書籍・雑誌

2020.08.08

「悪い本」

「怪談えほん」という絵本のシリーズがあって、すごく好きではまっています。

 文は、世に知られた有名な小説家や俳優などいろいろな人が書いていて、それに、時にぴったりな、時に文章以上に怖さを引き立てる、時にまったく文章と違うもう一つの世界を描いたような絵がついて「絵本」になっています。

 図書館で借りて読んでいるのですが、読んで大好きで手元に置いておきたくなって買ってしまった本もあります。

 その話はいずれするとして、この記事では宮部みゆきさん作の「悪い本」を引用させていただきたいと思います。絵本なので、文章はその半分にしかすぎません。もしこの文章を読んで読みたくなったら皆さんもぜひ絵本を手に取って見てください。

(引用開始)

「悪い本」

はじめまして

わたしは 悪い本です

 

この よのなかの

悪いことを

この よのなかで

いちばんよく しっています

 

あなたは いま

悪いことが かいていある本なんか

ほしくないと おもったでしょう

でも、それはまちがいです

 

いつか あなたは わたしが ほしくなる

わたしと なかよくなりたくなる

 

いつか どこかで

あなたは だれかを きらいになります

だれがが いなくなればいいと おもいます

 

あなたは なにかを きらいになります

なにかが なくなればいいと おもいます

かならず

かならず

 

そのとき あなたは もういちど

わたしの ページを めくるでしょう

 

そしたら わたしは

あなたに おしえてあげる

この よのなかで いちばん 悪いことを

 

いちばん 悪いことを おぼえたら

あなたは いちばん 悪くなる

 

いちばん 悪くなったなら

なんでも できるようになる

 

きらいな だれかを けすことも

きらいな なにかを こわすことも

じょうずに

じょうずに

 

いつか あなたは わたしが ほしくなる

そのとき また あいましょう

わたしは まっていてあげる

ずうっと

ずうっと

 

あなたが わたしを わすれても

わたしは あなたを わすれない

(引用終わり)

・・・いかがでしょうか。

私はこの本に出会ってしまって、この先の人生で、何度もこの本のフレーズを思い返すような気がしました。

この世の中で何が一番怖いかって、それは自分の中で、普段は隠してある「悪意」なのだろうと私は思います。

「わたしは あなたを わすれない」

私自身が私の中の悪意を忘れても、ずっと覚えている存在が世界にあるような。そう、私は本当は優しくも思いやり深くもなくて…

これ以上はやめておきましょう。ぜひ、皆様も「悪い本」読んでみてください。

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2019.11.24

「十二人の死にたい子どもたち」(ネタバレあり)

今回の記事は、沖方丁原作の小説、およびその映画化作品の感想です。

ネタバレありなので、ラストどうなるかを知りたくない方は読まないでくださいね。

 

(ここから感想)

この物語は「どうして死んではいけないのか」の答えです。

すごく分かりやすくてびっくりしました。

小説はちょっと冗長で、読んでいて誰が誰だか分からなくなってしまうのですが、小説の後、映画を見たら、大変感動しました。

映画はとてもテンポよく分かりやすく展開します。映像でそれぞれの登場人物の顔を見ながらストーリーを追う方が分かりやすい。

 

死ぬためにネットを通して集まった十二人の少年少女達にはそれぞれに死にたい理由がありました。

☆病気で苦しいから死ぬ(シンジロウ)

☆いじめられてつらいから死ぬ(ケンイチ)

☆親から否定されて死ぬ(セイゴ)

☆不治の病にかかってしまったから死ぬ(マイ)

☆自分の生きたいように生きられないから死ぬ(リョウコ)

☆好きだった人が死んでしまったから死ぬ(ミツエ)

☆生きていること、生まれたことが無価値だから死ぬ(アンリ)

☆人を殺してしまったから自分も死ぬ(ノブオ)

☆母親に薬漬けにされて苦しいから死ぬ(タカヒロ)

☆兄を植物状態にしてしまったから兄と一緒に死ぬ(ユキ)

☆父親に自分を認めて欲しいから死ぬ(メイコ)

☆死に憑りつかれてしまったから死ぬ(サトシ)

もし自分がそれぞれの立場の人間だったら、死にたいと考えてもおかしくない、と私は本を読んで、映画を見て、思いました。

 

でもね。

十二人の少年少女達は、それぞれに「死のうとしている他人」の理由を聞き、話し合っている内に気付いてしまうのです。

どんなに苦しくても、つらくても、逃れられないと思っていても、「生きる」ということは「可能性」に他ならず。

自分の力で、あるいは誰かの助けを借りることで変えることができるかもしれない、と。

死は何の解決にもならない、と。

たとえば「ユキ」です。自分が引き起こしてしまった事故で植物状態になってしまった大好きだった兄を見続けることが辛く、それが自分のせいだとも誰にも言えず、死んでしまおうとしていました。

でも、ここに集まったみんなは、その事故はユキのせいじゃないと言いました。全くの他人に過ぎない、自分が一緒に死ぬつもりだった兄を助けようとしてくれました。

その事実がユキの気持ちを変えるんです。

 

そしてシンジロウ。

ずっと病気で苦しみ続け、いつか衰弱して自分で何もできなくなってしまう。その前に自分の命を自分の意志で終わりにしたいと思っていた彼も、自分がマイと変わらないことに気付いてしまいます。

いつか死ぬまでは生き続けよう。この集いに集まった仲間と話す内に、彼の気持ちも変わりました。

 

一人一人がみんな、他人の死にたい理由を知るにつけ…そして「生まれてきたことが間違いだった」という最後のアンリの叫びを聞いて、自分がそうは考えていないことに気付いてしまう。

自分はどう生きたかったのか。それはもうできないのか。ここで死んでしまっていいのか。

・・・

・・・

いやぁ、この作品、心に刺さるなぁ。

映画の評価がネットで見るとそんなに高くないのがものすごく残念なんですが、この映画は巷によくある「殺人ゲーム」の話なんかじゃないんですよ。

ただ、結局それは、この本を読み、または映画を見て、最後に自分で「そうだったのか」と理解することで悟るしかなくて。まずは、読んで、見てもらわねば、この感動は理解してもらえない。

私も、正直、小説だけでは、あまり面白いとも思わなかったし、「ふーん」くらいの感想だったのですが、間を置かずに映画を見たらはまってしまいました。

見てよかったです。

私のいつか死ぬまで、生きることの可能性にかけて、がんばって生きていこう。

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2017.04.16

人間の限界~「ふわふわの泉」野尻抱介~

 「ふわふわの泉」という本を読みました。

 タイトルは、まんま、ふわふわしてますが、中身はけっこうハードなSFです。

 2001年に刊行された小説で、後書きにあるように9.11も3.11もなかった頃に書かれています。が、内容は今よりも未来。だって2017年現在、まだ人類は人以外の知的生命体とのファーストインパクトを済ませていないですから。

 小説の後半、人類は、未知の知性体と、先方が作り出したコミュニケーション用の模造体(シュミラクラ)を介していろいろな会話をします。

 彼らは肉体を持たない、情報化されたデータとして存在し、複製によって自己増殖できる存在です。
 …すごい設定だけど、なんとなくそういう存在って、今の時代だとイメージはできます。

 小説の中で、人類もまた宇宙に出ようとチャレンジしているんですが、未知の知性体は、有機体である人類には無理、と言い切ります。

 肉体にはいろいろ限界があって、これを宇宙に持っていくのは難しい。

 じゃあ、人間も「情報化」した存在になれば宇宙へいける?
 でもそれもその生命体(小説ではスターフォッグと呼ばれています。)は無理と言います。なぜかというと。

(引用開始)

 みなさんの自意識には中枢がありません。人間の自意識は、自己と周囲の環境とのかかわりを類推することで生まれる一種の錯覚です。

(引用終わり)

 他にもこんなふうに彼らは人類を評します。

(引用開始)

 みなさんのような有機体は適応的な存在であって、環境の一要素でしかありません。

 人間の視覚は太陽スペクトルの最も強い部分しか知覚できない。
 聴覚は空気がないと機能しない。
 生存できる温度条件がきわめて狭い。
 食料とは別に酸素呼吸を必要とする。
 脳は三次元空間しか理解できない。
 
 みなさんは食と性と他者の支配にほとんどの関心を向けています。すべての欲求は遺伝子をより広く継承させるためにデザインされていますが、それは個体の意志とは無関係に発生したシステムであって、遺伝子の継承自体にはなんの価値もありません、この段階の生命が獲得する知性に、おのずから限界があることはおわかりでしょう。

(引用おわり)

 うーむ。うすうす分かっていたけどそこまではっきり言われるとは(苦笑)。

 人も一応「知性体」ではあるんでしょうけど、まだまだ、地球環境に縛られていて、生命としての限界を超えることはできない。

 まあそれが「人」って生き物ではあるんですが・・・

 こうして少しだけ、宇宙や意識や次元というものを認識できるようになってきただけでもすごいのかな。

 作者の野尻抱介さんは後書きでこう書いています。

(引用開始)

 人類は太陽が黄色矮星のままでいる限り、滅亡することはなさそうだ。
 苦悩に満ちた現代は過渡期にすぎない。
 持続可能な社会の構築を心がけ、テクノロジーの発展をやめない限り、いずれ全人類は不老不死になり、永遠に遊んで暮らせるようになる。
 そのことを悟ったとき、人はどんな反応を見せるだろう?

 本書の終わりでなぜ三人が笑い転げているのか、おわかりだろうか?

(引用終わり)

 うん。
 そう思いたい。
 
 トランプさんがかなりぶっとんでて、北朝鮮がますます危険で、シリアで化学兵器が使われ、日本では原発が津波でぶち壊れ、出生率が低下して2050年に人口が半減するとしても・・・

 「持続可能な社会の構築を心がけ、テクノロジーの発展をやめない限り」

 我々は地球に存在し続け、宇宙に出る「いつか」に向けて歩みを止めないだろうと。

 子供の頃、手塚治虫の「火の鳥」や萩尾望都の「ポーの一族」などを読んで、不死の存在に憧れていました。
 こういう小説を読むと今も思っちゃうな。

 ずっとずっと生きて、人類の行く末を見届けたい。
 価値観や考え方は、どんどん変わっていって今とは全く違う世界になっているのだろうけど・・・

 肉体には限界があるとして、人の意識が情報化して肉体のくびきを離れ、永遠を手に入れるまで、直観的にはあともうちょっとの気がするのよね。

 どうも私の寿命的には、「私」が消滅するまでには間に合いそうにないのがとても残念だけど、ブログのこのデータはもしかすると残るかも!?
 それが私の今の一番の夢なんですよ^^

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2016.08.18

約束の地で

「約束の地で」(作:馳星周)という本を読みました。
 読んでものすごく衝撃を受けました。

 この本は5つの短編で構成される短編集ですが、この記事では、一番最初の短編、
「ちりちりと……」
 について書きたいと思います。

 簡単にあらすじを書きますと。(以下、ネタバレ)

 主人公は事業に失敗して仕事も金も失い、故郷には死ぬつもりで帰ってきます。
 生きることに絶望し、北海道のとある土地に戻った主人公は、ふと立ち寄った酒場で昔の知り合いとたまたま出会い、そこで、何年も音信不通にしていた自分の父親が妻と娘を火事で無くしたものの、多額の保険金を手にしたことを知ります。
 その時、主人公の頭からは死ぬことなんてふっとびます。

 ・その金には俺にも権利があるはず
 ・親父は金が手に入ったことを自分に何も連絡してこなかった。そんなのおかしい。
 ・その金があればまた事業を興せる。俺は復活できる。

 小説は主人公の一人称で進みますから、読んでいる私もこの時点では「まあそう思うのは当然かな」と思います。

 問題は主人公と父親の折り合いが非常に悪いこと。

 主人公にとっての母と妹が生きていた頃から、父親は横暴で無愛想で情けの欠片もない、嫌なやつだった、と主人公は小説の中で語ります。

 さすがに親子だから、頭を下げれば、父はお金を貸してくれるかもしれない。
 でも、頭は下げたくない。

 そこで、主人公は、父親が一人で住んでいるという山奥の小屋に、父親が留守中に忍び込み、金をネコババすることを決意。家の中を漁りますが、金はなく、見つけた通帳にも残高はほとんどなく。

 期待した後だけに再び絶望しかけた主人公は、ふと家の裏から続く小道を発見します。
 そこをたどっていくと、父が自分で作ったと思われる、母と妹のお墓がありました。

 主人公はここに金があると確信し、墓石を押し倒して、納骨室を確認する。果たせるかな、そこに金を積めた一斗缶が。

 大喜びで一斗缶を取り出したところに、父親が帰ってきます。

 妻と娘を火事でなくし、その後、住んでいた家で泥棒にも入られ、世間に嫌気がさして、山に引きこもって一人暮らしをしていた父親の心情は細かくは書かれていませんが、なんとなく私には想像できました。

 もう誰も人を信用できなくなっていたのでしょうね。

 きれいに手入れをし守っていた墓を荒らされ、金と盗もうとしている人物を見て、父親は持っていた猟銃でその人物を撃ちます。

 いきなり父親に撃たれた主人公は、自分が撃たれたことが信じられない。
 自分が息子であることを訴えようとしますが、撃たれたショックで言葉も出ない。

 近寄ってきた父親は、自分が撃った人物が息子だと認めた後も。

 ・・・ここ、どうなんですかねぇ。ホントにこんなことになるんだろうか。

 故郷から出て、長い間、音沙汰もなく、何をやっているのかも分からなかった息子。父親は
「どうせろくでもないことしかしてない」
 と決めつけます。
 ちゃんと顔を合わせ、金を貸して欲しいといえば貸してやったし、どうせ自分には必要ないのだからくれてやったってよかったのに。いない間に泥棒に入り、果ては母と妹の墓を暴き、金を盗む。そんな人間はどうせろくでもないのだからここで死ね、と父は言い放ちます。ここにお前の墓も作ってやるから、と。

 撃たれて薄れる意識の中で、主人公の目から見て、父がどこかおかしくなっているのを見て取る様子が小説には書かれています。
 そして、父は死にかけた息子をその場に放置し、主人公の意識が薄れていく・・・というシーンでこの短編は終わります。

 主人公の視点から物語が語られるので、読んでいる方も、主人公に自然と感情移入しますから、あまり読んでいる間は、主人公をろくでなしだとは感じません。
 事業に失敗したことにも、何もかもなくし、絶望して死のうと思っている状況にも同情さえします。

 でも、最後のシーンで父は情け容赦もなく、その息子を撃ち殺す。

 金に目がくらみ、愛情を受けた思い出もない父親に頭を下げることもできず、ついつい悪いとは思いながら母と妹の眠る墓を荒らしてしまう。
 この辺の主人公の行動はすごくリアルです。
 
 そして父親もねぇ。
 普通、自分が撃ったのが息子だと知ったら少しは動揺もあるでしょうに。
 そこで全く撃ったことに後悔もない父親が衝撃です。主人公である息子に感情移入しているから余計に。
 
 父が息子を撃ち殺し、息子は失意のまま死ぬ。
 
 なんて話なんだ、と読み終わって言葉も出ませんでした。

 ・・・私は別に裕福な家庭に育ったわけでもないし、今も年収何千万ももらうような仕事についているわけでもありませんが、今までの人生でお金に困ったことがありません。

 「金に困ったことがない」というと欲しいものはなんでも買えたってことのようですが、そもそも、私はあまり何かを欲しいと思うことがないのです。

 一人っ子だったので、いろいろ買ってはもらってました。それを兄弟を奪い合う必要はない。
 でも、子供の頃、たまたま同級生の友達の家に遊びにいったら、その子の家にはおもちゃがいっぱいあってびっくりした記憶があります。
 私は数としてはそんなに持ってなくて、買ってもらった人形やぬいぐるみをずっと大事に遊んでいた気がします。
 自分が持っているものはみんな宝物で、後生大事にとっておく感じ。
 新しいものはそんなに欲しくない。
 今あるもので満足。
 
 小さかった頃から、そして今もそうなのです。
 あるもので十分。新しいものはいらない。

 そうは言っても、昨今はスマフォもパソコンもどんどん新しくしていかないと、使いにくくなったりしますので、そこは致し方なく、買い替えたりはしますが・・・
 
 でも服は今もそうかな。
 よっぽど破れて着られなくなったら新しいのを買いますが、そうでない限りは別に新しいものにこだわりはありません。10年前の服とかも平気で着てますよ。

 そういう性格だからでしょう。金に困ったことはない。
 給料は自然と余り、余った分は貯金になる。
 金があるからといって、それを使いたいと思わない。
 休みがあれば旅行にはいきますが、それくらいかな・・・

 そして何よりも重要なポイント。
 家族がいないので、子供にかかる養育費がない。
 もちろん借金癖のある亭主もいない。
 母はなくなりましたが、父は健在で、お正月はお年玉をあげたり、夏はいっしょに旅行に行ったりします。
 でも基本は父も年金だけで生活できているようですし、仕送りはしていません。

 私は事業を興したりも、借金したりもしません。
 ある分で十分。
 だから「金がない」ことでここまで追い込まれる主人公の気持ちというのは想像を超えます。

 どうしてこうなってしまうのか。
 きっと、私にとってこの小説は想像を超えた世界で、それを目の当たりにした衝撃だったのかもしれません。
 
 この本に収められている他の短編も読んでみてつくづく思うのですが、幸せと不幸せのラインってどこにあるのでしょうね。
 
 私自身を振り返ってみたとき、客観的に見てそんなに幸せって感じでもないのですが、主観的には、仕事もあって、金には困らず、健康で、何よりも一人で、自由。
 とても幸せなのですが、そうでない人と私の違いは何なのだろう。

 そんなに違いはないはずなのになぁ・・・
 

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2016.08.09

「言ってはいけない 残酷すぎる真実」

「言ってはいけない 残酷すぎる真実」という本があります。


「美人とブスの美貌格差は3600万」・・・
 最初に私がこの本を手にしたきっかけはこのフレーズでした。

 なんとなく普通に日々、過ごしていて、見た目がいいと得だよなぁと思うことは確かにあるのですけど、それを「言ってはいけない残酷すぎる真実」なんてタイトルの本で、ブスは3600万も損なんだよ、と言われると、私としては反発したくなります。

 以下は自分のことなんですが、そもそも外見に自信が持てない女性は、男性から選ばれず結婚できないかもしれませんから、なんとかして自立して生きていこうとします。私の場合、幸いにして知能に関しては、小学校の頃のIQテストの結果がめちゃめちゃ低く、どうなることか危ぶまれた過去があるにしては、普通に学校に行き、中学、高校、大学と進学することもできました。結果、今日現在、自立して生きていくことはできています。

 これは多分、私がブスだからなのですよ。
 もし美人だったら、別にここまでがんばる必要ない。
 結婚して旦那が養ってくれるなら、自分で稼ぐ必要もないし。

 もちろん、モデルや女優、アナウンサー、もしくはホステスなど、美貌がメリットとなる職業はありますけど、そんな職業、最初からなろうと思いません。

 それに美貌がメリットとなる職業は「美貌+若さ」が価値ですから、年をとれば、必然的に仕事でも不利になります。
 本では、美人の弁護士は年をとっても有利だ、と書いてありますが、そもそも美人だったら弁護士なんかしなくたっていいでしょ。あほらし。

 生涯賃金ということで言えば、日本の女性は、美人なら高収入で条件のいい男性と結婚し、自分は働かないで暮らすのが最高のステータスですから、格差3600万と言われても、ピンときません。

 美人なら自分で働く必要がない。
 なら稼ぎはブスの方が多いんじゃないかな。

 という認識があって、
「なんてくだらない本なんだ。適当に都合のいいデータだけを取り上げて、強引な結論を出してるだけでしょ」
 と頭に来て、件の本を手にとりました。

 案の定、「美貌格差」の章の3600万は単純計算ですし、それで美人が得と言われてもねえ、という内容だったのですが、ディスるにはちゃんと読まねばということで本を買って、ちゃんと読んでみました。すると。

…意外とこの本、いいことが書いてありました。
 いいこと、というか、私は不愉快とは感じず、この内容を「おもしろい」と思いました。

 結局、こういうことなのです。

 人間の能力には差がある。
 それは遺伝の影響によるものも多く、つまり本人の努力とかそういうことでどうにかなるものでもない。
 なのに、人は生まれた時は平等で、それを環境次第でよくも悪くもできるという「神話」でなんと多くの資源が無駄に浪費されていることか。

 私は、本書の趣旨に深く賛同します。

 つまり人間って一人一人みんな違うんですよ。
 幸せの定義が一人一人みんな違うように。

 美醜も知能も運動能力も遺伝の要素が強くある。
 本人の力ではどうにもならない。
 だとしたら。

 私が今までやってきたことは正しかった。
 美しさで勝負したら損するのであれば、他で自分の取り柄を伸ばしていけばいい。その中で自分だけの幸せを手に入れればいい。
 
 美人には美人の、ブスにはブスの生き方があります。
 生まれながらの歴然とした違いはあるわけで、そこは否定しません。
 でも、その結果、幸せになれるか不幸になるかは選び取ることができる。

 本は女性と男性の生まれながらの違いにも言及しています。
 これはまさに自明の理でして、男性と同じように働くことが女性の幸せとは限らない。そんなこと望んでいない女性はたくさんいます。
 
 そういう「違い」を前提とせずに議論することの愚かさをこの本は教えてくれます。

 読書メーターというサイトで、この本の感想を見ていると、「不愉快」とか「危険」と感じる人も確かにいるようで。
 まあ確かに
「犯罪者の子供は犯罪者になる確率が高い」
 なんて言われるとどきっとしますよね。

 でもそうであってもその事実をあるがままに受け入れ、犯罪を犯さないように、起こり得るべき未来を変えることは私達にはできる。

 そういう意味で、私はある種、救いの書とも取れるのですが。
 あまりこういう感想を持つ人はいないのかな…

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2016.05.14

「嫌われる勇気」

自己啓発本は嫌いなのですが、「読書メーター」というサイトで、この本を読んだ人の感想を見て興味を持ち「嫌われる勇気」を読んでみました。
大変、面白かったです。

私は…
自信がなく、傷つきたくなくて、人と係わることが怖い。
そのため、これまで、恋人を作ったり、異性と付き合ったりすることができず、結果、結婚して家庭を持ったり、子供を持つというようなことと無縁に生きてきました。

・否定されたくない
・傷つきたくない
・他人はみんな敵

今までずっとそう思っていました。
そうなった原因はもちろん生育歴にあるのでしょうが、今更親のせいにしたところで始まりません。
分析したところで意味がない。

大事なのは、私の今の状態は私が望んだからそうなっているということ。
「傷つきたくない」から一人でいるのです。
でも、本当は、

・否定されたくない ← 他人はあなたを否定しない
・傷つきたくない ← 他人はあなたを傷つけない
・他人はみんな敵 ← 他人はあなたの敵ではない

前者は全部、私の思い込みです。
今のままでも私を好きになってくれる人はいるのだし、仮に嫌いな人がいても、それはその人の問題なので、私には関知し得ない(課題の分離)。

私は私のままでいい。
それだけなんだよな。

私を嫌いな人がいてもいいじゃない。
そう思ってしまえば、いないかもしれない「私を嫌いな人」におびえて、自分から一人を選ぶ馬鹿馬鹿しさが手に取るように分かります。

私は私のまま、どこへでも出て行けばよく、その結果、誰かに嫌われたって気にしなくてよかったのです。

こと、異性に関しては、
「こんな私を好きになってくれる人なんていない」
という強い思い込みがありました。
もうだいぶ年をとったので、いわゆる「ほれた、はれた」が関係なくなってきて楽にはなってきましたが、多分、アドラー心理学的にいえば、私のダイエットがなかなか成功しないのもやせることが怖いから。
だって太っていれば男性には相手にされませんから安心ですもん(苦笑)。

その証拠に、数少ない過去の男性とのお付き合いの過程を振り返ってみると、相手が踏み込んでくれば、必ずひいてましたからねぇ。

異性と親しい関係になるのが怖いんですよ。傷つくに決まってると。

傷ついたって嫌われたっていいじゃないの。
私は私なんだし。

今更気づいたって遅いよーという話は当然ありますが、アドラー心理学に言わせれば過去も未来もありません。「今更」なんて概念は存在しない。

私は今、どうありたいか。
それだけです。

どうありたいかというと…
私は一人が好きですし、孤独も平気ですが、同じように「一人が好きで孤独も平気」という人と出会って、お友達になり、いえ、お友達以上の関係をやっぱり持てるようになりたいですねぇ。

自立はとっくに出来ていて、私はこの世界も自分のこともけっこう好きです。
あとはそれを分かち合えるパートナーだけ。

私のやることは決まっています。
今を生きること。
そうしていればいつかどこかにたどり着くでしょう。
結果、パートナーと出会えなくてもそれはそれで幸せな最期を迎えられるような気がします。

ヴェスナ・エスタ・ホリシア. ヒトの子の生に限りはあれど、命は永遠なり。

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2015.04.27

「禁断のレシピ」

私は万年ダイエッターです。
子供の頃から体重過多で、それをずっと気にして生きてきています。
今までいろんなダイエットを試してきましたが、ぶっちゃけ、10キロ減ったってまだ標準体重にならない。
こつこつ2年かけて5~6キロ減らしたって、先が遠すぎてくじけること幾たびか。そしてリバウンド。とほほ。

体重が多いので体が重い。なので運動は苦手。
運動が苦手だから体重が増えたのか、体重が増えたから運動が苦手になったのか、今となってはもう分かりません・・・
とはいえ、運動は嫌い、嫌だ、と言っていてはダイエッターの名が廃るわけで、万歩計を付けて仕事帰りに二駅歩いたり、近くのジムに通ったりもしていました。
ジムはいいです。ストレッチもきもちいい。
音楽を聞きながらエアロバイクを40分こぎ、筋トレをして、そのあとプールで歩いて、なんてやってました。
走って心拍数が上がるのは嫌ですが、歩くのは好き。
でもねぇ。運動は体にいいし必要ですが、運動だけではダイエットにはなりません。

ダイエットは何よりも食べるものを減らさないとね。
なので、カロリー計算して食事日記をつけるのもずいぶんやりました。
今でもご飯はマンナンヒカリ入り、お昼は小さめの弁当箱に詰めた持参の弁当、かんてんぱぱの寒天スープや寒天カフェオレを常食し、便秘知らず。
だけど体重はやっぱり減りません。

やせないってことは、やっぱ食べてるのよね。
うん、すみません、懺悔します。
昨日も夕方、買い物に行ったついでにケンタッキーに寄りました。
帰りにスーパーで薄皮クリームパン5個入りを買って一気食いしました・・・

いや、だからさー
結局、いくらやせたいと言ってても、食べたいもの、食べちゃってるじゃん。
毎日とは言わない、たまにはケンタッキーのチキンが食べたい。
一風堂の赤丸とんこつラーメンが食べたい。
レディボーデンのアイスクリームが食べたい。
そういう自分の本音を無視し、自分をごまかして生きているから、そういうことになるんだとたまに思うのです。

だったら、おいしいものをカロリーなんか気にせずおいしく食べようじゃないの。
そういう人のための本が、この「禁断のレシピ」です。
私にとってはとても痛快そのものの一冊でした。

ゴディバのショコリキサーは1杯860kcalもありますが、それを遙かに超える禁断のレシピ本。
さすがの私もこの本に載ってるメニューを食べたいとは思わない。
エシレのバターケーキ「ガトーエシレナチュール」は食べてみたいですが^^

私にとっての禁断のレシピと言えば、上記のゴディバのショコリキサー以外では、

・レーズンバター(448kcal)
・トップスチョコレートケーキ(1979kcal)

といったところでしょうか。ちなみに最近食べたもので「禁断」な感じが濃厚な食べ物のカロリーも調べてみると。

・一風堂の赤丸新味 1杯706kcal
・ケンタッキーオリジナルチキン 1本237kcal、昨日は2本で474kcal
・ピザハット、ソーセージクラストMサイズ 多分2000kcalくらい
・レディボーデンバニラ 709kcal
・松屋ブラウンチーズソースハンバーグ定食1004kcal

ついでに
・薄皮クリームパン5個入り 620kcal

はぁ~ひどい、ひどすぎる。
「禁断のレシピ」に負けず劣らずカロリー高いものばっかりだ~
書いたものはみんな、私にとっての「ごちそう」です。
日々いくら寒天食べていても、
「たまには」
って食べるものがこれじゃーね。自分で読んでいて死にたくなってきた。

ダイエットを成功させるためには、食の考え方の根本を変えなくていけません。いくら我慢したって、我慢しきれずにまた食べちゃうんじゃ同じなのです。

上に書いた数々の食べ物をおいしいと思わなくなれば・・・
「こんなに食べられな~い」
って心の底から言えるようになれば・・・

いえ、昔ね。
ホントにそうなったことがありました。
ランチの時、外で食事ができなくなった。
おいしい定食屋さんにつれて言ってもらっても一人前を食べきる前に気持ちが悪くなったっけ。
あれは辛かったな。

二度とそうなりたくない。
おいしいものはおいしく食べられる体でいたい。
そう思ってしまった。
おいしいものをおいしく食べられなくなるくらいならダイエットなんかしない方がいい。

でも、その一方で、やせなくてもいいとはやっぱり思っていないんです。
長生きをそんなに望んでるわけじゃないですが、何より太ってると見た目が悪いもの。
5~6キロやせれば、人からやせたと言われなくても、自分で少しだけ縮まったウエストや引っ込んだおなかを見るのは嬉しいんだよな。

だから・・・おいしいものをおいしく食べながらやせたい。
本音はずばりこれなのですが、それってやっぱり無理かなぁ。
都合良すぎるか~
せめて「禁断のレシピ」を読んで、実際は寒天をかみしめてこれからもがんばろう。

「あきらめたら、そこで試合終了だよ」
そう思って万年ダイエッターを続ける私なのです。

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2015.01.05

「Nのために」感想(ネタばれあり)

新年、あけましておめでとうございます。今年も本ブログをよろしくお願いします。

さて表題の「Nのために」は湊かなえの小説ですが、前クールでドラマにもなったので、見た方も多いのではないでしょうか。

私は原作がたまたま手に入ったので、ドラマよりも先に原作を読みました。
登場人物の、事件に関する事情聴取から始まる出だし。
読みながら1章が終わったところで本を置いて、自分で、起こった出来事、入室順、各人物の供述の食い違いなどを洗い出したりして、途中までとても面白く読めました。

そういう謎解きの話なのかと思ってたんですよ。
余計だと思った供述に真実があったりするのかと。
でもどうも違ったみたいだなぁ。

読み終わった後、なんかもやもやするので、そのあとテレビドラマの方もまとめて見ています。映像でいくつかの謎は解決されましたけど、まだもやもやしてます。以下、感想です。
ネタばれしてますので、これから読む方はご注意ください。


【成瀬】
私は最初、彼らの嘘にだまされて成瀬君のことをただのケータリング業者と思っていました。
たまたま同じ島出身だったから、それで希美経由で野口さんが成瀬君にケータリングを頼むことになった。
まあそれは彼の嘘で、本当はお姫様救出作戦に彼が希美に対する気持ちを利用されて、巻き込まれた、というのが真実なんですけれども。
そういう意味では成瀬くんはかわいそうでした。
一方的に利用されただけ。ま、損もしてないけれど。

彼が殺人に関与していないかったことは確かで。
だって、殺人が起こった時、彼は部屋の外にいましたから。

彼のNは希美。
それははっきりしています。

【安藤】
小説で、一番、謎だったのは安藤なんです。
男性だか女性だかも最初からずっと疑問でした。
ドラマでは、最初から男性で登場するし、彼が希美を好きだったこともストレートに伝わってきます。小説では何を考えてるのか分からなくて、殺人犯はこいつかと思ったのですが、安藤が殺人の起こった時刻にラウンジにいたことは第三者の証言で明らかでした。

じゃあ安藤は殺人犯じゃないし、そもそも彼は相手を殺す動機がない。
実は小説を読んでいたときは、安藤がそんなに希美が好きだったなんて知らなかったので、なんで外側のチェーンをかけたのか、疑問でした。
安藤は自分だけ計画から外されたのが悔しかったのですね。
代わりに成瀬なんて知らない奴が計画に噛んでいる。ふざけんな、ということです。
なのに、西崎さんのために弁護士をつけたりいろいろ力を尽くしたなんて、いい奴だ。
安藤が男性なのを知らなければ、西崎さんを好きなのかとか、安藤と野口さんが怪しいのではとかいろいろ推理しましたが、全てはずれでした。

 安藤の方が成瀬くんよりかわいそうかな。
 彼も片思いでしたから。

【西崎】
 彼は望みどおりになって本望なのでしょう。
 希美の代わりに罪を負うことなど当然だし、それをすることで、奈央子を助けられなかった自分の贖罪としたわけで。
 彼の行動にはあまり疑問はありません。

【希美】
 希美はちょっと感情移入しにくい女性でしたねー。
 結局、成瀬君を好きなの?
 希美と成瀬君は両思いなのにすれちがってんだよなぁ。
 でも、そのすれ違いっぷりというのはどこかでよーく知ってるような。
 つまり、彼女は自分が相手を好きなだけで、相手に愛されるのが苦手なのです。安藤に対してもそう。成瀬君に対してもそう。相手の罪を背負って、それさえ相手に知らせずに黙って身をひく。

 このやり方って、見る人が見れば「美学」なのかもしれないけれど、私は大っ嫌いです。

 昔、ユニコというアニメがありまして。
 ユニコは出会う人を幸せにするのですが、幸せにした相手のそばには居られない。
 そのアニメを見て私は「なんてひどい話なんだ」と思いました。

 どんな幸せも「愛した人と一緒にいる幸せ」に勝るものはないのにね。
 ユニコは勝手に誰かを愛し、愛した誰かを幸せにし、そして去って行く。
 自己満足ですよ、そんなの。ユニコがそばにいてくれてそれで幸せになった「誰か」はそのあとどうしたらいいの?

 愛は自己満足であってはならない。自己満足だけの愛は、愛する人を不幸にする。
 人は愛されることにもうまくならなければならない。

 私はそう思っていますが・・・

 つまり希美もそういう女です。成瀬君に、安藤にあれだけ思われながら、
「私のことはいいのよ」
 と突き放す。思いを受け入れることができない。そのことで安藤も成瀬君もどんなに傷ついていることか。

 「愛する人に幸せであって欲しい」私達の本当の願いなんてそれに尽きるんです。なのに。

「Aが幸せでなければBは幸せでない。Bが幸せでなければAは幸せでない。」
 そうして二人とも不幸になる。いわゆる「賢者の贈り物」です。
 このジレンマを脱出するには、どちらかが先に幸せにならなければ。おそらく、安藤も成瀬くんもそれを知っていたはず。そして希美を引き上げてくれたはず。なのに・・・

 彼女は自分の幸せは自分でつかむつもりでいた。その結果のガン。余命宣告。なんてひどい話。

 真犯人を捜すのが目的の物語ではない。
 では何をどう感じるための物語なのかなぁ、これ。
 実はよく分かりません。
「みんなが大切なNのために行動した。」
 それはよく分かりました。
 だから何なの?

 ちなみに、ドラマでは島の描写が微妙でした。希美の母親も不愉快なだけだし。私はああいう毒親と、毒親に支配される娘という絵柄が、まるで自分のことのようで、個人的なトラウマにより拒否反応が出てしまうみたいです。

 でも、考えてみれば・・・愛されることに苦手なのも自分。人を愛せても愛されるのは怖くて、身をひいてしまうのも自分。だからこそせめて希美には幸せになって欲しかったのに。

 どうやら私のもやもやの原因はそれのようです。
 書いてみて少しすっきりしました。

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2014.10.14

「紙の月」

 「紙の月」(著:角田光代)という小説を読みました。
 銀行に勤める女性が巨額の横領をしてしまう、という話ですが、読んだ後に分かったのですけど、この話は映画になるそうです。宮沢りえが主演ですって。NHKのテレビドラマにもなったそうです(こちらは原田知世が主演)。

 う~む。テレビドラマ化や映画化という話を知って、私が最初に感じたのは
「あんまり見たくないな」
 でした。
 ・・・この物語の中にあるんですよ。
 知り合いが横領事件を起こしたと知って、面白半分にその話題を取り上げて話題にする元同窓生達。
「男に貢いだんだろう」
 と単純な型にはめて、その話題がカンタンに消費されていく。
 この話をドラマや映画にするのはまさにそういうことのような気がして。

 ドラマを私は見ていないし、映画の公開はこれからだけど、そういうのになっちゃうと、あまりにも単純で表層的な話になってないかなぁと心配です。いえ、この物語の中で語られる事件自体は、まさに単純でもしかするとよくある話なのかもしれません。だから、この物語をそう表現することはカンタンです。
 でも、この小説の魅力は「単純でよくある話」な事件の裏側で、そういうことをしてしまった女性が何を考え、どうしてそういうことになってしまったか…読む者を彼女の側へ引き込み、自分の物語として私たちが再構成することにあると思うのです。

 いやぁ、私、引き込まれました。そしてこれがどんな話であったか、自分の気持ちの中で、整理せずにはいられませんでした。

 阪神大震災と地下鉄サリンの事件が出てくる描写があり、照らし合わせると私はおそらく主人公の彼女とほぼほぼ同年代。だからだと思うのですが、なんかねー。身につまされるのよね。

 ただ、私には少なくともああいう類の衝動はないな。自分の価値をお金で証明してみせたりはしないし、できると思ったこともありません。
 主人公は馬鹿だと思います。若い男の子にいいものを食べさせたり、旅行させたり、車買ってあげたり、別に彼が望んだわけでもないのに、自分の生きる意味みたいなものをそこにしか求めることができないなんて。
 なんというか…いやあ「馬鹿」しか言いようがない。
 最初から何もかも捨ててタイに行っちゃえばよかったのに。

 でも、よく考えると「昔」はそうだったのかも。
 無意味に自分のプライドのために、女性を下に置いておかなければ気が済まない夫。今でも実際はそういう男性は多いのでしょうけど、だからこそ、そんな男性と無理して家庭を持つようなことをしない女性が多い世の中に、現代(2014年)はなってきました。だから非婚率は上がってるんですけどね。
 引き替え、彼女の時代は、短大出て結婚して、みたいなことが普通でした。それ以外の女性の生き方は、ない、とは言わないけれど非常に少なかったし、女性が結婚しないで年を重ねるとマイナスの評価を受けたりもしました。だから、彼女も自分の夫に小さな違和感を覚えつつも、その枠の中で、どこへも行けずに、お金を使うことで自分を表現するしかなかったのかもしれません。
 

 自分がどう生きるかは、自分で決めるもので、誰かに決めてもらうものじゃない。
 誰かの評価がなければ生きていく意味がないわけじゃない。
 
 道ばたに咲く野花は誰かに評価されるためにそこで咲いているのか。
 実をつけずに抜かれてしまうのなら、そこに存在しない方がよかったのか。

 「意味」を問うこと自体が無意味のような気がしてなりません。
 思いのままに、そこに在ることだけで、十分に意味はあるのではないかしら。私はそう思いながら日々を過ごしています。

 タイでやり直せたらよかったのになぁ、彼女。

 「生きる意味」とか高尚なことはともかくとして、私は読み終えた後、自分の貯蓄額チェックをしてしまいました。
 貯蓄したと思ってた額がいつの間にか消えてたりしたらやだもんなあ。
 皆様もどうぞお気を付け下さい。
 お金は、自分を表現するものではないけれど、生きていくにはけっこう大事ですので。

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2013.02.03

「50歳からの孤独と結婚」

 「50歳からの孤独と結婚」というタイトルの本を昨日買いまして一気読み。
 
 一人のフリーライターが上記のテーマを元に、雑誌の取材で婚活パーティや孤独死の後始末の現場に入り、見聞きしたことを書いた本。だから「50歳からの孤独と結婚」についての「評価」はなく、2013年の今現在の「現実」がメインとなっています。

 面白いことに、書いたフリーライターは30代の独身男性。

 「彼」がこのテーマで「取材してみよう、書いてみよう」と思った気持ちが私にはなんとなく分るような気がします。
 ぶっちゃけ、私がこの本を「読んでみよう」と思った気持ちと同じでしょうな。

 私の父は定年を過ぎて63歳で、52歳の女性と結婚しました。
 実の母の病死はその5年前。
 その経験があるので、私はこの本に出てくる高齢者の心情は理解しやすいです。

 男性は女性がいなくなるとがっくりきやすいし、女性は経済的&精神的な安定のためにパートナーを求める。
 ・・・今の私の一回り上の世代の方々だからなぁ・・・
 まだまだ結婚しない男性も女性も少なかった時代の人たちだし。
 (パートナーが欲しい)という思いが、私の世代よりも切実だとしても不思議はありません。
 彼らにとっては「結婚」が当たり前。だから互いの利益が一致すれば結婚に至る。

 本の最初の方には、婚活パーティで出会い、幸せな夫婦として老後を送っている高齢者のカップルの話が出てきまして。
「へ~、そういう出会いもあるのねぇ」
 と意外な思いで読み進めました。

 が、本の最後、エピローグには、そうした婚活でパートナー探しにチャレンジした後に結局は「婚活をやめた人たち」の話が出ています。
 独身の私にとっては彼らの話の方がとてもしっくりきます。

 一人の人がインタビューに答えてこう言います。
 婚活パーティに集まる人たちは「みんなが打算的」。自分も無論その一人で「ばかばかしい」と気付き、相談所を退会した、と。

(引用開始)
 ひとりで生きる強さを身につけ、多くの同性、異性の友人を持ち、互いがより豊かな毎日送れるように交流を深める方が好ましい
(引用終わり)

 まったくそのとおり、と感じます。

 結局のところ、若くても中年でも高齢者でも、この問題に違いはないんだなぁ。

 うまく一緒に暮らせるパートナーと出会えて、その後の人生を幸せに送るカップルもいる。
 「愛」だけじゃなくて「打算」がそこにあったって、まあそれもよいでしょう。
 だけど、それだけが幸せってわけじゃない。

 本には、恋愛をしたら高齢者の身体的な不具合や痴呆が改善した、という話も出てきますし、孤独であるがゆえに犯罪に走ってしまった高齢者の例も出てきます。

 それも一面の真実ですが、だからって結婚さえすれば全てが解決する・・・とはもちろんこの本には書かれていません。だからエピローグでその道を選ばなかった人たちの話が書かれているのでしょう。

 恋愛とそれに連なる「パートナーと共に過ごす生涯」の効用は認めます。
 しかし、それはあくまでも「結果」であって「手段」ではない。

 私の結論はやっぱりこうなります。

 このテーマで「取材してみよう、書いてみよう」と思った、30代後半の男性と、今これを書いている私がこの本を「読んでみよう」と思った動機はたぶん同じだろうと、この記事の最初の方に書きました。

 それはおそらく・・・独身者がみんな一度は考えているテーマだと思うのですが、

(このままでいいんだろうか)

 という漠然とした不安です。だから自分の行く末を知りたくなる。50代、60代になったときに自分がどうなっているのか。

 50代、60代になってもパートナーと巡り合った人たちの話を読むとちょっと安心するでしょ(笑)

 でも、読んでみて分かったのは、結局、何歳になっても、同じなんだ、ということ。
 出会える人は出会えるし、出会えない人は出会えない。
 そして「打算」を「ばかばかしい」と感じたら、婚活なんてできやしない、ということです。

 もちろん、打算抜きで出会えてる人も世の中にはいるんでしょうが、確率的にはめっちゃ少ないんだろうな~
 インタビューに答えていた人と同様、そうは言いながらもどこかで自分も打算的になっているのは、もちろん私も同じですしね。
 
 でも・・・なかなか、この本、面白かったですよ。
 高齢者の結婚、再婚、出会い、などに興味のある方、ぜひご一読を。

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