映画・テレビ

2022.06.27

シン・ウルトラマンにはまった…

 酷暑の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 私は遅ればせながら2022年6月25日(土曜日)に「シン・ウルトラマン」を映画館に見に行き、はまってしまいました。

 もともと「シン・ゴジラ」も好きでね~

 でもちょっと「シン・ウルトラマン」へのはまり方は「シン・ゴジラ」のときとは違う。

 昔、高校生の頃「日出処天子」を読んだ時、しばらくそのことだけで頭がいっぱいになって他のことを考えられなくなかったことがありましたが、あの感覚に近い。

 TwitterやYoutubeでツイートや動画を見倒して、米津さんのM八七を何度もリピートしています(汗) やばい。

 土曜日に見た後、違う映画館で日曜日に二回目も見に行ってしまいました。

 映画を見終わった瞬間は実はそんなに「感動した」とか「世界観変わった」というほどでもなかったんですよ。

 私はそもそもオリジナルのウルトラマンは見たことなくて「帰ってきたウルトラマン」や「ウルトラセブン」や「ウルトラマンタロウ」くらいの世代なので、元ネタはほとんど知らないし(ゼットンに負けた、くらいの情報しか知らなかった)、「ウルトラマン」という作品を純粋に1本の映画として見た感じです。

 細部までリアリティにこだわった「シン・ゴジラ」と比べると、多分、原作をリスペクトしてあまりにかけ離れた改変をしないためだと思われますが、ややチャチに感じる部分やエピソードがぶつ切りな感じもありました。米津さんの主題歌もちょっと地味に感じたし。

 でも、全体通して面白かった。これは脚本が上手いのでしょう。さすが庵野さん。

 そして、メフィラスの怪演。山本耕史さんがめっちゃはまってるし、尺をたっぷり使って興味深いエピソードを盛り込んでる。人気が出るの分かるなぁ。

 土曜日に見終わって帰ってきて…面白かったんですが何となく消化不良な感じがしました。私はウルトラマンをあんまり知らないから。

 いろいろ考えて、考察とか見ている内にどんどんはまってしまった感じがします。

 「ウルトラマン」という宇宙人がなぜそこまで地球を守ろうとするのか???

 

 映画冒頭、一人の青年が子供を守って自分が命を落としてしまいます。

 まあ、昔のアニメによくあるベタな展開を言えばそのとおり。

 でもその姿を見て一人の外星人が不思議に感じます。なんで自分の命を犠牲にしてまで他人を守ろうとするんだろう?

 それは、私達がウルトラマンを見ていて感じる疑問と実は同じだったりするんですよ。

 なぜ、地球を守ってくれるの? あなたはそんなに強く、人よりも寿命も長く、知恵も力もある存在なのに、なぜこんなに愚かでちっぽけな人間を守ろうとするの?

 答えは、そう、ウルトラマンが人間を好きになったから。

 何というか…好きに理由なんかないんですよね。なぜそこまでするのかに理由はない。そのことに少し感動してしまいました。

 ウルトラマンを見ていると、人類はちっぽけだけどこんなに愚かじゃいけないという気持ちになります。誰かに「愛される」というのはそういうこと。そんな気持ちを「シン・ウルトラマン」は思い出させてくれました。

 劇場公開は後少しで終わってしまいます。まだ見ていない方はぜひ!!

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2021.12.03

プレバトのファンです2

最初の記事はこちら

信号待ちで私も一句

 もう来ない
 君に届かぬ
 青信号

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2021.02.18

プレバトのファンです♪

プレバトいいですよね~。水彩画や色鉛筆、シャッターアートも素晴らしいですが、やっぱり俳句が楽しい。

私も作ってみました。

 

テーマ「加湿器」

 しゅうしゅうと 心地よき蒸気 冬座敷

 

テーマ「ウニの軍艦巻き」

 三陸の
 雲丹 青天の 
 311(さんいちいち)

 

テーマ「きのこの山とたけのこの里」

 ちょこれいと
 恋したあの日の 
 忘れ雪

 

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2020.08.29

愛するものを守るために人を殺せるか -「竜の道」-

 ドラマ「竜の道」を見ています。

 玉木宏と高橋一生が双子の兄弟の役で、二人は親代わりだった夫婦を自殺に追い込んだ「キリシマ急便」の社長に復讐しようとしている…そういう物語です。

 兄の竜一(玉木)は、自殺願望を抱く男を自分の家で自殺させ、その遺体を焼いて自分だと思わせることで「竜一」の存在を世の中から消し去り、顔も整形して、裏の世界でキリシマへの復讐を果たすつもり。

 弟の竜二(高橋)は、そんな兄と密かに連携をとりながら、自分は国土交通省のエリートとして、表からキリシマ急便を追い詰める役割を担います。

 二人は一度、キリシマを追い詰めるネタを手に入れ、復讐を果たす一歩手前までいくのですが、残念ながら某ヤクザの手でその計画はつぶされてしまいました。そのとき、竜一はヤクザの前で自分の無力さを思い知らされ、その絶望が故にだったのかな…当時、勤めていた出版者の社長が、目の前で発作を起こした際にそれを見殺しにして、社長がため込んでいた裏金を奪い取りました。

 まあ…竜一が殺したようなものです。その際にその社長の息子に顔を見られ、竜一自身も、自分と同じように親を理不尽に殺された子供を作ってしまったことで罪の意識に日夜苛まれています。

 たとえ復讐が果たせたとしても、自分は人を殺している。二度と日の当たる場所を歩くことはできない。

 そう考えている竜一は、復讐計画を実行するにあたり、妹の美佐を巻き込んでしまったこともあって、5話で竜二に「お前は外れろ」と言いました。お前はまだ引き返せる、と。そして自分が人を殺していることも竜二に告白します。

 それを聞いてしばし考え込む竜二。でも、竜二は竜一と一緒に行く、と竜一に伝えます。復讐は二人で果たすのだと…。

 

 というところまでが、今日(8月末時点)のドラマの展開ですが、うーん、ちょっとね。いろいろと考えてしまいました。

 前にも書いたことがあるのですが、私は三原順の「はみだしっこ」シリーズというマンガのファンで…というか「はみだしっこ」はバイブルみたいなもので、ことあるごとに思い出すマンガなんですけど、「竜の道」を見ているとはみだしっこといろいろかぶるんですよね。

 竜一と竜二のように自分よりも大事な誰かがいる人は陥りがちなことで、

 『AはBが幸せでないと幸せじゃない。→BはAが幸せじゃないと幸せじゃない。→結局二人とも不幸せ』

 これは「はみだしっこ」に出てくる話ですが竜一と竜二もそうなんです。竜一は自分がどんなことになっても竜二と美佐が幸せならそれでいいと思ってるに違いないのですが、竜二もそれは同じ。だから竜一が復讐の道に進もうとする限り、竜二の選択だって一択です。自分も竜一と共に修羅の道を歩むしかない。

 でもそれって二人が本当に望んでいたことなんだろうか?

 ドラマの竜一は、はみだしっこのグレアムのようだな、と思います。

 私は、はみだしっこではアンジー派で、目の前で人が死んでその肉親が泣き叫んでいようとも、自分の愛しているものを守るためなら何だってやるし、それを後悔したりしない…そういう思いに共感してしまいます。

 だから竜一に対しても「そんなに苦しまなくてもいいのに」と思っちゃうんですよ。私もアンジーと同じで冷たい人間だから?

 そう思った自分にちょっとびっくりしてしまいました。

 私はグレアムとは違い、目の前で人が死んでも、それが仮に自分のせいでも、自分の命でそれを償おうなんて発想は多分しないでしょう。目の前で人が死んでも、それを忘れて笑って生きられるような気がする。アンジーにとってそれが救いであったように。グレアムにとってはそれは呪いだったけれど。

 愛する者のためだったら、他人を犠牲にしても平気でいられるか?

 でも結局、それにYESと答えてしまったら本当は竜一も竜二も「キリシマ急便」の社長と同じなのよね。

 何のための復讐なのか…何というか年をとった分だけ勧善懲悪に物事を見られなくなっていて。「キリシマ」は悪い奴で、竜一と竜二は正義だと単純には思えない。

 いや、少なくとも…キリシマへの復讐を果たすために、誰を犠牲にしても平気でいられるほどには全然強くない竜一を見ていると、胸が締め付けられて泣きたくなってきます。

 全く…だったら私が代わりにやってやるよ、って思っちゃうわ。竜二はそう思ったことはないんだろうか。君の兄貴はそんなに強くないよ。

 いや、もしかすると竜二は分かっているのかも。分かっていて利用しているわけではなさそうだけど、でも1話冒頭を見ても、多分竜一が望んでいるような筋書き(自分だけが復讐の犠牲になって、竜二と美佐は幸せになる)にはこの話はならない。だって竜二もきっと竜一のことを思っているから。もしかしたら、最後は竜一の代わりに自分が犠牲になってもいいと思うほどに。

 ということで、結局、そんなふうに考えている限り、AもBも幸せにはなれないのよ。

 竜一も竜二も大馬鹿だわ… 1話のときと同じように5話で二人が抱き合って泣いて、竜二が竜一と一緒に行くと言うシーンを見ていてもたってもいられなくなってこれを書いてしまいました。

 これからどうなるのか…心がざわついてどうしようもありません。

 

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2020.02.18

ダンデライオンの「本当の孤独」とスカーレット

まだ小学生だった頃、松任谷由実の歌で「ダンデライオン」という歌がヒットしていました。
歌詞の一部を引用します。

(引用開始)
君はダンデライオン
本当の孤独を今まで知らないの
とても幸せなさみしさを抱いてこれから歩けない
私はもうあなたなしで
(引用終わり)

小学生だった当時の私には正直、この歌詞の意味が分かりませんでした。
「本当の孤独」とは?

今は想像つきます。
私はこれまでの人生の中で一人がデフォルトなので、いわゆる「孤独のさみしさ」というものを知りません。


想像することしかできませんが、多分、愛する人ができて、家族がいて、愛する誰かが側にいる時間を経験してしまうと、もう一人には戻れない。
けれど、生まれ落ちてずっと孤独ならそれが当たり前なのでさみしさを感じることはできない。
それが「本当の孤独を今まで知らない」の意味ではないか、と。

当時の私は、いつかは自分も「本当の孤独」を知る日が来るのかな〜と思っていました。

でも、結局、今も本当の孤独を知らないままだなぁ。
だって愛する誰かがそばにいたことがそもそもないんだもの。

最近、朝ドラの「スカーレット」を見ているとモヤモヤする気持ちを抑えきれません。
スカーレットの主人公の女性は、女性陶芸家として成功するのですが、それと引き替えに愛する夫を失ってしまう。
夫は主人公のことを「陶芸家」としてではなくずっと「女」として見ていた。
自分の守るべき家族であり妻であると思っていました。
だから危ないこともして欲しくないし、失敗して傷ついて欲しくない。
主人公が陶芸に財産をありったけつぎ込み、何度失敗しても何度も何度も挑戦する姿を見て
「もうやめてくれ」
と何度も訴えていました。
結局、主人公は最後に成功するんですが、当時、それを止めようとする夫は彼女にとってカセでしかなく、夫自身も彼女の成功を見届けた後、彼女の元を去ります。

まあ、それはそれでよい、というか、そういうことってあるよね、というか。
だって、もしも男性と女性が反対で、夫が成功するかしないかも分からない事業に全財産をつぎ込んで失敗ばかりしていたら、妻は子供を連れて出て行きますよねぇ。

生き方や考え方は人それぞれで違うので、私はそれが違っても共に生きていくことができるパートナーのあり方、というのはあるとは思うのですが、普通に考えると家族は一心同体なので、パートナーのどちらかの生き方に家族が引き擦られて犠牲になってしまうよりは、離別を選ぶのは正しい選択だと思うのです。

そこまではいいとして、最近ちょっとドラマ「スカーレット」の雲行きが怪しくて。

夫が出て行き、子供も成長して自立して家を出て行き、母親は亡くなって、一人で暮らしている主人公がさみしくてさみしくて、なのに普段はそれを口にできない、なんてエピソードが物語の軸になっています。
もしかすると夫と再び家族に、なんて展開になるのかもしれませんが、なるならなるでとっとと元サヤに戻ればいいのに…

私は、これまで何度も言われてきましたが
「結婚しなかったら年をとってからさみしいよ」
っていうのセリフは「呪い」だと思っています。

さみしいと感じる人もいるでしょうけど、正直、私の感覚としては、好きでもない人と結婚して我慢して家族を続けていくことの方がよっぽど「罰ゲーム」だと思うんですよね。
もう一度書きますが、私は「本当の孤独」を知りません。

だから今、一人でいることを後悔したことはないし、小さい頃からずっと誰にも傷つけられず、誰の干渉も受けないで暮らしたかったので、今の生活は自分の理想だと思っています。
「誰にも傷つけられず、誰の干渉も受けないで暮らしたい」
これって、自分だけかと思っていたら、昔、「はみだしっ子」のグレアムも同じようなこと言っていたなぁ。そのくせグレアムにはちゃんと孤独を分かち合う友達がいましたけどね。

というわけで…私は普段、今の生活をさみしいともなんとも思ったことがなくのほほんと生きていますが、NHKの朝ドラ「スカーレット」で呪いの言葉を聞くとどうも無関心では居られません。
別に、さみしいくせに意地を張っているわけではないんだけどな。

まあ、共に生きる誰かと出会いたかったなぁ、という、もうおそらく生涯叶わない夢はあるので、そのせいで愛するパートナーがいる暮らしというのを想像するとうらやましさでちょっともやっとするのかもね。

これを読んでいる人にはもう分かったと思いますが、「共に生きる誰か」と出会いたいと思っているにもかかわらず「傷つきたくない」なんて言っているのは「臆病」であり、「保身」でしかないです。
傷つくことを恐れていては人を愛することなんてできないし、愛されることも叶わない。分かっていますとも。
分かっているからこそ、若い頃には自分なりにチャレンジも失敗もしてきたもんな。
この先、まだチャレンジや失敗を繰り返すんだろうか。
それとも本当の孤独を知らないまま、生涯を閉じるのかしら。
未来はまだまだ分かりません。

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2019.11.24

「十二人の死にたい子どもたち」(ネタバレあり)

今回の記事は、沖方丁原作の小説、およびその映画化作品の感想です。

ネタバレありなので、ラストどうなるかを知りたくない方は読まないでくださいね。

 

(ここから感想)

この物語は「どうして死んではいけないのか」の答えです。

すごく分かりやすくてびっくりしました。

小説はちょっと冗長で、読んでいて誰が誰だか分からなくなってしまうのですが、小説の後、映画を見たら、大変感動しました。

映画はとてもテンポよく分かりやすく展開します。映像でそれぞれの登場人物の顔を見ながらストーリーを追う方が分かりやすい。

 

死ぬためにネットを通して集まった十二人の少年少女達にはそれぞれに死にたい理由がありました。

☆病気で苦しいから死ぬ(シンジロウ)

☆いじめられてつらいから死ぬ(ケンイチ)

☆親から否定されて死ぬ(セイゴ)

☆不治の病にかかってしまったから死ぬ(マイ)

☆自分の生きたいように生きられないから死ぬ(リョウコ)

☆好きだった人が死んでしまったから死ぬ(ミツエ)

☆生きていること、生まれたことが無価値だから死ぬ(アンリ)

☆人を殺してしまったから自分も死ぬ(ノブオ)

☆母親に薬漬けにされて苦しいから死ぬ(タカヒロ)

☆兄を植物状態にしてしまったから兄と一緒に死ぬ(ユキ)

☆父親に自分を認めて欲しいから死ぬ(メイコ)

☆死に憑りつかれてしまったから死ぬ(サトシ)

もし自分がそれぞれの立場の人間だったら、死にたいと考えてもおかしくない、と私は本を読んで、映画を見て、思いました。

 

でもね。

十二人の少年少女達は、それぞれに「死のうとしている他人」の理由を聞き、話し合っている内に気付いてしまうのです。

どんなに苦しくても、つらくても、逃れられないと思っていても、「生きる」ということは「可能性」に他ならず。

自分の力で、あるいは誰かの助けを借りることで変えることができるかもしれない、と。

死は何の解決にもならない、と。

たとえば「ユキ」です。自分が引き起こしてしまった事故で植物状態になってしまった大好きだった兄を見続けることが辛く、それが自分のせいだとも誰にも言えず、死んでしまおうとしていました。

でも、ここに集まったみんなは、その事故はユキのせいじゃないと言いました。全くの他人に過ぎない、自分が一緒に死ぬつもりだった兄を助けようとしてくれました。

その事実がユキの気持ちを変えるんです。

 

そしてシンジロウ。

ずっと病気で苦しみ続け、いつか衰弱して自分で何もできなくなってしまう。その前に自分の命を自分の意志で終わりにしたいと思っていた彼も、自分がマイと変わらないことに気付いてしまいます。

いつか死ぬまでは生き続けよう。この集いに集まった仲間と話す内に、彼の気持ちも変わりました。

 

一人一人がみんな、他人の死にたい理由を知るにつけ…そして「生まれてきたことが間違いだった」という最後のアンリの叫びを聞いて、自分がそうは考えていないことに気付いてしまう。

自分はどう生きたかったのか。それはもうできないのか。ここで死んでしまっていいのか。

・・・

・・・

いやぁ、この作品、心に刺さるなぁ。

映画の評価がネットで見るとそんなに高くないのがものすごく残念なんですが、この映画は巷によくある「殺人ゲーム」の話なんかじゃないんですよ。

ただ、結局それは、この本を読み、または映画を見て、最後に自分で「そうだったのか」と理解することで悟るしかなくて。まずは、読んで、見てもらわねば、この感動は理解してもらえない。

私も、正直、小説だけでは、あまり面白いとも思わなかったし、「ふーん」くらいの感想だったのですが、間を置かずに映画を見たらはまってしまいました。

見てよかったです。

私のいつか死ぬまで、生きることの可能性にかけて、がんばって生きていこう。

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2019.02.24

「翔んで埼玉」見てきました

 私は埼玉県生まれ、埼玉県育ち、埼玉県在住、埼玉県勤務。
 一時期、千葉や東京や仙台に住んでいたこともあるのですが、基本、埼玉ととても縁の深い人生を送っています。

「翔んで埼玉」は近所の床屋さんの待合に置いてあったのを読んだことがありました。
実写映画化と聴いて、第一印象は

「くだらない映画なんだろうなぁ。あまり見たくないなぁ」

と思ったのですが、意外に周辺で「見たい」という声も出ているので、今日は出かけたついでに浦和のパルコの映画館にいってきました。

 昼間、映画館に行ったら、なんと昼間の上映は満席。なんと。人気なのか、この映画。
 
 夜の9時40分からやる深夜割引なら空いてたので、そのチケットをとりました。
 空いてるのも当たり前、終わるのは夜12時近くになります。それこそ、埼玉県人じゃなきゃ見ないっての。

 見終わった感想としては…
 
 いや、意外にまじめな映画だったなぁ。東京テイスティングとかも面白かったし。登場人物に皆、好感が持てて楽しかったです。まあ、原作を知ってるから、どれだけディスられても耐性がついてはいたんですけど。


 私は、今まで、自分の生まれたこの県を嫌いだと思ったことはありません。
 東京に憧れとかも全然ない。
 ただし、そんなに郷土愛みたいなものもないです。

 埼玉は普通なんだよな。
 まるで、子供が自分の生まれた家が自分の普通となるように。

 すごく愛しているわけではない。
 でも嫌いではない。
 親を取り換えることができないように、ここに生まれてしまったからには嫌いでいるよりは好きでいた方がいいしね。

 生まれたのは「鴻巣市」というところで、当時は申し訳ないけど、めっちゃ田舎でした。
 小学校の裏が豚小屋だったので、ハエがいっぱいいたし、周り中が田んぼで夜はカエルの合唱。夜になると赤城下しの強風で、雨戸がガタガタいってました。
 学校へ向かう道路には、車にひかれてつぶれたカエルの死骸。
 当時はまだ家で蚕を飼ってるところもあって、子供の頃は蚕も、モンシロチョウの幼虫も手で触れたんだよなぁ。
 
 映画の冒頭、田んぼだらけの中を車が走るシーンがあるんですが、まさに埼玉ってあんな感じです。
 まぁ、川口や大宮はいっぱいビルもありますけどね。

 生まれたのが鴻巣だったせいもあって、あまり住みやすいという印象もありません。
 当時は駅も市に一個しかなかったしねぇ。
 
 千葉県の松戸市に引っ越した時、なんて都会で便利なところなんだと思ったのを思い出します。
 千葉に引っ越すといったら、小学校の友人はみんな、
「海、近い?」
 って言ってたっけ(笑)

 紆余曲折を経て、結局、今はまた埼玉県に住んでいるわけですが、東日本大震災の後、東北復興のために2年ほど仙台に住んでいました。
 正直いって、どこが住みやすいって仙台ほど素晴らしい場所はないな。大宮も浦和も完全に負けてます。

 埼玉って東京に近すぎるんだと思うんですよ。
 東京にいけば何でもあるので、大宮や浦和にわざわざ東京と同じレベルのものを作る意味がない。それは仕方のないことです。

 仙台はちがう。
 仙台で完結しなくちゃいけないから、仙台で必要なものは全て仙台にあります。
 それでいて温泉も近いし、スキー場も近いし、海もあるし、空港も港もあります。街中には緑がいっぱいで、おしゃれなカフェも、おいしい牛タンの店もたくさんあり、道路は整備されて歩きやすく、かつ地下鉄も新しくできたし。

 仙台、好きだなー。観光地というよりは、住むにいい町、仙台。私は大好きです。

 仙台と比べるなら、埼玉県ならさいたま市になるんでしょうが、やっぱ仙台には負けるわ。
 いや、東北一の都市、仙台とは比べてはいけないのでしょうが、さいたま市はやっぱり東京頼みって気がします。仙台にあってさいたま市にないものは皆、東京にあるわけで、東京にはもちろん仙台にないものもたくさんあるんですが、やっぱり在住の人間にとっては、近い場所にコンパクトになんでもそろってる方がいいでしょ。
 だからといって、私は東京には住みたくないです。
 混んでるし、家賃も高いし、災害も怖いし、たまに遊びにいくくらいでいい。
 
 なので、映画を見て、私は「埼玉化」にはあまり賛成できないなぁと思いましたw

 映画でも言ってましたよね。夜空にはいろいろな星があって、全て美しい。

 埼玉には埼玉らしさがあって、まあ、それはそれでいいことで、在住の身としては上田知事には頑張っていただきたいところなんですが、埼玉らしさは埼玉だけにしといてもらって、本当に住みたいのは、私はやっぱり仙台だなぁ~と。

 仙台だけでなく、地方の主要都市ってみんなコンパクトでいいですよ。
 札幌も、福岡も、名古屋も、高松も、みんな私は好き。住みやすくていいんじゃないかな。

 さいたまは…うん、やっぱもうちょっとがんばれ。

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2018.07.12

「半分、青い。」がもやもやする理由

 以前にも、

「半分、青い。」第70話を見て

 という記事を書きました。

 その後、ドラマの中の主人公、鈴愛(すずめ)はマンガ家でいることを辞めてしまいました。
 辞めて自由になって、引っ越しをするときはとても晴れ晴れした様子でしたが、その後の鈴愛はあまり幸せそうではありません。

 マンガ家を辞めて、今、働いているところが100円ショップの店員で、時給も安いから…なのかな?
そうではないように私には思えます。

 鈴愛は「今の自分には何もない」と言っていました。
 マンガ家になれず何者にもなれなかった自分が嫌なのかもしれません。

 「半分、青い。」を見ていていつももやもやするのは、今の時代って、どんな生き方でもありで、自分が全て自由に選択できることが幸せなはずなのに、鈴愛はそうやって自分で選択してやりたいことをしているのに文句ばかりだからです。

 田舎を飛び出して、大好きなマンガ家の先生の弟子になり、本も出した。それでもマンガ家を辞めたのは、自分の才能に限界を感じたからであり、それはそれでありでしょう。全部自分の選択で自分のせいなのに、いつも人のせいにしている感じなんですよね。または、全部、片耳が聴こえないせい? まさか。
 
 今、鈴愛は100円ショップで知り合った男性と恋仲になり、結婚するかも、というところにいるんですが、もしそれで鈴愛が幸せになるなら、それでよいと私は思っていました。

 ところがどうもそうではないようです。
 その男性はどうも「ダメンズ」らしいです。
 
 私はダメンズでもいいと思うんですけどねぇ。
 だって、見た目もかっこよく、性格もよく、お金もあって、一流企業に勤めている男性なんて今の世の中、ほんの一握りでしょう。
 くだんの男性が、まったく自分で稼げず、いつもお金がなく、ちょっと稼いでも映画製作という夢のために全部使ってしまうような「ダメンズ」だったとしても、そういうダメンズと一緒に苦労して未来を作り上げるなら鈴愛を応援するつもりだったんですが・・・

 どうも公式のあらすじを見ると別れるらしい・・・
 そして、幼馴染の律くんとよりを戻すらしい・・・
 ホント、がっかりしてしまいます。

 世の中に100%満足な人生なんてないと私は思います。
 でも、かなわなかった望みや果たせなかった夢を抱えながら、私たちはまた次の一歩を踏み出す。
 自分が歩んできた人生は、子供の頃思い描いた「夢」とはかなり違うかもしれないけれど、それでも自分の選択を自分で引き受けて後悔せずに歩いていく。

 鈴愛にもそうなってほしい。
 夢はかなわなかったかもしれないけれど、その先に続く人生を自分で引き受けてちゃんと自分の人生を歩いてほしい。

 この結婚がもし失敗に終わるのだとしても、それをもう人のせいにはしないでほしい。律くんがいるからって、またマンガ家を目指していた日々のように「なかったこと」にはしないでほしい。

 現実の私たちは、皆そうして自分のしたことを自分で引き受けて生きています。そうでない人もいるのかもしれないけど、少なくとも「私」は。
 というか、人のせいにするほどつまらないことはないし、実際にそれが自分ではない「誰か」のシナリオどおりの選択をした結果だとしたらそれって最悪です。

 「半分、青い。」は今年の9月いっぱいで最終回を迎えると思うので、あと2か月半あります。鈴愛が、片耳の難聴もそれはそれでよいこともあるんだと思っていた子供の頃のように、どんな人生だろうと自分の人生を前向きに明るく生きていってくれるようになってくれないかな。

 正直、もう律は出てこなくていいのですが、そうもいかないか(汗)
 佐藤健さんは映画の「いぬやしき」でファンになった役者さんなので、他の作品で応援したいと思います。

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2018.06.21

「半分、青い。」第70話を見て

私は、私を産んだ母からも
「整形手術したらいいのに」
と言われたことがあります…(汗)
子供の頃は男の子からブスと言われることはしょっちゅうでした。

客観的に見ても、鼻が低く、凹凸の少ない顔面をしており(下手するとほおの丸みに鼻が隠れるくらい)
まぶたは厚ぼったく、そのまぶたがかぶさるせいで目は一文字で細く、
まあ、つまりは顔に関しては完全に残念な部類に入ります。

しかし…
私が子供の頃から私がいろいろなものから受け取ってきたメッセージは、
「人間の価値は容姿で決まるものでなく、大事なのは見た目よりも中身」
というものでした。

私は本好きな子供で、家にあった世界名作全集を愛読していて、こう書けば分かる方にはお分かりかと思いますが「世界名作全集」というようなものにはだいたいそう書いてあるんです。

たとえばシンデレラだってそうでしょう。
着飾ることが大好きで高慢なシンデレラの義理姉たちは選ばれず、汚い恰好で姉たちにこき使われていたシンデレラが王子様に選ばれる。

それ以外のどんな話だって大体、見た目が醜い相手に、醜いからといってぞんざいな対応をした者には報いがある。
醜くて汚い相手にも分け隔てなく、優しくしたものには幸運が舞い降りる。
昔話の定番です。

今から考えると、私の顔が残念だったからそういう物語が頭の中に刷り込まれたという可能性もあるわけですが、世間一般的に、贅沢をしたり、着飾ったりすることは悪であり、質素であることや、貧しくても一生懸命働くことが善である、そんな価値観だった時代に私は子供時代を過ごしました。
昭和50年代くらいの話。

もちろん、個人的、地域的な偏りはあるのでしょうが、当時の私の周辺では、学生が化粧をしたり、パーマをかけたり、髪を染めたりするのは言語道断でした。学生なんて野暮ったいのがデフォルトでした。

私はそのまま大人になり、つまり、化粧も知らず、ブランドの服やバックを買うことにも興味がないままでした。
着飾ることは悪で、人間は中身が大事だとずっと思っていました。
時代は移り、バブルと呼ばれる時代になってもね。

20代になった私は就職し、都内の職場に通勤するようになっていて、肩パットの入ったスーツを着たり(そういうのしか売ってなかった)髪をソバージュにしてみたりはしました。
化粧水を付けたり、口紅をさしたり、ファンデーションを塗るようにはなりました。
でもそれが普通だったからそうしていただけだったなぁ。

基本、私は男性と女性は同じだと思っていたし、どっちがえらいとも思っていませんでした。
ただ、女性は大人になったら自然と結婚するものだと思っていて、結婚することに「努力」が必要だとも考えていなかったし、ましてや男性が求める女性になるために、かわいくしたり、きれいにしたりすることを必要だと思ったこともなかったです。
結婚、つまり男性に選ばれるために男に媚びたりするのはいけないことだと思っていたんですよ。

自分のことをかわいいともきれいだとも思ったことはありませんでしたが、だからこそ勉強や仕事はがんばろうと思いました。大人が求めるいい子であろうと努力しました。
でも「いい子」であることを仕事で評価されるのはいいけど、「男」に評価されるのは嫌だと本能的に思いました。
だってほんとは「いい子」ではなく、いい子を演じているだけなので。
仕事はいい子でがんばれるけど、結婚相手にそれを評価されてずっと家でもいい子で居続けることだけは絶対に嫌だと思ったんですよね。

きれいでも、かわいくもなく、「いい子」でいることを評価されると嫌がる。
それじゃ売れるわけないですよねぇ。

いえ、ちょっと話がそれました。
今朝のNHKの「半分、青い。」を見ていて思ったのです。

>このきれいで、かわいい顔は何のためについているのか。
>せっかくかわいいのに、ひたすらマンガだけ書いてていいのか。

そんなことをユーコさんが言うのを聞いてびっくりしてしまいました。
きれいでかわいいことよりも、時に苦しくてもマンガを書くという創作活動に夢中になり、それを仕事にできることの方がすばらしいに決まっていると私は思っていたので。

きれいだとかかわいいだとかっていう「容姿の良さ」が一生懸命に自分の好きな仕事をすることよりも上位に来る価値観ってどこの世界のものなのか。
「半分、青い。」というドラマは現代よりもちょっと前、私の同世代よりもちょっと下の世代を書いているのですが、少なくとも私は知りません。

というか・・・世の中の女性が全てアイドルや女優のようにきれいだったり、かわいかったりするわけじゃないでしょう。
それでも生きていかなくちゃいけないのですよ、この世界で。
なのに、それを全否定どうするの。なんてドラマだよ。

と、私は思ったのです。いやぁ、びっくりした。

どちらかというと、これって現代の価値観ですよね。
非婚化が進んで、少子化になったからって、
・若い(きれいでかわいい)うちから婚活しろ
・早く結婚して早く子供産め
・相手の男性に関しては高すぎる理想を持つんじゃない
ってねぇ。

思うに、今の時代、全ての男女が結婚するのが当たり前じゃなくなったんだから、条件のいい人しか結婚できないのは当然なんですよ。
条件がいいってのはこれです。
・女は、かわいくてきれい
・男は、金持ちでかっこよい
そういう男女だけが結婚ってできる。そうじゃない男女は結婚できない。

でも「結婚して子供を持つ」ことだけが正しいわけじゃなく、他の生き方も認められるようになったからこそ、今という時代があるわけで、そういう世の中になったのはよいことだったはずなのよね。

不細工でそのコンプレックスの裏返しが故の「いい子」で、その自己防衛のためにコミュニケーション不全となり、そのために適齢期になっても男性とまともにつきあえず、結果、今に至る私にしてみれば、無論、結婚できなかったのは顔のせいだけではないことは重々承知しておりますけれども、だからといって、今、この時代の若い女性たちが、若い内から婚活することを強いられ、相手の男性について四の五の言うと怒られ、若いうちはとりあえずやりたい仕事に打ち込むという生き方も否定され、かわいかったりきれいだったりするうちに結婚することだけが善とされるような世の中(まったくいつの時代だよ)にはなってほしくないよなぁと思ってしまうわけです。

もちろん、結婚して子供を産んだ方がいいことは分かってますよ。日本の人口のためにはね。
だけど、過去、それだけが善とされる世界で、どれだけ苦しんできた女性がいることか。
ろくに稼げもしない男性と結婚して苦労したり、勉強や仕事をがんばりたくても否定されたり、子供を産めないことで非難されたり。
やっとそこから解放されて、自由に生きられる時代になったというのに、まだドラマの中でこんなこと言われるのかー。
ちょっとね。今朝の「半分、青い。」にはまいりました。

少なくとも私が生まれてから今まで、あんなことをいう女性なんて私は知りません。
私が不細工だったからかなぁ。

だとしても、この先、少子化のせいでどんなに結婚しない女性へのプレッシャーが強くなろうとも、きれいでかわいいだけが女性としての価値だという時代には、もう二度と戻りませんように。

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2018.01.10

「ベッキーにタイキック」問題について

私は件の番組を見ていないのですが…

たとえば子供達が「ガキの使いごっこ」と称して、誰かがボケてそれを笑ったらキックしていいというゲームをしていたとして、一人の子に他の子がキックを浴びせてたりしたら大人はそれを止めるのかしら。

止めるんだろうなぁ。

そういうゲームって、いつの間にか、特定の子がいつもキックされる側になり、キックする方は笑っても「今のセーフだもんね」とか言いながら、弱い子だけが「今、笑っただろ」とカウントされて一方的にキックを受ける側になるのが常。目に見えるようです…。

たとえば「男気じゃんけんごっこ」と称して、特定の子が、無理矢理、他の子におごらされて「ゴチになります!」なんて言われてたとしたらやっぱり大人は止めるんだろうか。

止めるんだろうなぁ。

この場合もおごらされる子は決まって来ちゃうだろうし。

これからは、こうしたバラエティ番組は消えていくのかもしれないな。
それがよいのか悪いのかは何とも言えません。
それで学校のいじめがなくなるかというとまた別の問題でしょうし。

クイズ番組と「あなたの余命○年」みたいな健康診断番組ばかりになるわけだわ。

個人的には、「しくじり先生」の復活を希望します。

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