが、この日本にはどれだけ多くいるのかと思うと胸が痛くなります。

 だからこそ、きっと、そんな雛月を救い出そうと奮闘するこの「僕だけがいない街」という作品が私にとっても救いになるんだろうなぁ。

 子供の頃のいじめられっ子だったときの記憶なんて、もうとっくに忘れたと思っていました。
 私、今、いくつだよ~(苦笑)
 意外と覚えているものですわ。
 
 でも、今、私はあの頃、望んでいた場所にいます。木には登れないけれど、遠い国にも遠い島にも好きな時に行ける。眠りたいときに眠り、食べたいときに食べ、さぼりたいときはさぼり。ここには私以外、誰もいないので、望むだけ一人でいることができる。それがどんなに私にとっては幸せなことか。
 こう書くと、自分がめっちゃ孤独だなぁと自分で思わないでもありませんが、実際、これ、とってもぜいたくで幸せなことなんですよ。

 一人でいられてよかった。
 欲しいものを間違えないでよかった。

 今、私はそう思っています。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2015.03.05

「孤独のグルメ」

「孤独のグルメ」という作品が人気らしいです。
コミックが原作ですが、ドラマにもなっています。

先日、ちょっとドラマを見てみました。
確かに思わずクスッと笑えます。

私達が一人でご飯を食べる時って、
(うん、これはうまい。うまいぞー)
(やっぱりごはん&納豆ってベストよね)
(あ~昼もカレーだった。失敗したー)
とかって心の中でいろいろ考えつつもすました顔で黙々とご飯を食べています。

それをそのまんま表現しちゃってるのがおかしい。
でも確かに「あるある」って思って共感できてしまう。

(さてと・・・どこかでランチしようかな。
 ドトールやスタバは近くにあるけれど、そうじゃなくてもうすこしがっつり食べたい。
 パスタやピザじゃなくて、今日はご飯だな。
 具だくさんの味噌汁が食べたい気分・・・)
とか思いながらランチの店を探している自分にめっちゃかぶるんですよ。

こういう作品が人気っていうことは、「一人飯」をしてる人も案外多いんだな~。

そして一人だからって無味乾燥なわけではなく。そこには一人だけの自由で、贅沢で、気ままなグルメの世界が広がっている。
主人公がお酒がダメというのにも共感。私もお酒はほとんどだめなので。

ところで、毎日のお弁当をツイッターにアップしている私だったら差し詰め「孤独のお弁当」と言ったところでしょうか。

Photo
(ふむ・・・週末に一パック買ったいちごがまだ残っているな。
 まだ傷んでいない。これならいける。
 そして今日はパスタ。週に1度ご飯ではなくパスタの日を作るのがアクセントとなるのだ。)
とか言いながら、今日もお弁当を詰めました。

さあ、皆様も。
味わい深く、とても豊かな「一人○○」の世界へようこそ。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2014.09.17

黒執事Book of Circus

 枢やな原作の「黒執事」のアニメ第三弾、「黒執事Book of Circus」が最終回を迎えました。
 この「黒執事Book of Circus」、オープニングから大変なクオリティの高さで、ただのアニメではなく、DVDになって永久保存版を狙ってるとしか思えない作品でしたが、最終回の出来にもびっくりしてしまいました。

 お話は、原作のサーカス編と同じです。
 だから、原作コミックを読んでいる私はストーリーは全部知っているんですが、それでも今回の第三弾は面白かったなー。

 ちょっと別な話になりますが、実は先週の土曜日、ミュージカルの黒執事をまた見に行ってきました。
 ミュージカル「黒執事 地に燃えるリコリス」ね。

 私は黒執事のミュージカルは前作、「千の魂と堕ちた死神」を見てあんまりおもしろいので、舞台を見た後、ライブビューイングも見てDVDも買ってしまったクチなんですけども(そのときの感想はこちら)、今回の「地に燃えるリコリス」は正直言って今一つでした。(ファンの方、申し訳ない)

 前作のストーリーはオリジナルで死神派遣協会のパワフルダンスなどが超楽しかったんですが、今回のミュージカルは原作どおり。原作どおりでストーリーを知ってるからつまらなかったのかなぁ・・・と思ったりもしたのですが、今日、アニメの「黒執事Book of Circus」を見てそうじゃないことを図らずも実感してしまいました。

 なんというか・・・原作どおりに作るって言っても、それだけじゃやっぱりだめでこれって意外と難しい。 アニメの「黒執事Book of Circus」は、その難しいことをやり遂げちゃってる。これはすごいことです。コミックと比べてみたのですが、最終回、ほぼ原作とアニメの絵はアングルから何から同じ。でも、アニメは動いているので、それに合わせて、少しずつはちゃんと違うのです。紙芝居では面白くないものね。どこで音楽を流すか、どこでセリフを入れるか・・・すごいなぁ。なんでこんなふうにできるんだろう。
 そして「サーカス編」の最終回の名シーン。
 なぜここでシエルがこう言うのか、なぜここでセバスチャンが・・・そういうことがしっかりと伝わってくるラストシーン。いやぁ、すごい。

 
 以前、アニメの「デスノート」の時も同じように思ったっけ。
 デスノートのアニメは原作とはちょっと違う終わり方なのですが、私はあの終わり方大好きです。
 「デスノート」という作品を、このアニメを作った人がどう解釈して、どう描きたいかが伝わってくる。
 
 こういう作品って、どうやってできるんでしょうね。監督がいいのかなぁ。

 ミュージカル「黒執事 地に燃えるリコリス」はとってももったいなかったです。役者さんは前作同様すごくがんばってて、みんな原作のイメージそのもの。マダムレッドも素晴らしい演技でした。シエルもがんばってたし。
 でもなぁ・・・なんであんなつまらなくなっちゃったんだろう。

 ミュージカルで今回題材となったエピソードは、グレルの初登場シーンです。
 ミュージカル黒執事のグレルさんは、前作でも芸達者ぶりに脱帽してしまったので、このエピソードではどれだけはじけた、めっちゃ面白い、最高のパフォーマンスを見せてくれるのかと期待してたのに~~~
 原作どおりじゃつまらない。いや、原作どおりでもいいのだけど、もっともっとセバスチャンとの対決シーンは盛り上げないと~~

 いや、その意味でも、ですよ。

 「サーカス編」のラストシーンは、黒執事史上に残る名シーン(と勝手に思っている)なので、アニメではどうなるのかどきどきものでしたが、「黒執事Book of Circus」でのシエルのセリフはすごかった!! 
 
 この感動が伝えきれないのがもどかしいですが、イメージどおり、いえ想像以上のシエルのセリフに、ホントにびっくりしてしまいました。
 そしてそのあとに続くセバスチャンのモノローグがまたいいのよね~

 と、いうように・・・何と明確に言い表せませんが、面白くていいと思える作品になるか、そうでもない残念な結果になってしまうかは、もちろん見る側の好みもあるのでしょうけど、何か、大事なポイントがあるようです。

 「黒執事」って、原作は原作で面白い作品なんですけど、そうであればあるほど、アニメやミュージカルやいろんな媒体で、波及した作品が作られていく。
 
 その中でも「黒執事Book of Circus」は素晴らしい名作となりました。これを見られてよかった。制作に携わった皆様、お疲れ様。お見事でした!
 
 「黒執事」が好きな一ファンとして、心から感謝申し上げます。 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2014.01.20

フルリスペクト ~一直線の尊敬~

 先日、黒執事原画展を見に行き、コミック最新刊も発売されましたので、コミックを読み返していてふと思ったこと。
 とあるエピソードでこんな才能を持つ青年が登場します。

 その青年は、自身に何か特別に秀でたものがあるわけじゃない。
 でも、周りに特別な才能を持つ天才がいると、その人を尊敬し、自分もその人に近づけるように努力を惜しまない。
 そうしてその天才と同じ技術を身につけてしまう。
 これは紛れもなく一つの才能であり「黒執事」の中ではその才能を「フルリスペクト」=一直線の尊敬、と名付けています。

 このエピソード、前に読んだ時はそれほど印象に残っていませんでしたが、最近、ネットの有料動画で「黒子のバスケ」を視聴しまして。
 見たことのある方はピンと来ると思うのですが「黒子のバスケ」にも主人公の黒子(くろこ)君を含め「奇跡の世代」と呼ばれる6人の天才バスケットプレーヤーが登場します。
 その一人、黄瀬(きせ)君が「フルリスペクト」に似た(もしかしたら同種の)才能の持ち主なのです。
 「黒執事」よりも、「黒子のバスケ」における黄瀬君の才能はより詳しく描写されているので、「黒子のバスケ」を読むとよりこの才能の本質が理解できるような。

 黄瀬君の才能は「黒子のバスケ」では「コピー」と表現されています。
 相手チームのエースプレイヤーの優れた技を一瞬でコピーできてしまう。
 これは・・・敵チームにとっては驚異ですよね。
 コピーというと自分では努力せず、相手の技を盗む、みたいであまりいいイメージはないですが、黄瀬君はもともとバスケに限らず、他の人が何かをやっているのを見ると、自分もすぐできるようになってしまう子でした。

 「黒子のバスケ」ではそれを「学習能力が高い」と評します。
 何かを習得しようとするときって、それなりに時間がかかるのが一般的。
 でも黄瀬君の場合はその「時間」が人並みはずれて短くて済んでしまうのです。これが黄瀬君の才能。
 すごく特別なことのように思えますが、実はこれってそうでもないのかもしれません。
 テレビから流れてくる歌をすぐに覚えて歌えちゃう子っているでしょう。
 誰も教えてないのに、見たものを、そのまますらすら絵に描けちゃう子もいます。
 他の人がなぜできないのかの方が分からない。
 黄瀬君に限らず、普通の人が時間をかけて習得することをあっという間にできてしまう人はいます。

 黄瀬君の「コピー」はだから「真似」ではない。
 いえ、正しくは「真似」ではありますが、それは私達がみんな普段「学習」という名前で呼んでいる作業の時間がものすごく短縮されたバージョンといっていいでしょう。
 「黒執事」で「フルリスペクト」の能力を持つ青年もクリケットの試合で一度見ただけの相手プレーヤーの投球方法を同じように再現することができました。

 見ただけで何でもできてしまう黄瀬君にも、唯一、なかなかコピーできないバスケットプレイヤーが「奇跡の世代」にはいて、黄瀬君はその彼に勝つために、彼への「憧れ」を捨て、彼のプレイの完全コピーに挑戦します。
 この流れは「一直線の尊敬」が相手の能力を習得することにつながる「フルリスペクト」とは反対で、黄瀬君の場合は、相手の全てを自分が習得してしまうことによってもう学ぶものがなくなっちゃうとつまんなくなっちゃうというトラウマがあってそれまでは相手のプレイのコピーがどうしてもできなかったんだけど、そういう思いを捨てた時に完全コピーが完成する、という話でした。

 ただ、それまではやっぱり自分のをいく人への憧れがあって、黄瀬くんもそれがあったからバスケやってきたんだな、と。
 「憧れ」そして「尊敬」が自らを高みへと導く、そういう「才能」っていいな~と、全然関係ない二つの物語に、似たような才能の持ち主が出てきたのを読んで改めて思った、という話。

 よく受験や就職の面接で「尊敬する人は?」って訊かれるって言いますよね。
 皆さんはそれって誰って答えますか。就職面接だと「父です」とか答えると印象がいい、と前に聞いたことがあるな。

 私は「尊敬する人物」と言われてピンと来る人が昔はいませんでした。
 当時、「千代の富士」は尊敬してたけど。だって一人横綱で各界を背負って立つなんて並大抵の覚悟でできることじゃないし~。
 でも就職面接で尊敬する人物を聞かれて「千代の富士」とか答える女子学生がいたらびっくりされただろうな。
 よほどの変わり者だと判断されて落とされそう。
 今の職場の面接では、あんまり覚えていませんがその質問自体されなかったんだと思います(笑)。

 「尊敬」ってのは本当は誰でもいいんだな。
 自分より優れているものを持っている友人なら誰だって。
 そうやって周りを尊敬できることが才能ならば、そういう才能こそが実は私達にとってもっとも必要なものかもしれません。

 でもやっぱり今でも私は「尊敬する人」を聞かれたら困ってしまうな・・・
 本音を言えば「天上天下唯我独尊」だからな~(こらこらこらこら)
 だから何もできるようにならないんだなぁ、うん。
 皆様、こういう大人になってはいけませんよ。

 今からでも、周りの人を少しずつでも尊敬できるように、そしてそういう人に近づけるようになりたいと思います。

 でも「リスペクト」には「尊敬」だけでなく「尊重」の意味もあるんだって。
 「尊重」なら得意。
 「人は人、自分は自分」ってことだものね。 え? 違う?(爆)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2012.02.17

「コードギアス 反逆のルルーシュ」

「コードギアス 反逆のルルーシュ」というアニメを有料のネット配信サイトで見ております。

ちょっと前のアニメなので、何を今更、という方もいるでしょうが、そのネット配信サイトで複数話無料キャンペーンをしてたもんで(汗)。

原作がコミックで実写映画やアニメにもなった「デスノート」や、最近ですと貴志祐介の小説「悪の教典」などが好きで、昔は田中芳樹の「銀河英雄伝説」にはまっていた私。

要は、悪魔的に頭のいい主人公が、自らの目的を達成するために戦略を巡らし、敵と対決し、時には人間としての情に揺れつつも、非情に徹して突き進み、最後には破滅する・・・というお話がツボのようです。
「銀英伝」のラインハルトは破滅はしてないですが、あんまり幸せな最後とも言えない感じだものなぁ。

普通の人間には、果たそうと思っても果たせない理想、みたいなものがあります。
もし悪魔的なくらいに頭がよかったなら・・・もちろん、その頭の良さを、地味で難しい研究分野にのみ使えば、トラブルにも犯罪にも結びつかず、巷からは「変人」と見られながらも、そのうちにノーベル○○賞をとったりするような論文を発表して世間をあっと言わせたりするのかもしれませんが、ルルーシュも月くんもラインハルトも、みな、世界を変えようと願い、実際にそれを実現することにその才能を使います。
普通の人間には果たせない理想を、その力で実現する。憧れちゃうな。

そんな彼らに対して、正義面して足を引っ張る人間が出てくるのも定石で。天才でもさすがに人間ですから、正義や情で責め立てられれば傷つかないわけはない。
それでも、自分の信念のために彼らはがんばります。がんばるけど、最後はあまりいい死に方はしない。意外と一番しぶといのは凡人なのかも・・・と凡人代表の私は思ったりします。
だからこそ、世界を変える力を持つ頭のいい人に憧れてしまうのかもしれません。

・・・なんだかんだ言っても日本は今のところまだ平和ですね。
問題がないとは言えないけれど、ルルーシュ達のように自分の力で世界をひっくり返そうとする人はまだ出てこない。「コードギアス 反逆のルルーシュ」の世界では、日本はブリタニアという国に征服され、日本ではなく「11(イレブン)」というナンバーで呼ばれています。それでも変革は日本人ではなく、ブリタニア人のルルーシュによりもたらされるわけで、それも考えてみたらかなり皮肉な話だな。

たとえば昔の田中角栄や今の橋下さんは、もしかするとそういう存在だったりするのかしら。
現実の世界でも案外、世界をひっくり返す計画が裏の方で着々と進んでいたりするのかも?

こんな言葉がありますな。
「強くなければ生きてはいけない/優しくなければ生きる資格がない」

頭がいい、ということは「強い」ということに他なりません。物語に出てくる頭のいい人たちは幸せな結末を迎えることがかなり少ないのですが、強さと優しさを兼ね備えた人、リアルでもどこかにいないものでしょうか^^

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.02.15

グレアムの教え

前にも書いたことあるかな。

昔、グレアムがこんなことを話していました。
え? グレアムって誰って?
亡き三原順さんのマンガ、はみだしっ子というシリーズの主人公の一人です。
また二次元の話かよ、と言わず、まあ、ちょっと聞いてください。

AとBという二人の人がいて。
AはBが幸せじゃないと自分は幸せじゃないと思う。
BもAが幸せじゃないと幸せじゃない。

BはAが幸せじゃないのは、自分が幸せじゃないからだと思って落ち込む。
そんな悲しそうなBを見てAも悲しくなる。
悲しそうなAを見てますますBは・・・

という負の連鎖がありまして。
お互いがお互いのことを愛していて、自分のことよりも相手の幸せを心から願っているのに、なぜか二人とも互いの姿を合わせ鏡のように見ながら、ずっとその不幸せな状態から抜け出せなくなってしまう。

この負の連鎖は、AかB、どちらかがその思考回路から抜け出して、自分が幸せになることを考えられれば止めることができます。

Aが幸せになればBも幸せ。
Bが幸せならAはもっと幸せ。

件のグレアムは、そんなふうにいつも先に幸せになって、ともすれば負の連鎖に落ち込みそうになる自分を救ってくれた子がいたことを、知り合いになった少女に打ち明ける、というのがそのマンガでの1シーンでありました。

「はみだしっ子」を読んだのはまだ10代の頃でしたが、その後も折りにつけ、このグレアムの話を思い出します。

人を好きになったときって、一番、望むのは、好きな相手を喜ばせたいということだったりしませんか。
そのためにプレゼントを贈ったりして。相手のために自分ができることを考える。
でも、それって決していい結果をもたらすとは限らない。

だって相手にとっては、好きでもない人から勝手に「きみ、これ欲しかったよね」と本当は欲しくもないものを贈られたところで嬉しくもなんともないわけで。
「てめぇの自己満足で、こんなもの贈ってくんな」
と思いつつ、そんなことを言って相手を傷つけるのも悪いから、にっこり「ありがとう」と言ってみたりね~

冒頭のAとBのたとえは、これと同じことが「好きな相手」でも起こり得ることを示唆しています。両思いでもね。いや、両思いだからこそ、かな。

仮にAがBのためにと思って、ものすごい無理をして、たとえばうん百万するダイヤの指輪をプレゼントしたとします。
でもBはそんなもの欲しくない。苦労して手に入れたプレゼントなんかよりも、Bが一番望むのは、Aが自分のそばで笑って幸せでいてくれること。
「自分のために無理をさせてしまった」なんてのはBにとって負い目でしかないのです。

だからBはせっかくのAのプレゼントに全然喜ばない。
それを見てAは悲しくなる。悲しそうなAを見てBはもっと悲しくなる。「喜ばせよう」と思ってくれたAの期待に応えられなかった自分を責めて落ち込む。時には嘘をついて喜んだふりをするかもしれない。

でもそれも逆効果で。
Aは、本当は嬉しくないのに自分のために無理して喜ぶふりをするBに失望してしまう。というか大好きなBを喜ばせることができないどころか逆に気を遣われている自分に失望してしまう。それを見てまたBは・・・

もうこうなると、プレゼントなんてしなきゃよかった、ということになるわけですよ。あ~あ。

いや、なぜこんな話になるのかというと、やっぱりバレンタインデーだったからですな。
チョコレートもいいけれど、本当はAとB、どちらかが先に幸せになることが、お互いにとっての一番のプレゼントなんじゃないかしら。

自分が先に幸せになることがまるで罪悪かのように考える必要なんかなくて。
本当に好きな人のためを思うなら、何よりも自分が幸せでいることが一番大事です。

必ずしもこれは男女間の話に限りません。親子だって同じで。親は子供のために自分を犠牲にしていろんなことをやってあげたいと思いますが、そのためには親自身が自分を大事にできなければね。

だから私も…そんなふうに自分が先に幸せになって、私を大事に思ってくれる人を悲しませることのないように。
もっと言うなら、その人を幸せにするために、自分自身がいつも、未来への希望を持ち続け、幸せに生きていきたいな、なんて思いながら毎日を過ごしています。

…ん? そういう人、いたのかって? いやぁ~? それはまた別の話(おい)。

| | Comments (4) | TrackBack (1)

2009.12.15

死と運命と~パーム6「オールスター・プロジェクト」~

獣木野生さんの「パーム」という作品を友人からお借りして読んでいました。
どんな作品だか一言でいうのは難しいのでウィキペディアのリンクを貼り付けます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%B8%E6%9C%A8%E9%87%8E%E7%94%9F

全部最後まで読んだわけではないのですが、昨日、「オールスター・プロジェクト」まで読んで感慨無量になっていました。

人の一生を思う時にいつも昔、飼っていた猫のことを思い出します。
猫は人間よりも生きている時間は短い。でも多分、猫は猫なりに一生を全うして生き、そして死にます。
人間だって分かりません。
何歳まで生きられるか誰も知らないし、長生きがいいとも限らない・・・

なんてことをね。
考えてしまうと眠れなくなっちゃいます(ちゃんと寝てますが~)。

軽々しく「運命」って言葉を使いたくないのですけど、おそらく「死」は、本人の意志でどうにもならない部分もあり、(多少は長生きするように努力することもできますが)いつそれがやってくるかはやはり運命なんだろうと思います。

本人がどうすることもできない「何か」が目の前にあるとき、人はそれに対してどうするのがいいのだろう?

多分、猫もそうですが、世の中に生きる人間以外のあらゆる生き物たちは、どうすることもせず、与えられた運命を全うするのみ。

でも、人間だけが運命に抗おうとします。
それはもちろん「死」だけでなく。言われない差別や病や経済的な不利や身分の違いや、または男であったり女であったりすることに対しても。

そして人間はそれを果たす力があって。
今や本来なら「人」という生き物が生存するはずもない宇宙においてまで、いろいろな人としての活動を展開させている。
すごいことですな。

この調子でいけば「死」も克服しちゃうかもなぁ。あと遅くとも・・・500年くらい平和が続けば。
そうなったときに人類が幸せなのか不幸なのか分かりませんが、ちょっとその時代に生まれたかった気もします。
とはいえ、まだ人間に寿命があった時代に生まれちゃった私としては、それもまたどうしようもない運命でこればっかりはじたばたしても始まらない。

逆に言えば、「人間に寿命があった時代」だからこそ、この時代に生まれたんだろううし。だって、寿命が無くなっちゃったら人が生まれることも少なくとも今よりはとても少なくなるのが必然ですものね。
たとえば、昔、子供といえば7人とか8人とか生まれるのが普通だった時代があって。
生まれても流行病で8人の内2人しか成人しなかったりもした時代ですよ。

今は一組の夫婦から生まれる子供は2人くらいで、そもそも結婚をしない人も増えてるわけですから、それでいえば、昔より「生まれなかった」人というのは今の時代だって増えている。
今よりももっと先になって人類が死を克服してしまったら、その時代にはもう生まれようがないものなぁ。

閑話休題。

そんなわけで、とりあえず私も今のところ、この時代で生を全うするしかありません。全ての人と同じように。
時にそれをとてもせつなく感じたりもするわけですが・・・

「パーム」という作品の中で、登場人物たちがその時代をどう生きたか、リアルに生きる私たちはそれを読むことで知ることができます。

(引用開始)

人生は駆け足で過ぎ去り彼らが同じ時を過ごした日々はそのうちのひとまたたきにすぎない

だが彼らにとっては一日一日が記念すべき日だった

(引用終わり)

それはおそらく、この世界に生きる全ての人にとっても同じなんだろうと。
もちろん、私自身にとっても。
そして、このブログを見てくれたあなた、にとっても。

だから何も恐れる必要はないんですよ・・・きっとね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.12.08

なんだ・・・みんな知ってたのか・・・

今日もビックコミックスピリッツ連載のマンガ、「おやすみプンプン」(作・浅野いにお)から。

「おやすみプンプン」については今までも何度か記事にしてきました。

早くここまでおいで~おやすみプンプン~
プンプンママと私

読むたびにいろいろと感じることが多い作品なのですが、今日のビックコミックスピリッツに出ていたお話には・・・
うん、表題のとおりです。

(なんだ、みんな知ってたのか。)

そう思いました。何を知ってたのかというと。

(引用開始)

プンプン・・・
人として生きていくうえで大切なものってなんだと思う?

・・・お金、夢、他人への思いやり・・・
・・・なるほどどれも大切かもしれない・・・

・・・けど一番大事なのは「覚悟」なのさ。

(引用終わり)

なんだ。私以外にもそう感じる人はいたのか。

(引用開始)

人生なんてびっくりするほどフリーダムなのさ!!
けど自由には責任があるってことを忘れちゃいけないのさ、ボーイ。

(引用終わり)

うん、そうですね。ただ「びっくりするほどフリーダム」には、もうちょっと言葉を足す必要があります。

(引用開始)

プンプン・・・考えるんだ。
そして悩め!!
そうやって自分の意思で選択するんだ。
たとえ何もわからなかったとしても、
わかろうと前に進んでいる限り、
かろうじて自分自分でいられるんだ。

この退屈な日常も、くだらない景色も、
作り変えられるのは自分だけなんだ!!

だからプンプン・・・
君が君でいる限り・・・

この世界は、君のものだ。

(引用終わり)

これはプンプンのお兄さんが、高校生のプンプンに話す言葉なのですが。プンプンには伝わったかなぁ。
「この世界は、君のものだ」
の意味。

私が大人になって手に入れたものは「自由」でした。自分の人生を自分で選択する自由。ほんとにびっくりするほどフリーダムであったと思います。

もちろん、それには責任がついてくる。自分のやったことの責任を自分でとれる覚悟さえあれば、人生なんて、ほんと何をするのも自由。

子供の頃は、自分で責任がとれないから、本当にいろいろなものにがんじがらめに縛られていますけど、大人になれば、誰も守ってくれない代わりに、縛めからは解かれる。奴隷解放です。やったね♪

プンプンも、今まで大人の勝手にずいぶん振り回されてきました。

大人が何を子供に教えることができるかというと、最終的にはこの「覚悟」しかないのではないかと。
そして「覚悟」を決めたときに、子供は最後の縛めを解かれ、大人になる。

それに気づいた瞬間に、人は世界を手に入れます。自分が自分であることが許される世界。

・・・どうなんだろうなぁ。もしかして気がついていない人もいるのかなぁ。いつまでも自分の作った檻に閉じ込められたままで、ほんの少し目を上げれば、自分のための世界がそこに広がっているのに、それを見ることのできない人もいるのかな。

思うに、昔から、人を縛ろうとするものはたくさん存在しています。
自由を求める気持ちとは裏腹に、守られることで安心するというのも現実だから。

けれど、それも、自らの選択という「覚悟」の上であれば、私たちはどこにいたって自由なはずなんですよね。

・・・というようなことをいろいろと考えておりました。興味のある方はマンガの方を読んでみられるとよいかも^^
ある意味ではちょっと難しい。ちょっとシュール。不思議なマンガです。

前にプンプンについて書いた時に、私はプンプンに「早くここまでおいで」と書きました。
このマンガが終わる頃にはプンプンはちゃんと自分の世界を手に入れられているでしょうか。
どうか、そうであるようにと、祈らずにはいられません。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.10.01

早くここまでおいで ~「おやすみプンプン」~

以前「プンプンママと私」という記事を書きました。
今回もビックコミックスピリッツ連載中の漫画、「おやすみプンプン」(浅野いにお)から。

主人公である高校生のプンプンは現在、クラスの女の子とデート中。プンプンはデート中、その子と、あんなことやこんなことまでする想像をしちゃっています。うん、この年頃の男の子ならこれが健全であろう。

でも、今週、デートはいきなり破綻してしまいます。
先週まではいい雰囲気だったんだけどな・・・

この世にあるフィクションで描かれる人間関係って、おおむね現実よりもうまくいくことが多いのですが、「おやすみプンプン」は人間関係の破綻を書かせたらピカイチかもしれません。
すごくリアルで怖いくらい。

元々、プンプンの家はいろんな事情でプンプンママとプンプンの関係が破綻しています。
でもその女の子はそんなことは知りません。

その日、プンプンママは病気で倒れて手術中でした。
もちろんプンプンだって最初はお見舞いにいくのですが、「あんたがきたってしょうがない」的なことを言われて、プンプンはちょっと傷ついて帰ってくるなんてこともありまして。

女の子とのデートの日がたまたまプンプンママの手術の日だったのですが、プンプンは病院へ行く気は全然なく、デートに行ったわけです。

で、そのことをふと、女の子に話しちゃった。
そしたら女の子は怒るわけです。

どうしてそういうことを早く言わないのか。
どうしてプンプンは病院へ行かないのか。
どうして自分のお母さんなのに心配しないのか・・・

第三者である私から見ると、プンプンにはプンプンの言い分があるし、事情も知らないその子に一方的に責められる筋合いはないわけで、プンプンがそこで突き放すような応え方をしてしまったのもとても分かる。

一方で、その女の子はとても普通に幸せに育った子だから、親が病気の時に平気で女の子とデートできる男の子が理解できなくても仕方がないわけで。それを踏まえてプンプンがうまく受け流せればよかったのですが・・・まあ高校生の男の子にそんな器用なことはできなくて当たり前か。

結果として、プンプンは自分の気持ちを正直に言っただけだったのですが、女の子はプンプンが理解できず、怒って帰ってしまいます。「付き合ってください」と言ったのも否定され、キスしようとしたらひっぱたかれて、ね。

人と理解しあうのって難しいな。

・・・いや。理解しあうことができなくたっていい。
ただ、相手は自分と違うんだ、という、ただそれだけをちゃんと理解できればいい。

それさえできれば、少なくともプンプンと女の子のように傷つけ合って別れずには済むのです。
そしてそこで関係を終わりにさえしなければ、この先、少しずつお互いを理解しあって、いつかこの女の子がプンプンの孤独や寂しさを分かち合ってくれるような一瞬が訪れたかもしれないのに。

自分が高校生の頃はどうだったかなぁ・・・私は、女子校だったしな。
周りにいた女の子たちとは同じような価値観を持っていたようで、互いを理解するのにそれほど苦労せずに済んだ気がします。
みんな、きっと思っていることは同じだったでしょう。他人を傷つけたり、自分が傷ついたりしたくないから、みんな優しかった。

私自身はおそらく中身はプンプンといっしょで、ほかの女の子達よりも物事をドライに考える方だったけれど、そんな自分がほかの子と違うことはよく分かっていたから、それを理解されてもされなくても、ただそこにいることを認めてくれさえすれば、十分でした。

中学や小学校の頃の方がその意味ではつらかったかも。小学生なんて、ちょっと自分と違う子がいると、他人を認めるなんてできませんしね。そして何でもみんなでやることがよしとされる。面倒ったらありゃしません。

かわいそうなプンプン。
でもこういう経験を経て、彼も大人になっていくのでしょう。

プンプン、早くここまでおいで。大人になれば世界が変わるから。
高校生か・・・今が一番悩むところかもな。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧