映画・テレビ

2016.12.26

ご都合主義というのはどこまで許されるものなのだろう

昨日、「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」という映画を見てきました。
最初からこれを見るつもりではなく「君の名は。」をもう一回見てもいいし、本命は「ファンタスティックビーストと魔法の旅」だったのですが、時間が合わず、ちょうどいい時間だったのはこれだったんです。

【感想】 泣けました

いやぁ泣けた。映画で泣いたのなんて久しぶりじゃないかな。個人的には「君の名は。」よりも泣けました。
面白かったですよー

ただいつものYahooの映画レビューを自分で書いていてふと思い直しました。

泣けた、はいいけど、この映画ってどんだけぶっとんだ設定なのよ?と。

詳細はネタバレするので書きませんが、正直に言って「あり得ない」レベルです。
「君の名は。」もかなりあり得ませんが、この映画の設定もあり得ない。自分で映画レビューに書いたんですが、それこそ

「このラブストーリーを成立させるためだけのご都合設定」

じゃないの?

そこで表題のように思ったのです。

「なぜそういうことになったのか」が気になり出したら、この映画、面白くないかもしれない。
でも私は泣きました。

「君の名は。」もネットで感想を拾うとやはり設定の矛盾や尺の関係で致し方ない説明不足などに気づいている人もいます。
でも衆知のとおりあれだけヒットしている。

そう考えると「説明」なんて必要ないのかもしれない。多少の矛盾はふっとばせ。
「ラブストーリー」さえあればいいんだ。彼と彼女の物語、最高!

・・・
・・・
なのかなぁ?(苦笑)

思うに、これは客に何をどう見せるかという非常に危ういバランス感覚の話なんだと思います。
同じような話でも大コケする映画はたくさんあります。

「君の名は。」は新海さんが非常にこだわり抜いた作品と聞いています。だったらそのバランスにブレはない。

「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」は原作が小説です。
映画を見終わった後、原作の小説もちらっと書店で立ち読みしてみましたが、原作をうまく映像化している感じ。
小説っていうのは、どの情報をどう表に出すのか、非常に計算されています。その計算がうまくいっているからこそ原作小説はヒットしているのだろうな。
もちろん、原作がすばらしくても映画化の際、脚本や監督が原作の意図を汲まずにオリジナリティを出そうとしてぶれたりすることはしょっちゅうですが、それで原作以上の映画になることもまれにあるので、そのことの善悪は置いておくとして。
この映画は原作をうまく表現していてバランスを保っています。

設定がどれだけぶっとんでいようと、その世界を作った人達の中では詳細まで決められています。
ただそれをどう決められた2時間の尺で出して行くか。説明すりゃいいってもんじゃなく、大幅に割愛しても、もっと大事なことを観客に伝えることが必要です。

小説もそうなんですが、実は、作品というのは、作者や監督、要はその作品を作った人だけでできているものじゃなくて、観客及び読者といったその作品を受け取る側との共同作業で出来ていると私は思ってます。

作り手が厳選した情報を提示し、受け取った側がそれを元に何かを感じ取ることで、作品は完成する。

何を出し、何を出さないか、それはまさにセンス。
作り手が意図したように観客が感じてくれれば「はまる」わけですが、そこがうまくできてないと「何だこりゃ」で終わります。

その絶妙なセンスはかなり難しくて、映画でもアニメでも脚本家と監督と演出家とやりたいことが変わったりするだけで、ぶちこわしになってることが多いですね。
見ている方はどの意図を汲めばよいのかさっぱり分からないという。
そして得てしてそういう作品でも予告編だけはうまく出来ていたりするからなぁ。

そういうぶちこわし映画にひっかからないためには「Yahoo映画レビュー」ってけっこう役に立ちます(苦笑)。

実は、映画館で上映までの時間つぶしをしているときに「ポッピンQ」というアニメの予告編を目にしました。予告編はよく出来ていて話も面白そう。子供向けっぽいけど私は「まどかマギカ」に衝撃を受けたクチなので、これ見てもよかったかな、と思いました。

ところが、この映画は例の映画レビューやら、ネットの感想とかを見ると惨憺たる有様ですねぇ。
とても「君の名は。」レベルにほど遠い。
感想を読むとどうもストーリーが破綻しているらしく、なんでそんなことになっちゃったのか・・・
同じアニメだから「君の名は。」とはどうしたって比較されちゃうのに、ヒットする映画と大コケする映画と何が違うのか。
ま、見なくてよかったです^^;

どれだけあり得ない設定でもいい。
その説明が必要なわけでもない。
大事なのは、何を誰に伝えたいのかということ。
そして作品の半分は観客が作るんだということ。

いや「デスノート Light up the NEW world」も私、見たんですが、まああれはあれで面白いけど「デスノート」と名前が付く以上、見る側はあれを期待しているわけじゃないというのがなぜ作り手には分からないのか不思議です。

「デスノート」だけどデスノートじゃない「NEW world」だぜってことかな。
でも繰り返しになりますが、作品の半分は観客が作るんだしなぁ。
あれがやりたいなら「デスノート」とかタイトルつけるんじゃないとデスノートファンはみんな思っただろうなぁ。

それでも、まだ今年は「シン・ゴジラ」といい「君の名は。」といい、いい映画がヒットしてなかなかよい1年でした。

宮崎駿さんが引退しちゃっても、まだまだこれから何が出てくるか分からない。
来年も期待しています。

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2016.11.29

オリラジ中田先生の授業を聞いて~星の王子さま~

私は「星の王子さま」を読んだ事があり、箱根の「星の王子さまミュージアム」にも行ったことがあります。
でも最初の「星の王子さま」との出会いは、手塚治虫「火の鳥」の「望郷編」で星の王子さまの一節が引用された時かな。
あのときは意味もよく解りませんでしたが…

その後、星の王子さまのイラストが表紙になった本を読み、さらに、音楽座の「リトルプリンス」という星の王子さまのミュージカルも見ました。
なので「星の王子さま」歴としては古いし、長いし、ということで折々に接してきた作品です。

でも、昨夜、中田先生の授業を聞いたら、詳細はすっかり忘れていることが発覚し自分でも驚きました。

王子さまが地球に来る前に巡った六つの惑星なんて、点灯士と酒浸りの男くらいしか憶えてなかったもんな。

そして六つの惑星を巡った後、地球を見た王子様が言ったという衝撃的な言葉。びっくりしたなー
全然記憶にありませんでした。
星の王子さまの物語のクライマックスはやはり後半なので、前半はほとんど印象に残っていないのがよく分かりました。

とはいえ、地球に着いた王子様がたくさんのバラを見て、自分の星のバラがありふれたものだったと感じ悲しくなるくだりも実は忘れていました。
『高慢なバラに嫌気がさして王子さまは星を家出してきた』
とか、一番最初の
『みんなが帽子の絵だと思った、象をのみこんだうわばみの絵を、王子様は正しく言い当てた』
とか
『バオバブは怖い』
とかそういうのは覚えていたのに。

それと昨日の授業では触れられていなくて、私が覚えている最も好きなのはきつねがこんなことを言うシーンです。詳細は忘れていますが・・・

~僕はパンを食べないから、小麦畑を見ても特に今まで何も感じたことはなかった
 でも今日、君と出会ったから、これからは小麦畑の金色の波を見る度に君を思い出すだろう~

 大切な人との出会いでありふれた光景が特別なものに変わる。感動しました。

さて、本題。
中田先生の授業では、王子様と王子様の星に咲いたバラの関係や、バラに対する王子様の思いなどを解説しつつ、それが何の象徴なのか、という話をしていきます。

すると面白いことに、中田先生の授業を受けている番組の中でもそれぞれに意見があって、みんな違うようでした。
中田先生は「恋人」だと思ったそうです。
つまりはバラのエピソードは「愛情」の象徴であって、「愛情」の対象が誰なのかによって、人によって回答が違うのだということが授業の中で分かりました。
中田先生自身も授業をしてみてそのことが分かったと言っていましたね。

つまり・・・

「それ」は、他人から見るとどこにでもあるありふれたもの。
でも、心をこめて世話をし、会話をし、たまにはケンカしたりもしながら、大切に育てることで、それは自分にとって唯一のものに変わる。

「それ」が何なのか、という話です。
関根さんや藤本美貴さんは「子供」だと思った、と番組の中で話をしていました。

私にとっては何だろう、と番組が終わった後にずっと考えていました。
やっぱり「恋人」かなーとも。

でも、私の場合はどうもこれ、「自分」のようです。

愛情が、子供でもなく、恋人でもなく、「自分」だなんて、どれだけ自己愛が強いんだよ、と我ながらちょっと恥ずかしいですが、自分を大事にできないと他人も愛せないですからこれも大事なことです。

「私」という存在はありふれています。
地球にあふれる何億人のヒトの中ではたいした存在ではありません。

でも、これもまた星の王子さまが育てていたバラと同じ。
どんなにありふれていようとも、大切に育てていけば、それは、使い古された言い方ですが「オンリーワン」になります。

「本当に大切なものは目に見えないんだよ」
これも星の王子さまの一節ですが、これも星の王子さま関連では重要なキーワードにもかかわらず、昨日の授業では触れられていませんでしたね。
わざとはずしたんだろうなぁ。それも作戦のような気がします。

バラといえば、真っ先に思い出すのは私の場合、「バラが咲いた」という歌です。

♪バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが

で始まる有名な歌ですが、私はこの歌が子供の頃からとても好きでした。
咲いたバラはすぐに散ってしまうんですけど、

♪僕の庭のバラは散ってしまったけれど
♪さみしかった僕の心にバラが咲いた

うん、そうなのよ~
目に見えるものは移り変わっていくし、他と比べたらそんなに素晴らしくもないかもしれない。
でも、心に咲いたバラはいつまでも散らずに咲き誇り続け、私達を勇気づけてくれます。

現実ではありふれた私だけど、心の中ではそうありたい。
それが私の、おそらく一生涯の願いなのです。

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2016.08.12

凄すぎて絶句!  ~シン・ゴジラ~

 本日、庵野監督の「シン・ゴジラ」見てきました。

 いやぁ、すごい。表題どおり、凄すぎて言葉もありません。

 特に怪獣オタクでもなく、ただ、ウルトラマン世代ではある私。子供の頃には、ゴジラはよく、テレビで映画が放映されているのを見ていました。ゴジラvsキングギドラや、モスラを見たことがあります。ストーリーは全く覚えていませんが。

 「シン・ゴジラ」はたまたまちょっと宣伝を目にしたあと、ネットで評判を読んで見たら、大変好評で。さらにあのエヴァンゲリオンの庵野さんが監督をされたとのこと。
 エヴァンゲリオンは私、10話までしか見たことがなくて、はまってはいないのですが、それでも庵野さんの噂はそこここで聞きます。

 私の印象は、独自の世界観を確立されているということ。
 この人が監督をするのなら、ただの怪獣映画ではないことは確かでしょう。

 それに、ネットで予告編などを見ると、音楽がすごくいい。エヴァも音楽が神秘的でとてもいいのですが、あの音楽でゴジラ。見てみたくなりました。

 感想といっても、とにかくゴジラがものすごい迫力で、これはいくら言葉を尽くしても百聞は一見に如かず、見て頂くしかないのですが、一つだけ、どうしても、このブログで書いておきたいことは。

 ・・・3.11の東日本大震災&原発事故。そして熊本地震。

 これを経験してしまった日本人にとって、すでにゴジラはただのフィクションではない、ということ。

 私は見ていて確実にオーバーラップしましたよ。
 逃げ惑う人々。何百万人もの避難民。なす術もなく破壊されていく家々。広がる放射能汚染。

 ゴジラが動き出したら、人間には止める術もなく、ただ逃げるしかないんです。

 現実の天災とゴジラはまさに同じ。

 パニック映画は今までもたくさん作られていて、たとえば宇宙からの侵略の「インディペンデンスデイ」とか隕石が落下する「ディープインパクト」や「アルマゲドン」などたくさんあって、見たこともあるんですけど、今日の「シン・ゴジラ」ほど、リアルに感じたことはなく。

 もちろん、現実の日本を舞台とし、ゴジラが東京や鎌倉や川崎など身近な場所を蹂躙していくので、そのせいはあるんですけど・・・

 なんというか、官邸の対策本部や政府や自衛隊の対応が、まさに「3.11」。

 この先、東南海地震や東京直下地震などがいつ起こるかわからない日本にあって、「シン・ゴジラ」の世界は、題材が「ゴジラ」にもかかわらず、まったくフィクションとは思えないのです。

 この映画には自衛隊も協力しているみたいですが、ほんと、何かあったときに、
「まさか、そんなことが起こるわけない」
 と言えなくなってしまった3.11後の世界に生きている私たちの心の準備として、この映画を見ておく必要があるような気さえしてきます。

 とにかく、凄かった、「シン・ゴジラ」。
 見ていない方はぜひ見てみてください

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2015.12.02

嘘のない世界に行ったら

先日、「世にも奇妙な物語」を見ました。
この番組、好きなんですよね~。

この番組の中で、嘘が存在しない世界の話をやっていました。

嘘が存在しないので、本当のことしか口にできない。

とってもいいなぁと思ってしまいました。
言葉が全部真実だなんて。

いや、そう思うってことは、いかに自分が「言葉」を信じてないかが逆に分かります^^;

「BUBIさんはやさしい」
「BUBIさんていい人」
「BUBIさんといると楽しい」
そう言われても全部「ホントかしら?」ってまずは疑ってかかってるもんなー

え? みなさんはそうじゃないですか?
私は、自分に言われたことは話半分くらいに聞いているんですけど・・・

でも自分のことじゃないことは大体、言葉どおり、真実だと思って聞いています。

「この食品は体にいい」
「○○を食べるとやせる」
「Aとは付き合ってないよ。ただの友達だよ」
「テストなのに全然勉強してこなかったー」

いえ・・・なんというか。
昔、「ぼのぼの」というマンガでね。
おまじないの話があったのです。

たとえば・・・そうだなぁ。
「恵方巻をその年の恵方に向かって食べると良いことがある」
これもおまじないみたいなものですよね。
「初詣で神社にいってお願いすると願いが叶う」
これもおまじない。

良いことがあったり、願いが叶ったり、ホントにそうなるのだろうか、と思いますけど、「ぼのぼの」でスナドリネコさんは

『なるもならないも確率の問題でしかない。あとは信じるか信じないかだ。お前は「なる」と「ならない」とどちらを信じるんだ?』

と問います。
ラッコのぼのぼのは
「ぼくはなるといいからなる方を信じるなぁ」
って言うんですよ。

だから、私も人の言うことはなるべく信じるようにしています。
でも自分に関することは信じない。
矛盾してますかねぇ。

もし嘘のない世界に行ったら「大好き」だと言われたらホントに大好きなんだと思います。
それって嬉しいなと思ったのですが、これって逆もあるな。
「嫌い」とか「ブス」とか否定的な言葉もそのまま言われるんだろうな・・・
優しい嘘に守られてる、というのもあるのかもしれないので、嘘のない世界には行かない方がいいのかな。

でも。
「大好き」と言われても信じられない、今のこの世界よりも。
もしかしたらいろんなことに希望が持てるようになるかもって思っちゃう。

そう思う私はやっぱりやや人間不信なのかな・・・

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2015.11.19

偽装の夫婦 7話までの感想

天海祐希主演の偽装の夫婦を見ています。
天海祐希が演じている主人公の女性は、かなり風変わりで、感情移入しにくい人でした。

・人当たりは優しいが、心の中では悪態ばかりついている

こういう裏表のある人って苦手だなー。
内心むかついているのに無理矢理の笑顔。これが気持ち悪いという周りの評価があるのも納得です。
早くに両親を亡くして、他人の中で生きてきたから、誰にも本音を言えず、笑顔の仮面をかぶっちゃった…という点には同情はできるのですが。

ただ、おそらく私が彼女のことをあまり好きになれないのは、自分に似てるからなんですよ~。
自分の嫌な面を見せられるのは気持ちのいいものじゃないですからねぇ。

7話まできて、彼女の笑顔の仮面はかなり崩れてきました。
内心の悪態もそのまま口をついて出るようになり。

それは多分いいことなんでしょう。
いいことなんでしょうが・・・

やだなぁ、なんかもやもやする。
気持ち悪いのでもやもやの原因を紐解いてみます。

そもそも、彼女は偽装結婚の相手である超治に、若い頃、あまりにもひどい振られ方をします。
当時、二人は付き合っていたのに、ある日突然、理由も言わずに彼女の前から超治は姿を消してしまいます。
彼女はとっても彼のことを好きだったのにねぇ・・・
これってひどい裏切りですよ。

なのに再会したら、いけしゃあしゃあと「偽装結婚して欲しい」なんてね~
大体が、彼はゲイで、昔、彼女と付き合っていたときも、女性でもいけるんじゃないかとがんばったけど無理だった、というのが突然の破局の原因だったりします。
無理なのはしょうがありませんが、なんというか、自分のことしか考えてないというか、彼女の気持ちを分かってないというか。
無神経だよなぁ。
彼女が彼が消えて以来、どんな気持ちでいたのか、全然分かってない。

結局、彼女は今も彼が好きなのですよ。
その彼女の気持ちにつけ込むというか、いえ、付き合っていたのは昔だからもう彼にとっては過去のことで、彼女にとっても過去になってるだろうと、今度は偽装結婚に協力させるという・・・。

非道すぎます。許せない。

なのに、彼女はやっぱりまた彼に恋をしてしまう。
でも彼はゲイ。
だから、別れるしかない。
こうなることは半分分かっていたようなものですけど、分かっていてもむかつきます。

女って…いや、惚れた方って弱いよなぁ。

相手のどんな無理なお願いでもかなえてあげたくなってしまう。たとえ、相手が自分のことを好きでないことが分かっていても。
それも分かっている話なんですが、なんだかなー。

このままただ別れて終わりだったら面白くない。
お友達としてこれから仲良く暮らしましたでも面白くない。
主人公の彼女も同性の恋人ができて幸せになりました・・・めちゃくちゃですが、まだこの方がましかなぁ。

7話は超治がゲイであるということが公になり、勤めていた幼稚園の保護者から総スカンを食らうというストーリーでしたが、別にゲイだっていいじゃないですかねぇ。

もちろんそこは気を遣ったらしく、ゲイであることが問題なのではなく、ゲイを隠していたことが問題だ、なんて白々しい話になっていましたが、現実問題として、別にゲイだとかレズだとかバイだとかっていう性嗜好の話って、他人にベラベラと公にする話じゃないでしょ。

たとえば普通に
「私は女で男の人が大好きです」
「僕は男で女の人が好きです」
って言う? だから何?ってなりません?

性的嗜好がどうだって別に関係ない。
肌の色が白くたって黒くたって関係ない。
女だって男だって関係ない。
差別撤廃ってそういうことでしょ。
「だからどーした」ってことでしょ?

そういうことにこだわること自体がくだらなすぎる。なんで他人にベットの中のことまでカミングアウトしなくちゃいけないのか、私には理解できませんがな。

あー、書いたら少しすっきりしました。

人を好きになり、相手にも好きになってもらえれば大団円ですが、世の中そんなにうまくはいきません。振られることだってあるでしょう。
でも主人公のヒロにはもうそれを引きずるようなことはしないで、自分らしく、自分の感情に素直にこれからは生きていって欲しい。

内心の声なんて、私にもありますわ。
くだらない、馬鹿馬鹿しい、ふざけんじゃねー、は、しょっちゅうですが、にっこり笑ってやり過ごしています。

まぁ、やっぱり私はヒロに似てますわね(-_-;)

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2015.08.11

デスノート見ています♪

 いろいろ話題のテレビドラマ版デスノート。
 第一話は原作とのあまりのギャップに、脚本家の名前をデスノートに書きそうになりましたが、だんだん、ドラマも原作に沿った展開になってきて、違う部分もいい意味で予想を裏切ってくれているので、今後の展開が楽しみになってきました。

 今、8月9日の第6話まで放映が終了したところです。第6話まで見て・・・

 だんだん私、Lが好きになってきたみたいです(苦笑)。
 
 6話では、夜神月が夜神・父に連れ出されていなくなった監禁部屋に、一人でいたときのLがなんだかかっこよかった。
 でも、夜神父の行動はフェイクだってLは知ってたんだし、それを他のメンバーに隠す必要もないわけで、

L「夜神さんを信用しすぎていました」

 このセリフの意味がよく分らない^^; あえていうなら、テレビを見ているこちらに、夜神・父の行動が、本当に、月を脱走させるためのものだと勘違いさせるためのセリフですが、ドラマの展開に合ってなかったら、おかしいよなぁ。

 そしておそらく視聴者のほとんどは(もちろん私も)原作、もしくはアニメで、夜神・父の行動がフェイクだと知っているので予想どおりの展開なわけで、2話や3話あたりでどきどきさせられた身としては、ちょっと物足りなかったです。それでも、夜神・父が、月くんがキラではないと分って安堵して月を抱きしめ、月も涙ぐむシーンは、とても感動的でした。

 まあ・・・月がキラなんだけどね・・・お父さん・・・

 このあたりの展開はちょっとLが気の毒です。
 「死神のノート」という超常現象に真っ向から取り組むL。
 そりゃ「何が何だか分からない」でしょう。
 状況は全て、月=キラを示している。
 なのに月くんを捕まえても、キラによる殺人は止まらない。
 何が起こっているのか、さすがのLでもさっぱり分からない・・・無理もありません。
 天才が悩んでいる様子がけっこういい。
 自信たっぷりなのに、結果が思うように出ない。Lも人間なんだなぁと感じます。

 さて、6話終了時点で、状況を整理しつつ、今後の展開を少し予想してみたくなりました。外れる可能性大なので、あくまで個人的なたわごとです。

 ミサが所有権を手放し、レムがミサのノートを月に託したために、月は二冊のデスノートの所有者となりました。
 ドラマではわざわざ「そのこと」を印象づける月のセリフもありました。

 月の作戦は、こうです。

 黒デスノートはレムが持ち(この時点で所有権放棄)、第三のキラに使わせる。
 赤デスノートはリュークが持ち、監禁状態で月が所有権を放棄。ノート本体は埋めておく。

 月が再びデスノートの所有者となるためには(記憶を取り戻すのは触ればいいだけ。放せばまた記憶を失う)

「第三のキラが所有権を喪失した瞬間に月が黒デスノートを持っていること」

 が必要で、原作でも映画でも月は、第三のキラが逮捕され、キラが所持していたノートを手にとったと同時に第三のキラをデスノートの切れ端で殺して所有権を取り戻します。

 でもこれって必ずしも「月が第三のキラを殺す」ことが条件ではない。とすると、以下みたいなパターンがあり得るかな?

(その1)
 月がノートを持っている間に、第三のキラが所有権を放棄する(所有権を放棄すれば捕まっても「知らぬ、存ぜぬ」で通ることをレムが伝えておけばいい)

※ただし、第三のキラが指示に従うとは限らず、賭けの要素が強い。

(その2)
 ミサが、埋めてある赤ノートを掘り出して月に渡す。
(ミサにノートを掘り出して月に渡すように指示する必要があるけれどこれはレムにやらせればいい。実際、レムは原作でデスノートの切れ端を使って記憶を取り戻す前のミサと話している。ただし、月が埋める前に赤ノートを使っていることが必要)

 この場合、ミサさえ解放されれば、月自身はデスノートの記憶がなくてもOK。タイミングも「黒ノートを持っている間に前の所有者を殺す」というぎりぎりの綱渡りをせずに済む。つまり時計にデスノートの切れ端を仕込むという裏技を使わなくても済むんですよ。

 けっこう、ありそうではありませんか。

 原作では、13日の偽ルールでミサが完全に白だと分かる前(つまりデスノートの所有権が月に戻るまで)はミサは自由に動けませんでした。
 でもドラマでは、月を殺そうとする夜神・父を、ミサが殺さなかったことで、ミサの疑いも完璧に晴れたということになっている。
 ミサがデスノートを掘り出しにいけるタイミングは充分にありそうです。

 レムの指示、というより、月自身がミサあてに「一生愛す」的なことを添え書きした指示書を、事前に手紙にして隠しておけば、レムはミサに「月からの手紙を読むように」言って手紙の隠し場所だけを伝えればいい。それだけなら、切れ端をミサに触れさせるだけでも伝えられそうですよね。

 凡人設定の月くんに、原作と同じやり方で「計画どおり」って言われても、シラケるだけなので、できれば、時計にデスノートの切れ端を仕込むトリックは、原作の月くんだけにしておいて欲しいんだよな・・・
 あの時計は原作では、「お父さんにもらった大事な時計」なので、お父さんと折り合いが悪かったドラマの月くんがそんな時計しているとも思えないし。

 ドラマならではのオリジナリティを出すなら、ここはひとひねりぜひしてほしい。
 次の日曜を楽しみにしています。

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2015.07.06

デスノート、見ちゃったよ・・・

 2015年7月5日にスタートした、テレビドラマ版「デスノート」の原作からの改変ぶりがなんともすさまじいです。人気作品だけにかなり多くのファンに多大な衝撃を与えたと容易に想像できます。

 私も無論、その一人です。

 原作はコミックだけど、アニメにも実写版映画にもなっていて、どちらも非常にクオリティーが高く、実写版Lの松山ケンイチなどはスピンアウトの映画も作られたほど。(残念ながら舞台は見ていません)
 そんな経緯もあって、デスノートがテレビドラマになるということで、別に期待もしていなかったけれど、がっかりもしていませんでした。多少のがっかりはあったとしても、それなりの出来になってるんだろうと思ってたんです。

 が、7月5日の第1回の放送を見て絶句。

(なんじゃ、こりゃーーーーーー!!)←絶句なので声は出ていない

 月が天才ではなく「平凡な大学生」だとは聞いていました。
 でもここまで平凡? 
 てか、これ平凡かなー。平均以下ではないかしら。
 仮にも夜神月と名乗る人物がアイドル見に行ってペンライト振ってる姿なんて見たくなかった。
 そして、そのアイドルのために人殺ししちゃうところも見たくない。

 というか、「普通」はこうなるんでしょうね。
 デスノートを拾った人が普通の人ならば。
 それは分かる。

 でも「デスノート」という作品が、多くの人に支持されたのは拾ったのが月だったからなんじゃないか、と。
 一人の非凡な少年がデスノートを拾い「新世界の神」として君臨する。
 他の誰にあんなことができたか? 月も最後にそう言ってましたっけ。

 だからこそLもまた、月を、キラを、捕まえるために命がけの捜査をする。

 そういう話でしょう、「デスノート」って。

 平凡な人間がデスノート拾って、身近な人間を何人か殺してしまう。
 それですぐ捕まる。
 事実、ドラマの中でもあっという間にLは「月」にたどり着いてしまいそうです。
 そんな話でいいの? それでこれから面白くなるの?

 月がFBI捜査官を皆殺しにするエピソードは原作の見せ場の一つです。
 ドラマの月にそこまでできるんでしょうか。
 月がついに犯罪者でない人間まで殺し始めるターニングポイントなんだけど。

 一方、「平凡な人間が殺人鬼に変貌していく」様を見せたかったというこのドラマ。
 それにしては、ノートで殺人を犯してしまい、自分も死のうとする月が、犯罪者の大量殺人を始めて「キラ」に目覚める経緯がずいぶんあっさりとしていました。そこを「1ヶ月後」で片付けてはいけないでしょ。
 なので、余計に狙いがぶれてる感じがしてしまいます。これじゃ、最初に平凡な姿を見せたのは単に炎上を狙ってたとしか思えない。

 原作ファン・・・というより、映画やアニメも含め、あえて「デスノート」ファンと言いましょうか。
 そういう人達を全員、敵に回したかのような脚本。
 あえて違いを際立たせることで、話題性を狙った監督。
 あまり今まで経験なかったんですが、思わずネットで検索して顔と名前を調べました。
 調べてどうするって?
 もちろんデスノートで・・・いえいえ、それはかないませんが、もし、私たちの知っている月が見たら、こんなドラマ、プライドが許さないでしょう。

 別物なら別物でも楽しめる作品がないとは言いません。
 私などは、黒執事の実写映画、酷評でしたが、それなりに楽しく見れました。
 でもなんだか今回のドラマは、わざとイメージをぶち壊しにしてデスノートやデスノートのファンを馬鹿にして煽っているように思えます。
 ワタリも粧裕もちょっと嫌な性格だし、そういうつまらない改変からして、ファンへのそこはかとない悪意を感じてしまうのは気のせいでしょうか。
 ここまでわざわざしなくても・・・

 何を狙って、どういうつもりでこのドラマが作られたのか。
 うーん、それが知りたくて、結局、見ちゃうんだろうな。
 
 昨日の放送は民報で1位の視聴率をたたき出したらしいです。してやったりと思わせるのは嫌なんですけどねぇ。

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2015.05.30

「誰も知らない」

「誰も知らない」という映画をご存じでしょうか。

 2004年の作品で、「主演の柳楽優弥が史上最年少の14歳という若さで、2004年度カンヌ国際映画祭主演男優賞に輝いた話題作」だそうです。詳しくは上の茶文字をクリックしてYahooの映画情報でチェックしてくださいね。

 以前からちょっと興味があって、観てみたいと思っていたら、動画配信サイトで配信されていたので見てみました。

 この映画は、実在の事件を元にしたものです。

 私、全然知らなかったんですけど、1988年に発生した「巣鴨子供置き去り事件」という出来事を下敷きにしているそうです。

 私にとって、育児放棄(ネグレクト)の事件って、2010年、大阪の、子供二人をマンションの一室に閉じ込めて放置した母親の事件が記憶に新しく、もちろん、そのほかにもネグレクトによる放置で子供が死亡する事件が、近年後を絶たないのは知っていましたが、1988年か・・・こんな以前から、こんな形で子供を放置する母親がいたのか。

 こういう事件て、今までどれくらいあるんだろうとネットを見てみると、例えばこんなページで確認することができます。巣鴨の事件よりも前からずいぶんあるんだなぁ。2006年の苫小牧の事件もひどいよな・・・

 「誰も知らない」の映画を見て、私が一番最初に思ったのは、子供ってやっぱり大人の手を借りなきゃ生きていけないんだ、という厳然たる事実、でした。

 私は三原順さんのマンガ、「はみだしっ子」シリーズが好きでよく読んでいたのですが、はみだしっ子の子供たち、グレアム、アンジー、サーニン、マックスも親を見限り、子供4人だけで、生きていくお話でした。

 彼らのような生活もアリ、だとずっと思っていたのですが、映画の「誰も知らない」を見ると考えが変わります。

 当たり前かもしれませんが・・・
 子供は子供だけじゃ生きていけない。

 「誰も知らない」の子供たちも4人。母親が帰ってこなくなって、仕方なく、子供たちだけで生きていこうとがんばるのですが、そのうちお金も尽きて、一番上の子は13才ですけど、当然どこでも働かせてももらえなくてお金を得る手段もない。

 水道、ガス、電気を止められれば、公園の水道で水を調達するしかないし、コンビニで廃棄されるお弁当でなんとか生き延びていたとしても・・・

 その結果、何が起こったかは、実際の事件を知る前に映画でぜひ見ていただきたいです。

 見終わって、何とも言えない気分になりました。

 母親が働いて、家に帰っていた頃はまだ、それでもまだみんな笑顔だったんですよ。
 学校に行かせてもらえてなくて、家から出ることも許されなくて、そういう生活も問題だとは思うのですが、それでもね。
 
 彼らだって、幸せになれる権利はあったはず。
 どこでどうしてこんなことになってしまったのか・・・

 私は幸い、ちゃんと大人になれて、社会が敷いたレールを外れることなくこれまで生きてこられたので、食べることや住むところ、着るものや働くところにも困らずに生きていられます。

 でもそのレールってこんなに簡単に外れてしまえるものなのかと。

 そして外れてしまったらもう戻れない。どうにもならない。
 
 知っていたはずなんですが、映画を見て、空恐ろしくなりました。なんてことだ、と。

 子供たちを置き去りにした母親は、どういうつもりだったのか・・・なんて考えても仕方ないことをつい考えてしまいます。

 マンガの「はみだしっ子」でも、4人のうち一番小さいマックスがこう言うシーンがあります。

「それでもボクたち生きてきたよ」

 現実の世界でも、親とはぐれた子供たちが何とか生きていけるように、きっとがんばっている人はいるんだろうと信じたい。実際に、批判を受けながらも「赤ちゃんポスト」も続いているし・・・

 もちろん親がちゃんと子供ができたら養育する、のが当たり前なのですが、もし、そうできなくなったときも子供たちが生きていかれる受け皿がないと、やっぱり、この世界はダメなんだろうと。

 レールを外れないように生きるのがもちろんベストですが、そうできなかったとき、リカバリーできる仕組みを作っておかないといくらでもこういう悲劇は起きてくるわけで。
 たとえば、今、一番問題になっている母子家庭の貧困もそうですよね。
 
 本当に・・・いろいろと考えさせられる作品でした。

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2014.11.29

祝♪ みゆきさん、紅白出場♪

 中島みゆきが12年ぶり2度目の出場を果たす。

 うわ~嬉しい♪
 12年ぶりか~。
 
 前回、「地上の星」のとき、中島みゆきオンリーカラオケの仲間みんなで、みゆきさんの紅白初出場を喜び合ったのを思い出します。

 朝の連続テレビ小説「マッサン」の主題歌、「麦の唄」も素敵な歌だからな~♪♪♪

 今年の紅白は録画決定!!

 当時の仲間たちもどこかで喜んでいるかな。
 
 紅白歌合戦でみゆきさんを見るのがとっても楽しみです^^

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2014.07.26

皆さんは蓮子さんを応援したいですか?

 朝の連続テレビ小説「花子とアン」を見ています。
 最近はずっと「純と愛」「あまちゃん」「ごちそうさん」と見ていて、「花子とアン」もその流れで。
 8:00スタートになって見やすくなったのもあります。

 ただ、見ているからと言って「気に入っている」かというと実はそうでもありません。
 今週の展開にはどうももやもやしてしまって。
 見ているみなさんはどう感じているでしょうか。

 「花子とアン」には、主人公の花子の腹心の友として、華族のお嬢様である「蓮子(れんこ)」という女性が登場します。
 この人は実在する人物で、ドラマのエピソードももちろん脚色はされているのでしょうが、おおむね事実にそった形でストーリーが進んでいます。

 蓮子さんは、年の離れた九州の石炭王と家庭の事情から愛のない結婚をしました。
 しかし、のちに知り合った若い男性と駆け落ち。
 それが新聞沙汰になり、連れ戻されるのを恐れて、身を隠してひっそり暮らしていました。
 そして、今週になって、二人の間には子供もできました。

 まだ石炭王も、蓮子さんの実家も、蓮子さんを必死で探しているというのにな。
 
 私が石炭王だったら、駆け落ちされたあげくに相手の男と子供までこさえてるなんて絶対許せない。
 
 誰かを不幸にして自分だけ幸せになる、なんて自分勝手なこと許されないでしょ!、と。

 人には幸せになる権利はあります。
 蓮子さんだって幸せにはなっていい。
 でもそれは、家のためとはいえ結婚したのだから、石炭王との生活の中で幸せになる努力をすべきだったと思うのですよね。

 いえ、いろいろ努力はしたけど無駄だった、とドラマが言いたいのは分かります。
 でも、それならなぜ「石炭王」の人柄を、もっと極悪人ぽく書かないのかな。

 ドラマの中では石炭王は、蓮子さんを愛しているけれど、蓮子さんには愛してもらえずに苦しむ男性として描かれています。
 私はどっちかというと石炭王の方に感情移入しちゃうんだよなぁ。

 ドラマでは蓮子さんだけでなく、花子も妻帯者に恋をして、そしたらその妻だった人が都合よく死んでくれちゃって、愛する人の後妻にちゃっかり収まるのですよ。
 そんな都合のいい話ってあるんですかね。

 なんか「人生」をなめてる気がしてむかむかしてしまいます。

 もしかするとこれは嫉妬かもしれません。
 好きな人がいたってうまくいかないことが多いのだし、好きな人と結婚したってうまくいかなくなることは多い。
 人生は望みどおりになんかいかないものです。
 本当に自分が望む人生にならなくたって、私達は自分の手に入る人生の中でささやかな幸せを探しながら生きているのではないのかしら。

 夢は誰もが望んだとおりかなうものじゃない。
 かなえようと努力したとしても。
 でもかなわなくても・・・いつしか人はその夢を越え、新しい何かをその人生で見つけるもの。
 そういうもんでしょ、人生って。

 まあ所詮ドラマなんだから、都合よくいろんなことが運ぶのにいちいちカリカリするのもどうかとは思いつつ・・・

 誰かの犠牲の上に成り立つ幸せって、見てて気持ちよくないです。
 どうしても私は蓮子さんを応援する気になれません。

 でもドラマはそうは書かない。蓮子さんを許し、守ろうとする。

 それが普通なの?
 私はどうしても納得いかないです。
 他の人はどうなのかな~?

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