映画・テレビ

2020.02.18

ダンデライオンの「本当の孤独」とスカーレット

まだ小学生だった頃、松任谷由実の歌で「ダンデライオン」という歌がヒットしていました。
歌詞の一部を引用します。

(引用開始)
君はダンデライオン
本当の孤独を今まで知らないの
とても幸せなさみしさを抱いてこれから歩けない
私はもうあなたなしで
(引用終わり)

小学生だった当時の私には正直、この歌詞の意味が分かりませんでした。
「本当の孤独」とは?

今は想像つきます。
私はこれまでの人生の中で一人がデフォルトなので、いわゆる「孤独のさみしさ」というものを知りません。


想像することしかできませんが、多分、愛する人ができて、家族がいて、愛する誰かが側にいる時間を経験してしまうと、もう一人には戻れない。
けれど、生まれ落ちてずっと孤独ならそれが当たり前なのでさみしさを感じることはできない。
それが「本当の孤独を今まで知らない」の意味ではないか、と。

当時の私は、いつかは自分も「本当の孤独」を知る日が来るのかな〜と思っていました。

でも、結局、今も本当の孤独を知らないままだなぁ。
だって愛する誰かがそばにいたことがそもそもないんだもの。

最近、朝ドラの「スカーレット」を見ているとモヤモヤする気持ちを抑えきれません。
スカーレットの主人公の女性は、女性陶芸家として成功するのですが、それと引き替えに愛する夫を失ってしまう。
夫は主人公のことを「陶芸家」としてではなくずっと「女」として見ていた。
自分の守るべき家族であり妻であると思っていました。
だから危ないこともして欲しくないし、失敗して傷ついて欲しくない。
主人公が陶芸に財産をありったけつぎ込み、何度失敗しても何度も何度も挑戦する姿を見て
「もうやめてくれ」
と何度も訴えていました。
結局、主人公は最後に成功するんですが、当時、それを止めようとする夫は彼女にとってカセでしかなく、夫自身も彼女の成功を見届けた後、彼女の元を去ります。

まあ、それはそれでよい、というか、そういうことってあるよね、というか。
だって、もしも男性と女性が反対で、夫が成功するかしないかも分からない事業に全財産をつぎ込んで失敗ばかりしていたら、妻は子供を連れて出て行きますよねぇ。

生き方や考え方は人それぞれで違うので、私はそれが違っても共に生きていくことができるパートナーのあり方、というのはあるとは思うのですが、普通に考えると家族は一心同体なので、パートナーのどちらかの生き方に家族が引き擦られて犠牲になってしまうよりは、離別を選ぶのは正しい選択だと思うのです。

そこまではいいとして、最近ちょっとドラマ「スカーレット」の雲行きが怪しくて。

夫が出て行き、子供も成長して自立して家を出て行き、母親は亡くなって、一人で暮らしている主人公がさみしくてさみしくて、なのに普段はそれを口にできない、なんてエピソードが物語の軸になっています。
もしかすると夫と再び家族に、なんて展開になるのかもしれませんが、なるならなるでとっとと元サヤに戻ればいいのに…

私は、これまで何度も言われてきましたが
「結婚しなかったら年をとってからさみしいよ」
っていうのセリフは「呪い」だと思っています。

さみしいと感じる人もいるでしょうけど、正直、私の感覚としては、好きでもない人と結婚して我慢して家族を続けていくことの方がよっぽど「罰ゲーム」だと思うんですよね。
もう一度書きますが、私は「本当の孤独」を知りません。

だから今、一人でいることを後悔したことはないし、小さい頃からずっと誰にも傷つけられず、誰の干渉も受けないで暮らしたかったので、今の生活は自分の理想だと思っています。
「誰にも傷つけられず、誰の干渉も受けないで暮らしたい」
これって、自分だけかと思っていたら、昔、「はみだしっ子」のグレアムも同じようなこと言っていたなぁ。そのくせグレアムにはちゃんと孤独を分かち合う友達がいましたけどね。

というわけで…私は普段、今の生活をさみしいともなんとも思ったことがなくのほほんと生きていますが、NHKの朝ドラ「スカーレット」で呪いの言葉を聞くとどうも無関心では居られません。
別に、さみしいくせに意地を張っているわけではないんだけどな。

まあ、共に生きる誰かと出会いたかったなぁ、という、もうおそらく生涯叶わない夢はあるので、そのせいで愛するパートナーがいる暮らしというのを想像するとうらやましさでちょっともやっとするのかもね。

これを読んでいる人にはもう分かったと思いますが、「共に生きる誰か」と出会いたいと思っているにもかかわらず「傷つきたくない」なんて言っているのは「臆病」であり、「保身」でしかないです。
傷つくことを恐れていては人を愛することなんてできないし、愛されることも叶わない。分かっていますとも。
分かっているからこそ、若い頃には自分なりにチャレンジも失敗もしてきたもんな。
この先、まだチャレンジや失敗を繰り返すんだろうか。
それとも本当の孤独を知らないまま、生涯を閉じるのかしら。
未来はまだまだ分かりません。

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2019.11.24

「十二人の死にたい子どもたち」(ネタバレあり)

今回の記事は、沖方丁原作の小説、およびその映画化作品の感想です。

ネタバレありなので、ラストどうなるかを知りたくない方は読まないでくださいね。

 

(ここから感想)

この物語は「どうして死んではいけないのか」の答えです。

すごく分かりやすくてびっくりしました。

小説はちょっと冗長で、読んでいて誰が誰だか分からなくなってしまうのですが、小説の後、映画を見たら、大変感動しました。

映画はとてもテンポよく分かりやすく展開します。映像でそれぞれの登場人物の顔を見ながらストーリーを追う方が分かりやすい。

 

死ぬためにネットを通して集まった十二人の少年少女達にはそれぞれに死にたい理由がありました。

☆病気で苦しいから死ぬ(シンジロウ)

☆いじめられてつらいから死ぬ(ケンイチ)

☆親から否定されて死ぬ(セイゴ)

☆不治の病にかかってしまったから死ぬ(マイ)

☆自分の生きたいように生きられないから死ぬ(リョウコ)

☆好きだった人が死んでしまったから死ぬ(ミツエ)

☆生きていること、生まれたことが無価値だから死ぬ(アンリ)

☆人を殺してしまったから自分も死ぬ(ノブオ)

☆母親に薬漬けにされて苦しいから死ぬ(タカヒロ)

☆兄を植物状態にしてしまったから兄と一緒に死ぬ(ユキ)

☆父親に自分を認めて欲しいから死ぬ(メイコ)

☆死に憑りつかれてしまったから死ぬ(サトシ)

もし自分がそれぞれの立場の人間だったら、死にたいと考えてもおかしくない、と私は本を読んで、映画を見て、思いました。

 

でもね。

十二人の少年少女達は、それぞれに「死のうとしている他人」の理由を聞き、話し合っている内に気付いてしまうのです。

どんなに苦しくても、つらくても、逃れられないと思っていても、「生きる」ということは「可能性」に他ならず。

自分の力で、あるいは誰かの助けを借りることで変えることができるかもしれない、と。

死は何の解決にもならない、と。

たとえば「ユキ」です。自分が引き起こしてしまった事故で植物状態になってしまった大好きだった兄を見続けることが辛く、それが自分のせいだとも誰にも言えず、死んでしまおうとしていました。

でも、ここに集まったみんなは、その事故はユキのせいじゃないと言いました。全くの他人に過ぎない、自分が一緒に死ぬつもりだった兄を助けようとしてくれました。

その事実がユキの気持ちを変えるんです。

 

そしてシンジロウ。

ずっと病気で苦しみ続け、いつか衰弱して自分で何もできなくなってしまう。その前に自分の命を自分の意志で終わりにしたいと思っていた彼も、自分がマイと変わらないことに気付いてしまいます。

いつか死ぬまでは生き続けよう。この集いに集まった仲間と話す内に、彼の気持ちも変わりました。

 

一人一人がみんな、他人の死にたい理由を知るにつけ…そして「生まれてきたことが間違いだった」という最後のアンリの叫びを聞いて、自分がそうは考えていないことに気付いてしまう。

自分はどう生きたかったのか。それはもうできないのか。ここで死んでしまっていいのか。

・・・

・・・

いやぁ、この作品、心に刺さるなぁ。

映画の評価がネットで見るとそんなに高くないのがものすごく残念なんですが、この映画は巷によくある「殺人ゲーム」の話なんかじゃないんですよ。

ただ、結局それは、この本を読み、または映画を見て、最後に自分で「そうだったのか」と理解することで悟るしかなくて。まずは、読んで、見てもらわねば、この感動は理解してもらえない。

私も、正直、小説だけでは、あまり面白いとも思わなかったし、「ふーん」くらいの感想だったのですが、間を置かずに映画を見たらはまってしまいました。

見てよかったです。

私のいつか死ぬまで、生きることの可能性にかけて、がんばって生きていこう。

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2019.02.24

「翔んで埼玉」見てきました

 私は埼玉県生まれ、埼玉県育ち、埼玉県在住、埼玉県勤務。
 一時期、千葉や東京や仙台に住んでいたこともあるのですが、基本、埼玉ととても縁の深い人生を送っています。

「翔んで埼玉」は近所の床屋さんの待合に置いてあったのを読んだことがありました。
実写映画化と聴いて、第一印象は

「くだらない映画なんだろうなぁ。あまり見たくないなぁ」

と思ったのですが、意外に周辺で「見たい」という声も出ているので、今日は出かけたついでに浦和のパルコの映画館にいってきました。

 昼間、映画館に行ったら、なんと昼間の上映は満席。なんと。人気なのか、この映画。
 
 夜の9時40分からやる深夜割引なら空いてたので、そのチケットをとりました。
 空いてるのも当たり前、終わるのは夜12時近くになります。それこそ、埼玉県人じゃなきゃ見ないっての。

 見終わった感想としては…
 
 いや、意外にまじめな映画だったなぁ。東京テイスティングとかも面白かったし。登場人物に皆、好感が持てて楽しかったです。まあ、原作を知ってるから、どれだけディスられても耐性がついてはいたんですけど。


 私は、今まで、自分の生まれたこの県を嫌いだと思ったことはありません。
 東京に憧れとかも全然ない。
 ただし、そんなに郷土愛みたいなものもないです。

 埼玉は普通なんだよな。
 まるで、子供が自分の生まれた家が自分の普通となるように。

 すごく愛しているわけではない。
 でも嫌いではない。
 親を取り換えることができないように、ここに生まれてしまったからには嫌いでいるよりは好きでいた方がいいしね。

 生まれたのは「鴻巣市」というところで、当時は申し訳ないけど、めっちゃ田舎でした。
 小学校の裏が豚小屋だったので、ハエがいっぱいいたし、周り中が田んぼで夜はカエルの合唱。夜になると赤城下しの強風で、雨戸がガタガタいってました。
 学校へ向かう道路には、車にひかれてつぶれたカエルの死骸。
 当時はまだ家で蚕を飼ってるところもあって、子供の頃は蚕も、モンシロチョウの幼虫も手で触れたんだよなぁ。
 
 映画の冒頭、田んぼだらけの中を車が走るシーンがあるんですが、まさに埼玉ってあんな感じです。
 まぁ、川口や大宮はいっぱいビルもありますけどね。

 生まれたのが鴻巣だったせいもあって、あまり住みやすいという印象もありません。
 当時は駅も市に一個しかなかったしねぇ。
 
 千葉県の松戸市に引っ越した時、なんて都会で便利なところなんだと思ったのを思い出します。
 千葉に引っ越すといったら、小学校の友人はみんな、
「海、近い?」
 って言ってたっけ(笑)

 紆余曲折を経て、結局、今はまた埼玉県に住んでいるわけですが、東日本大震災の後、東北復興のために2年ほど仙台に住んでいました。
 正直いって、どこが住みやすいって仙台ほど素晴らしい場所はないな。大宮も浦和も完全に負けてます。

 埼玉って東京に近すぎるんだと思うんですよ。
 東京にいけば何でもあるので、大宮や浦和にわざわざ東京と同じレベルのものを作る意味がない。それは仕方のないことです。

 仙台はちがう。
 仙台で完結しなくちゃいけないから、仙台で必要なものは全て仙台にあります。
 それでいて温泉も近いし、スキー場も近いし、海もあるし、空港も港もあります。街中には緑がいっぱいで、おしゃれなカフェも、おいしい牛タンの店もたくさんあり、道路は整備されて歩きやすく、かつ地下鉄も新しくできたし。

 仙台、好きだなー。観光地というよりは、住むにいい町、仙台。私は大好きです。

 仙台と比べるなら、埼玉県ならさいたま市になるんでしょうが、やっぱ仙台には負けるわ。
 いや、東北一の都市、仙台とは比べてはいけないのでしょうが、さいたま市はやっぱり東京頼みって気がします。仙台にあってさいたま市にないものは皆、東京にあるわけで、東京にはもちろん仙台にないものもたくさんあるんですが、やっぱり在住の人間にとっては、近い場所にコンパクトになんでもそろってる方がいいでしょ。
 だからといって、私は東京には住みたくないです。
 混んでるし、家賃も高いし、災害も怖いし、たまに遊びにいくくらいでいい。
 
 なので、映画を見て、私は「埼玉化」にはあまり賛成できないなぁと思いましたw

 映画でも言ってましたよね。夜空にはいろいろな星があって、全て美しい。

 埼玉には埼玉らしさがあって、まあ、それはそれでいいことで、在住の身としては上田知事には頑張っていただきたいところなんですが、埼玉らしさは埼玉だけにしといてもらって、本当に住みたいのは、私はやっぱり仙台だなぁ~と。

 仙台だけでなく、地方の主要都市ってみんなコンパクトでいいですよ。
 札幌も、福岡も、名古屋も、高松も、みんな私は好き。住みやすくていいんじゃないかな。

 さいたまは…うん、やっぱもうちょっとがんばれ。

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2018.07.12

「半分、青い。」がもやもやする理由

 以前にも、

「半分、青い。」第70話を見て

 という記事を書きました。

 その後、ドラマの中の主人公、鈴愛(すずめ)はマンガ家でいることを辞めてしまいました。
 辞めて自由になって、引っ越しをするときはとても晴れ晴れした様子でしたが、その後の鈴愛はあまり幸せそうではありません。

 マンガ家を辞めて、今、働いているところが100円ショップの店員で、時給も安いから…なのかな?
そうではないように私には思えます。

 鈴愛は「今の自分には何もない」と言っていました。
 マンガ家になれず何者にもなれなかった自分が嫌なのかもしれません。

 「半分、青い。」を見ていていつももやもやするのは、今の時代って、どんな生き方でもありで、自分が全て自由に選択できることが幸せなはずなのに、鈴愛はそうやって自分で選択してやりたいことをしているのに文句ばかりだからです。

 田舎を飛び出して、大好きなマンガ家の先生の弟子になり、本も出した。それでもマンガ家を辞めたのは、自分の才能に限界を感じたからであり、それはそれでありでしょう。全部自分の選択で自分のせいなのに、いつも人のせいにしている感じなんですよね。または、全部、片耳が聴こえないせい? まさか。
 
 今、鈴愛は100円ショップで知り合った男性と恋仲になり、結婚するかも、というところにいるんですが、もしそれで鈴愛が幸せになるなら、それでよいと私は思っていました。

 ところがどうもそうではないようです。
 その男性はどうも「ダメンズ」らしいです。
 
 私はダメンズでもいいと思うんですけどねぇ。
 だって、見た目もかっこよく、性格もよく、お金もあって、一流企業に勤めている男性なんて今の世の中、ほんの一握りでしょう。
 くだんの男性が、まったく自分で稼げず、いつもお金がなく、ちょっと稼いでも映画製作という夢のために全部使ってしまうような「ダメンズ」だったとしても、そういうダメンズと一緒に苦労して未来を作り上げるなら鈴愛を応援するつもりだったんですが・・・

 どうも公式のあらすじを見ると別れるらしい・・・
 そして、幼馴染の律くんとよりを戻すらしい・・・
 ホント、がっかりしてしまいます。

 世の中に100%満足な人生なんてないと私は思います。
 でも、かなわなかった望みや果たせなかった夢を抱えながら、私たちはまた次の一歩を踏み出す。
 自分が歩んできた人生は、子供の頃思い描いた「夢」とはかなり違うかもしれないけれど、それでも自分の選択を自分で引き受けて後悔せずに歩いていく。

 鈴愛にもそうなってほしい。
 夢はかなわなかったかもしれないけれど、その先に続く人生を自分で引き受けてちゃんと自分の人生を歩いてほしい。

 この結婚がもし失敗に終わるのだとしても、それをもう人のせいにはしないでほしい。律くんがいるからって、またマンガ家を目指していた日々のように「なかったこと」にはしないでほしい。

 現実の私たちは、皆そうして自分のしたことを自分で引き受けて生きています。そうでない人もいるのかもしれないけど、少なくとも「私」は。
 というか、人のせいにするほどつまらないことはないし、実際にそれが自分ではない「誰か」のシナリオどおりの選択をした結果だとしたらそれって最悪です。

 「半分、青い。」は今年の9月いっぱいで最終回を迎えると思うので、あと2か月半あります。鈴愛が、片耳の難聴もそれはそれでよいこともあるんだと思っていた子供の頃のように、どんな人生だろうと自分の人生を前向きに明るく生きていってくれるようになってくれないかな。

 正直、もう律は出てこなくていいのですが、そうもいかないか(汗)
 佐藤健さんは映画の「いぬやしき」でファンになった役者さんなので、他の作品で応援したいと思います。

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2018.06.21

「半分、青い。」第70話を見て

私は、私を産んだ母からも
「整形手術したらいいのに」
と言われたことがあります…(汗)
子供の頃は男の子からブスと言われることはしょっちゅうでした。

客観的に見ても、鼻が低く、凹凸の少ない顔面をしており(下手するとほおの丸みに鼻が隠れるくらい)
まぶたは厚ぼったく、そのまぶたがかぶさるせいで目は一文字で細く、
まあ、つまりは顔に関しては完全に残念な部類に入ります。

しかし…
私が子供の頃から私がいろいろなものから受け取ってきたメッセージは、
「人間の価値は容姿で決まるものでなく、大事なのは見た目よりも中身」
というものでした。

私は本好きな子供で、家にあった世界名作全集を愛読していて、こう書けば分かる方にはお分かりかと思いますが「世界名作全集」というようなものにはだいたいそう書いてあるんです。

たとえばシンデレラだってそうでしょう。
着飾ることが大好きで高慢なシンデレラの義理姉たちは選ばれず、汚い恰好で姉たちにこき使われていたシンデレラが王子様に選ばれる。

それ以外のどんな話だって大体、見た目が醜い相手に、醜いからといってぞんざいな対応をした者には報いがある。
醜くて汚い相手にも分け隔てなく、優しくしたものには幸運が舞い降りる。
昔話の定番です。

今から考えると、私の顔が残念だったからそういう物語が頭の中に刷り込まれたという可能性もあるわけですが、世間一般的に、贅沢をしたり、着飾ったりすることは悪であり、質素であることや、貧しくても一生懸命働くことが善である、そんな価値観だった時代に私は子供時代を過ごしました。
昭和50年代くらいの話。

もちろん、個人的、地域的な偏りはあるのでしょうが、当時の私の周辺では、学生が化粧をしたり、パーマをかけたり、髪を染めたりするのは言語道断でした。学生なんて野暮ったいのがデフォルトでした。

私はそのまま大人になり、つまり、化粧も知らず、ブランドの服やバックを買うことにも興味がないままでした。
着飾ることは悪で、人間は中身が大事だとずっと思っていました。
時代は移り、バブルと呼ばれる時代になってもね。

20代になった私は就職し、都内の職場に通勤するようになっていて、肩パットの入ったスーツを着たり(そういうのしか売ってなかった)髪をソバージュにしてみたりはしました。
化粧水を付けたり、口紅をさしたり、ファンデーションを塗るようにはなりました。
でもそれが普通だったからそうしていただけだったなぁ。

基本、私は男性と女性は同じだと思っていたし、どっちがえらいとも思っていませんでした。
ただ、女性は大人になったら自然と結婚するものだと思っていて、結婚することに「努力」が必要だとも考えていなかったし、ましてや男性が求める女性になるために、かわいくしたり、きれいにしたりすることを必要だと思ったこともなかったです。
結婚、つまり男性に選ばれるために男に媚びたりするのはいけないことだと思っていたんですよ。

自分のことをかわいいともきれいだとも思ったことはありませんでしたが、だからこそ勉強や仕事はがんばろうと思いました。大人が求めるいい子であろうと努力しました。
でも「いい子」であることを仕事で評価されるのはいいけど、「男」に評価されるのは嫌だと本能的に思いました。
だってほんとは「いい子」ではなく、いい子を演じているだけなので。
仕事はいい子でがんばれるけど、結婚相手にそれを評価されてずっと家でもいい子で居続けることだけは絶対に嫌だと思ったんですよね。

きれいでも、かわいくもなく、「いい子」でいることを評価されると嫌がる。
それじゃ売れるわけないですよねぇ。

いえ、ちょっと話がそれました。
今朝のNHKの「半分、青い。」を見ていて思ったのです。

>このきれいで、かわいい顔は何のためについているのか。
>せっかくかわいいのに、ひたすらマンガだけ書いてていいのか。

そんなことをユーコさんが言うのを聞いてびっくりしてしまいました。
きれいでかわいいことよりも、時に苦しくてもマンガを書くという創作活動に夢中になり、それを仕事にできることの方がすばらしいに決まっていると私は思っていたので。

きれいだとかかわいいだとかっていう「容姿の良さ」が一生懸命に自分の好きな仕事をすることよりも上位に来る価値観ってどこの世界のものなのか。
「半分、青い。」というドラマは現代よりもちょっと前、私の同世代よりもちょっと下の世代を書いているのですが、少なくとも私は知りません。

というか・・・世の中の女性が全てアイドルや女優のようにきれいだったり、かわいかったりするわけじゃないでしょう。
それでも生きていかなくちゃいけないのですよ、この世界で。
なのに、それを全否定どうするの。なんてドラマだよ。

と、私は思ったのです。いやぁ、びっくりした。

どちらかというと、これって現代の価値観ですよね。
非婚化が進んで、少子化になったからって、
・若い(きれいでかわいい)うちから婚活しろ
・早く結婚して早く子供産め
・相手の男性に関しては高すぎる理想を持つんじゃない
ってねぇ。

思うに、今の時代、全ての男女が結婚するのが当たり前じゃなくなったんだから、条件のいい人しか結婚できないのは当然なんですよ。
条件がいいってのはこれです。
・女は、かわいくてきれい
・男は、金持ちでかっこよい
そういう男女だけが結婚ってできる。そうじゃない男女は結婚できない。

でも「結婚して子供を持つ」ことだけが正しいわけじゃなく、他の生き方も認められるようになったからこそ、今という時代があるわけで、そういう世の中になったのはよいことだったはずなのよね。

不細工でそのコンプレックスの裏返しが故の「いい子」で、その自己防衛のためにコミュニケーション不全となり、そのために適齢期になっても男性とまともにつきあえず、結果、今に至る私にしてみれば、無論、結婚できなかったのは顔のせいだけではないことは重々承知しておりますけれども、だからといって、今、この時代の若い女性たちが、若い内から婚活することを強いられ、相手の男性について四の五の言うと怒られ、若いうちはとりあえずやりたい仕事に打ち込むという生き方も否定され、かわいかったりきれいだったりするうちに結婚することだけが善とされるような世の中(まったくいつの時代だよ)にはなってほしくないよなぁと思ってしまうわけです。

もちろん、結婚して子供を産んだ方がいいことは分かってますよ。日本の人口のためにはね。
だけど、過去、それだけが善とされる世界で、どれだけ苦しんできた女性がいることか。
ろくに稼げもしない男性と結婚して苦労したり、勉強や仕事をがんばりたくても否定されたり、子供を産めないことで非難されたり。
やっとそこから解放されて、自由に生きられる時代になったというのに、まだドラマの中でこんなこと言われるのかー。
ちょっとね。今朝の「半分、青い。」にはまいりました。

少なくとも私が生まれてから今まで、あんなことをいう女性なんて私は知りません。
私が不細工だったからかなぁ。

だとしても、この先、少子化のせいでどんなに結婚しない女性へのプレッシャーが強くなろうとも、きれいでかわいいだけが女性としての価値だという時代には、もう二度と戻りませんように。

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2018.01.10

「ベッキーにタイキック」問題について

私は件の番組を見ていないのですが…

たとえば子供達が「ガキの使いごっこ」と称して、誰かがボケてそれを笑ったらキックしていいというゲームをしていたとして、一人の子に他の子がキックを浴びせてたりしたら大人はそれを止めるのかしら。

止めるんだろうなぁ。

そういうゲームって、いつの間にか、特定の子がいつもキックされる側になり、キックする方は笑っても「今のセーフだもんね」とか言いながら、弱い子だけが「今、笑っただろ」とカウントされて一方的にキックを受ける側になるのが常。目に見えるようです…。

たとえば「男気じゃんけんごっこ」と称して、特定の子が、無理矢理、他の子におごらされて「ゴチになります!」なんて言われてたとしたらやっぱり大人は止めるんだろうか。

止めるんだろうなぁ。

この場合もおごらされる子は決まって来ちゃうだろうし。

これからは、こうしたバラエティ番組は消えていくのかもしれないな。
それがよいのか悪いのかは何とも言えません。
それで学校のいじめがなくなるかというとまた別の問題でしょうし。

クイズ番組と「あなたの余命○年」みたいな健康診断番組ばかりになるわけだわ。

個人的には、「しくじり先生」の復活を希望します。

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2018.01.07

運命って何だろう~映画「君の名は。」を見て~

1月3日に、アニメ映画「君の名は。」がテレビで地上波初放送となりましたが、みなさん見ましたか?

 私は映画館でも見て、今回、二回目でしたが、面白いし名作だと思うんですけど、この作品ってなぜか見終わった後に、もやっとした感じが残り、ネットでいろんな解説を読みたくなってしまいます。

 以下のリンクはそんな解説の一つ。なるほどなぁと思ったので御紹介しときます。
http://blogos.com/article/269090/

 リンク先の解説を読んで、私が思ったのが本日の表題。

 運命ってなんでしょうね?

 解説の中では「運命」と「意志」という二つのことが、対比するように書かれています。

 つまり「運命」は「意志」の力で変えられるか?ということ。

 解説の中で「君の名は。」とともに引用されている「秒速5センチメートル」と「国境の南、太陽の西」では、結局、運命は変えられず、人の意志は静かな諦めとなっていく。

「運命」、つまり過去から未来まで全てのストーリーが決まっているとしたら、それに乗っかって、私達は、植物や他の動物と同じように流れるままに、あるがままに生きていけばいいわけですが、人は時にその流れを自分で変えようとします。で、実際に変えてしまう物語が「君の名は。」

 そのように、運命と意志はしばしば、対立するようにフィクションの中で描かれるわけですけど、そうやって人が時間の流れを変えようとすること自体が、あらかじめ定められているのかもしれなくて、大昔から…それこそ「お釈迦様の手の中で暴れる孫悟空」みたいな例えでも描かれているので、人が古くからそうした「意志と運命との対立」というテーマを持ち続けていることが分かります。

 つまりこういうことかしら。
 人って生き物は、自然環境という定めを変えよう、変えようとして今まで進化してきた。それこそが人であることの意味なのかもしれないと思えるほどに。

 だからこそフィクション世界でも、このテーマで何度も作品が作られ、多くの反響を呼ぶ。

 現実の世界ではどうなんでしょう。

 科学の世界でも、経済の世界でも、ミクロとマクロでは物事の動き方や考え方が違ったりすることがよくありますが、現実世界での運命と意志の対立でも、ミクロの世界では人の意志が優先するけど、マクロの世界では運命が優先するように思えたりもします。

 たとえば今晩何食べようか、みたいなことは私達の自由意志で変えることができますが、今後の日本の人口減少は変えることのできないストーリーな気がします。

 それともミクロの意志決定がマクロの「運命」の流れを作っている、と言えるのかなぁ?

 だから人の意志で、運命さえ変えられると言えるのかしら。
 人類の進化とそれによる世界の変容はまさにその例とも言えるわけで。

 「運命」なんて人が勝手に作り出した定義なだけで、実はそんなものはないのかもしれない。
 何も決まっていることなんてないのかもしれない。
 
 けれど、人の意志は環境によって定義され、その枠の中で自我を形成し、意志を育てる。
 だとしたら、私達の乗り越えるべきものは「運命」ではなく「環境」であるのかも。
 そして「環境」を乗り越えるための手段が「フィクション」なのかも。
 自分に与えられた環境だけでなく、全く別の環境を知ることが本を読んだりテレビを見たり、あらゆる情報を得ることで出来る訳だから…。

 そうして人類は、世界を変えてきた。
 私達の意志に基づいて。
 それでもまだ「地球」という環境や「人体」という生物としての環境には縛られているのが21世紀なんですけど、もしかしたら、将来はそれすら乗り越えることが可能になるのかもしれないな。

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2016.12.26

ご都合主義というのはどこまで許されるものなのだろう

昨日、「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」という映画を見てきました。
最初からこれを見るつもりではなく「君の名は。」をもう一回見てもいいし、本命は「ファンタスティックビーストと魔法の旅」だったのですが、時間が合わず、ちょうどいい時間だったのはこれだったんです。

【感想】 泣けました

いやぁ泣けた。映画で泣いたのなんて久しぶりじゃないかな。個人的には「君の名は。」よりも泣けました。
面白かったですよー

ただいつものYahooの映画レビューを自分で書いていてふと思い直しました。

泣けた、はいいけど、この映画ってどんだけぶっとんだ設定なのよ?と。

詳細はネタバレするので書きませんが、正直に言って「あり得ない」レベルです。
「君の名は。」もかなりあり得ませんが、この映画の設定もあり得ない。自分で映画レビューに書いたんですが、それこそ

「このラブストーリーを成立させるためだけのご都合設定」

じゃないの?

そこで表題のように思ったのです。

「なぜそういうことになったのか」が気になり出したら、この映画、面白くないかもしれない。
でも私は泣きました。

「君の名は。」もネットで感想を拾うとやはり設定の矛盾や尺の関係で致し方ない説明不足などに気づいている人もいます。
でも衆知のとおりあれだけヒットしている。

そう考えると「説明」なんて必要ないのかもしれない。多少の矛盾はふっとばせ。
「ラブストーリー」さえあればいいんだ。彼と彼女の物語、最高!

・・・
・・・
なのかなぁ?(苦笑)

思うに、これは客に何をどう見せるかという非常に危ういバランス感覚の話なんだと思います。
同じような話でも大コケする映画はたくさんあります。

「君の名は。」は新海さんが非常にこだわり抜いた作品と聞いています。だったらそのバランスにブレはない。

「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」は原作が小説です。
映画を見終わった後、原作の小説もちらっと書店で立ち読みしてみましたが、原作をうまく映像化している感じ。
小説っていうのは、どの情報をどう表に出すのか、非常に計算されています。その計算がうまくいっているからこそ原作小説はヒットしているのだろうな。
もちろん、原作がすばらしくても映画化の際、脚本や監督が原作の意図を汲まずにオリジナリティを出そうとしてぶれたりすることはしょっちゅうですが、それで原作以上の映画になることもまれにあるので、そのことの善悪は置いておくとして。
この映画は原作をうまく表現していてバランスを保っています。

設定がどれだけぶっとんでいようと、その世界を作った人達の中では詳細まで決められています。
ただそれをどう決められた2時間の尺で出して行くか。説明すりゃいいってもんじゃなく、大幅に割愛しても、もっと大事なことを観客に伝えることが必要です。

小説もそうなんですが、実は、作品というのは、作者や監督、要はその作品を作った人だけでできているものじゃなくて、観客及び読者といったその作品を受け取る側との共同作業で出来ていると私は思ってます。

作り手が厳選した情報を提示し、受け取った側がそれを元に何かを感じ取ることで、作品は完成する。

何を出し、何を出さないか、それはまさにセンス。
作り手が意図したように観客が感じてくれれば「はまる」わけですが、そこがうまくできてないと「何だこりゃ」で終わります。

その絶妙なセンスはかなり難しくて、映画でもアニメでも脚本家と監督と演出家とやりたいことが変わったりするだけで、ぶちこわしになってることが多いですね。
見ている方はどの意図を汲めばよいのかさっぱり分からないという。
そして得てしてそういう作品でも予告編だけはうまく出来ていたりするからなぁ。

そういうぶちこわし映画にひっかからないためには「Yahoo映画レビュー」ってけっこう役に立ちます(苦笑)。

実は、映画館で上映までの時間つぶしをしているときに「ポッピンQ」というアニメの予告編を目にしました。予告編はよく出来ていて話も面白そう。子供向けっぽいけど私は「まどかマギカ」に衝撃を受けたクチなので、これ見てもよかったかな、と思いました。

ところが、この映画は例の映画レビューやら、ネットの感想とかを見ると惨憺たる有様ですねぇ。
とても「君の名は。」レベルにほど遠い。
感想を読むとどうもストーリーが破綻しているらしく、なんでそんなことになっちゃったのか・・・
同じアニメだから「君の名は。」とはどうしたって比較されちゃうのに、ヒットする映画と大コケする映画と何が違うのか。
ま、見なくてよかったです^^;

どれだけあり得ない設定でもいい。
その説明が必要なわけでもない。
大事なのは、何を誰に伝えたいのかということ。
そして作品の半分は観客が作るんだということ。

いや「デスノート Light up the NEW world」も私、見たんですが、まああれはあれで面白いけど「デスノート」と名前が付く以上、見る側はあれを期待しているわけじゃないというのがなぜ作り手には分からないのか不思議です。

「デスノート」だけどデスノートじゃない「NEW world」だぜってことかな。
でも繰り返しになりますが、作品の半分は観客が作るんだしなぁ。
あれがやりたいなら「デスノート」とかタイトルつけるんじゃないとデスノートファンはみんな思っただろうなぁ。

それでも、まだ今年は「シン・ゴジラ」といい「君の名は。」といい、いい映画がヒットしてなかなかよい1年でした。

宮崎駿さんが引退しちゃっても、まだまだこれから何が出てくるか分からない。
来年も期待しています。

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2016.11.29

オリラジ中田先生の授業を聞いて~星の王子さま~

私は「星の王子さま」を読んだ事があり、箱根の「星の王子さまミュージアム」にも行ったことがあります。
でも最初の「星の王子さま」との出会いは、手塚治虫「火の鳥」の「望郷編」で星の王子さまの一節が引用された時かな。
あのときは意味もよく解りませんでしたが…

その後、星の王子さまのイラストが表紙になった本を読み、さらに、音楽座の「リトルプリンス」という星の王子さまのミュージカルも見ました。
なので「星の王子さま」歴としては古いし、長いし、ということで折々に接してきた作品です。

でも、昨夜、中田先生の授業を聞いたら、詳細はすっかり忘れていることが発覚し自分でも驚きました。

王子さまが地球に来る前に巡った六つの惑星なんて、点灯士と酒浸りの男くらいしか憶えてなかったもんな。

そして六つの惑星を巡った後、地球を見た王子様が言ったという衝撃的な言葉。びっくりしたなー
全然記憶にありませんでした。
星の王子さまの物語のクライマックスはやはり後半なので、前半はほとんど印象に残っていないのがよく分かりました。

とはいえ、地球に着いた王子様がたくさんのバラを見て、自分の星のバラがありふれたものだったと感じ悲しくなるくだりも実は忘れていました。
『高慢なバラに嫌気がさして王子さまは星を家出してきた』
とか、一番最初の
『みんなが帽子の絵だと思った、象をのみこんだうわばみの絵を、王子様は正しく言い当てた』
とか
『バオバブは怖い』
とかそういうのは覚えていたのに。

それと昨日の授業では触れられていなくて、私が覚えている最も好きなのはきつねがこんなことを言うシーンです。詳細は忘れていますが・・・

~僕はパンを食べないから、小麦畑を見ても特に今まで何も感じたことはなかった
 でも今日、君と出会ったから、これからは小麦畑の金色の波を見る度に君を思い出すだろう~

 大切な人との出会いでありふれた光景が特別なものに変わる。感動しました。

さて、本題。
中田先生の授業では、王子様と王子様の星に咲いたバラの関係や、バラに対する王子様の思いなどを解説しつつ、それが何の象徴なのか、という話をしていきます。

すると面白いことに、中田先生の授業を受けている番組の中でもそれぞれに意見があって、みんな違うようでした。
中田先生は「恋人」だと思ったそうです。
つまりはバラのエピソードは「愛情」の象徴であって、「愛情」の対象が誰なのかによって、人によって回答が違うのだということが授業の中で分かりました。
中田先生自身も授業をしてみてそのことが分かったと言っていましたね。

つまり・・・

「それ」は、他人から見るとどこにでもあるありふれたもの。
でも、心をこめて世話をし、会話をし、たまにはケンカしたりもしながら、大切に育てることで、それは自分にとって唯一のものに変わる。

「それ」が何なのか、という話です。
関根さんや藤本美貴さんは「子供」だと思った、と番組の中で話をしていました。

私にとっては何だろう、と番組が終わった後にずっと考えていました。
やっぱり「恋人」かなーとも。

でも、私の場合はどうもこれ、「自分」のようです。

愛情が、子供でもなく、恋人でもなく、「自分」だなんて、どれだけ自己愛が強いんだよ、と我ながらちょっと恥ずかしいですが、自分を大事にできないと他人も愛せないですからこれも大事なことです。

「私」という存在はありふれています。
地球にあふれる何億人のヒトの中ではたいした存在ではありません。

でも、これもまた星の王子さまが育てていたバラと同じ。
どんなにありふれていようとも、大切に育てていけば、それは、使い古された言い方ですが「オンリーワン」になります。

「本当に大切なものは目に見えないんだよ」
これも星の王子さまの一節ですが、これも星の王子さま関連では重要なキーワードにもかかわらず、昨日の授業では触れられていませんでしたね。
わざとはずしたんだろうなぁ。それも作戦のような気がします。

バラといえば、真っ先に思い出すのは私の場合、「バラが咲いた」という歌です。

♪バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが

で始まる有名な歌ですが、私はこの歌が子供の頃からとても好きでした。
咲いたバラはすぐに散ってしまうんですけど、

♪僕の庭のバラは散ってしまったけれど
♪さみしかった僕の心にバラが咲いた

うん、そうなのよ~
目に見えるものは移り変わっていくし、他と比べたらそんなに素晴らしくもないかもしれない。
でも、心に咲いたバラはいつまでも散らずに咲き誇り続け、私達を勇気づけてくれます。

現実ではありふれた私だけど、心の中ではそうありたい。
それが私の、おそらく一生涯の願いなのです。

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2016.08.12

凄すぎて絶句!  ~シン・ゴジラ~

 本日、庵野監督の「シン・ゴジラ」見てきました。

 いやぁ、すごい。表題どおり、凄すぎて言葉もありません。

 特に怪獣オタクでもなく、ただ、ウルトラマン世代ではある私。子供の頃には、ゴジラはよく、テレビで映画が放映されているのを見ていました。ゴジラvsキングギドラや、モスラを見たことがあります。ストーリーは全く覚えていませんが。

 「シン・ゴジラ」はたまたまちょっと宣伝を目にしたあと、ネットで評判を読んで見たら、大変好評で。さらにあのエヴァンゲリオンの庵野さんが監督をされたとのこと。
 エヴァンゲリオンは私、10話までしか見たことがなくて、はまってはいないのですが、それでも庵野さんの噂はそこここで聞きます。

 私の印象は、独自の世界観を確立されているということ。
 この人が監督をするのなら、ただの怪獣映画ではないことは確かでしょう。

 それに、ネットで予告編などを見ると、音楽がすごくいい。エヴァも音楽が神秘的でとてもいいのですが、あの音楽でゴジラ。見てみたくなりました。

 感想といっても、とにかくゴジラがものすごい迫力で、これはいくら言葉を尽くしても百聞は一見に如かず、見て頂くしかないのですが、一つだけ、どうしても、このブログで書いておきたいことは。

 ・・・3.11の東日本大震災&原発事故。そして熊本地震。

 これを経験してしまった日本人にとって、すでにゴジラはただのフィクションではない、ということ。

 私は見ていて確実にオーバーラップしましたよ。
 逃げ惑う人々。何百万人もの避難民。なす術もなく破壊されていく家々。広がる放射能汚染。

 ゴジラが動き出したら、人間には止める術もなく、ただ逃げるしかないんです。

 現実の天災とゴジラはまさに同じ。

 パニック映画は今までもたくさん作られていて、たとえば宇宙からの侵略の「インディペンデンスデイ」とか隕石が落下する「ディープインパクト」や「アルマゲドン」などたくさんあって、見たこともあるんですけど、今日の「シン・ゴジラ」ほど、リアルに感じたことはなく。

 もちろん、現実の日本を舞台とし、ゴジラが東京や鎌倉や川崎など身近な場所を蹂躙していくので、そのせいはあるんですけど・・・

 なんというか、官邸の対策本部や政府や自衛隊の対応が、まさに「3.11」。

 この先、東南海地震や東京直下地震などがいつ起こるかわからない日本にあって、「シン・ゴジラ」の世界は、題材が「ゴジラ」にもかかわらず、まったくフィクションとは思えないのです。

 この映画には自衛隊も協力しているみたいですが、ほんと、何かあったときに、
「まさか、そんなことが起こるわけない」
 と言えなくなってしまった3.11後の世界に生きている私たちの心の準備として、この映画を見ておく必要があるような気さえしてきます。

 とにかく、凄かった、「シン・ゴジラ」。
 見ていない方はぜひ見てみてください

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