日記・コラム・つぶやき

2019.04.23

異動

毎年この時期になると、若くして自ら命を絶った同僚のことを思い出します。

命日は5月12日。

東日本大震災の後、当時、私とその同僚は同じ部署で東北の復興支援の仕事をしていたのですが、同僚は4月の末で1年の任期が終わり、5月のゴールデンウィーク明けから元いた職場に復帰することになっていました。
12日は元の職場への初出勤の日でした。

遺書によると自殺の原因は仕事ではなかったようです。
本当の原因は分からないのですが、同僚は職場に迷惑をかけたくないとの思いからしっかりそのことを書き残していたと聞きました。

一緒に働いていた間もそんな素振りは全然見せなかった。
自ら命を絶つほど悩んでいたことがあったのに、誰にもそのことを話さないまま逝ってしまいました。
そのことがどうにも悔しく、悲しかったことを今でも思い出します。

私も異動を今まで何度も経験してきました。
今年は4月いっぱいで今まで所属していた部署を離れ、5月から新しい部署に移ることになり、溜まっていた不要な書類を捨てたり、必要なものをファイリングしたりしながら整理を進めているのですが、この作業をしているとこのタイミングを同僚が選んだ気持ちが分かるような気がしてなりません。

異動というのは不思議なものです。
それまで必死にやってきたこと、目指してきたこと、積み上げてきたものが全て目の前から消え失せます。
新しい部署ではまた新しい目標があり、新しい課題があり、それを必死にやっていくことになり、それは今までもこれからも何も変わらないはずなのですが、そう思ってみても、
「何かを失うような感覚」
がどうしてもしてしまいます。

もちろんそれは後任に引き継いでいくのだし、自分が担当ではなくなってもなくなるわけじゃない。自分はまた新たなことを覚え、チャレンジしていく。
それはサラリーマンであればみんなが経験してきたことだし、これからも経験し続けることで、何も私が特別なわけではないんですけど。

そこにゴールデンウィークの長い休みが挟まると余計に思ってしまうのかも。
ここで全て終わりにしてしまってもいいんじゃないか、と。

仕事でなくても同じなのかな。
人は、この世界に生まれ、成長し、その時々にいろいろな経験をし、恋をしたり、辛い思いをしたり、いっぱいいっぱいいろんなことを考えて 喜んだり、悲しんだりしながら生きています。
でもそれって、何か意味があるかというと、そのこと自体には特に意味はない。
自分にとっては大事なだけど、他人にとっては関係ないこと。

仕事はたくさんの努力やたくさんの苦労をしながら仮に結果を出したとしても、異動してしまえばそれは自分のものではなくなります。
それって「喪失」の感覚に他ならず。
がんばった経験は自分にとっては意味はあるけど、逆に言えば自分にしか意味はない。

私は、
「生きることには意味はないけれど、意味なんかなくても生きることはそれだけで楽しい」
と思って日々を生きています。
だから、異動で、今まで頑張ってきたことが自分のものではなくなり、残るのは「経験」という自己満足にすぎないとしても、そこで「死んで終わりにしたい」とは今は思いません。

漠然とした期待でしかありませんが、生きている限りは何かを失ったとしてもまた何か新しいものを得るのだろうという気持ちがあるからです。

何を得るかは自分次第なので、また明日も新たな何かを求めて生きていきます。

ただ…やっぱり異動ってね。
失うものの大きさを思い知らされるというか。
逆かなぁ。
自分が今まで必死にやってきたものがこんなにちっぽけだったということを思い知らされるせいかな。
その感覚がどうにも悲しいというか、切ないというか、やるせないというか。

きっと同僚もそんなふうに、異動のためにそれまで自分の住んでいた部屋を片付け、元の職場に戻るために身辺整理をし、いろんなことを思って過ごしたゴールデンウィークだったのだろうと。
その心中を思うとやっぱり涙があふれてきます。

また会おうね。
いつかきっと会おう。
私も命が尽きる時が来たらきっと行くところは同じだから、さ。
もうしばらく待っていてね。

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2019.04.15

10年後もしくは20年後に。

 すっかりこのブログ、不定期更新ですみません。

 定期的に見ている人はいないだろうな、と思ったら、そうでもなく、3月5日から4月の記事まで一ヶ月以上間が空いたために心配させてしまったようです。

 すみません、その間もとても元気でした。

 何をやってたかというと、2019年3月23日は、私が仙台にいる当時に始めた「Ingress」というゲームの「アノマリー」という、イベントというか大会というか、そういうのが東京でありまして、今までは個人(ソロ)でしか参加してなかったんですけど、今年は初めてチームにエントリーして参加しました。

 Ingressを知らない方に一言で説明するのはとても難しいのですが、スマートフォンを使用して行う、現実の世界を舞台にした陣取り合戦です。

 現代のスマートフォンには、ほぼ全てにGPS機能がついていて、現在地を地図上に表示させる機能があります。Ingressはそれを利用しています。

 現実の世界の地図に「ポータル」とよばれるチェックポイントをいくつか設置してあり、複数、とりあえず3か所のチェックポイントを実際に足で歩いてチェック(ハックと言います)して、その三か所のポイントを繋ぐ(リンクと言います)と、三角形の陣地ができます。「Ingress」はそうして現実の世界のチェックポイントをたくさん周り、三角で囲い、自分のチームの陣地を作っていくゲームです。

 「ゲーム」とかいうと怒られるのかなぁ(笑)

 私は「Enlightened」という色で言うと緑色のチームです。この世界に存在するXMという未知のエネルギーを今後も積極的に取り入れ、活用し、人類を新たな進化へ導くために活動する一派、ということになっています。

 一方の「Resistace」は色でいうと青色のチームで、XMの影響から人類を解放、防衛しようとしています。

 私はIngressを勧めてくれた友人が緑だったのが、緑を選んだ一番大きな理由ではあるのですが、現実的にも支持したいのはやっぱり前者かなぁ。XMってのが何かはよく分かりませんが、結局、青だ緑だと陣地争いをする、その理由の根源は上記の設定にあるわけで。「Resistace」が勝ったら、Ingress自体が終わっちゃうのではないかしらん。

 まあ設定はどうあれ、私は、歩くことや旅行をすることが大好きなので、そうやっていろいろなところへいく度に、様々な「ポータル」を「ハック」し、その場所に自分の足跡を残していくことがとても楽しみなのです。

 幸い、3月23日の東京での「アノマリー」は緑の「Enlightened」が大勝利を納めました。普段、地元では「Resistace」にやられっぱなしなので、とてもうれしかったです。その日だけでなく、次の日も、その翌週もアノマリーの関連イベントで散々、東京を歩きました。いやぁ、楽しかった♪

 そんなわけで、3月はほぼアノマリー一色、ingress一色だったのですが、4月に入って現実に帰ってきました。

 テレビでもNHKの朝ドラは、大好きだった「まんぷく」が終わり「なつぞら」が始まっています。

 なつぞら、最初、ちょっと嫌だったんですよ。親を戦争で亡くし、たった一人、知り合いに引き取られて北海道の十勝に移り住むことになる女の子…だなんて、もう可哀そうで見てられなくて。でも、あまり冷たくも意地悪もされず、なんとか北海道の家庭に馴染むことができたようで、結局、続きも見てしまいました。

 その「なつぞら」で、北海道の荒れ地を、1年ではだめ、2年でも3年でもだめ、それ以上かかって緑豊かな土地に変える開墾が先週、始められていました。

 1年や2年では無理。

 でも10年なら。20年なら。無理だと思われたことも可能となる…

 ふとそれを見ていて思いました。私はどうなんだろうと。

 この20年で私は何か、そういうことができただろうか?

 一つ、囲碁は10年以上かかりましたが、初段になることができました。初段になるのが目標だったし、これ以上はちょっと上達できるような気がしないので、一区切り。

 だとしたら、これからの10年、20年で、今は荒れ地だとしてもその長いスパンで何かを叶えたいなぁと。

 新しく何か始めたいな。

 ダイエット? いやぁ、1年、お金もかけてがんばりましたが、それはちょっと…(苦笑)いや、まぁ、続けますけどね。

 そういえばメディケアダイエット記事も、総括を書かないといけないな。

 ダイエットは一生涯続けますけど、それはそれとして、何かこれからの10年もしくは20年でやっていくことをこれから見つけたいと思ってます。

 令和も始まるし、ね。

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2019.04.10

ひとりごと

 たとえば、夫の立場で奥さんの愚痴を聞くときがあるとします。愚痴ってのは大体が感想ばかりです。解決しないから愚痴という。

 コーチングでは「事実」と「感想」を分けて聞くと前に習ったことがあるのですが、妻の愚痴を聞くときに、大事な事実は

「妻はそれを困ったと感じている」

 というただそれだけ。愚痴の内容をまともに聞いてはいけない。ましてやその愚痴の内容が正しいか正しくないかなんて関係ない。「正しい」とか「正しくない」というのはコーチの「評価」でコーチは相手のことを評価してはいけません。

 

 誰かの悩みを聞くときに、コーチングでコーチは自分からその問題への解決策をアドバイスすることもいけないとされています。

 なぜならその悩みは相手の悩みだから。

 コーチの悩みではないから。

 解決するのはあくまでも相手なので、コーチが勝手に解決したらダメなのです。それは解決にはならない。

 

 誰かの悩みを聞くときは「自分の気持ち」を切り離さないといけない。

「自分はこう思う」

 なんて言っちゃいけない。

「こうした方がいい」

 もNGなのです。

 

 ・・・というのが鉄則なのに、つい今日は「〇〇した方がいい」と言ってしまったなぁ。しまった(汗)。

 自分の感情や思いを一切挟まずに、相手が自分で解決できるよう、事実だけを聞くこと。

 もう一度、胸に刻まねば。

 プロのコーチじゃなくてよかったわ。これでお金をもらってたら信用を無くしてしまうわ。

 

 でも、私を信頼して相談してくれる人のために、何かしらその悩みの解消の手助けができたら、と。

 そのために指針となるのはいつでもコーチングで教わったことだったりします。 

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2019.02.26

友がいつの間にか離れていく人

子供の頃から友達を作るのが苦手でした。
自分が人からどう見られるのか、嫌われるんじゃないか、ということばかりが気になって、何も話せなくなっちゃうんですよね…。

私を知る人からは信じてもらえませんが、正真正銘の「人見知り」なので、初めての人がたくさんいる場などは苦手ですし、飲み会などでは何を話したらいいのか分かりません。

友達は多い方ではありません。
多いければいいってものではないでしょうし、親しい友達が何人かいればいいとは思っていますが、遊びにいくのも誘われることはほとんどなく自分から誘うことの方が多いです。それが不満なわけじゃないのですが、もしかして、私って…

「友がいつの間にか離れていく人」

なのかしらん?
そう思ってリンク先の記事を読んでみたらなんと思い当たることばっかりです。げげ。

特徴① すぐ「ダメだから…」という
う~。
自分は独身ですが、家庭を持っている人の子供の話を興味を持って聞いたりするようにはしてるけどなぁ。
相手の趣味や関心を否定するようなことはしないように気を付けてはいるのですが。
気を付けてるってことは「やりがち」だってことか!?

特徴② すぐ「私はね…」という
これはですね。
相手に共感したいから言ってるだけで、決して話を奪い取ってるつもりはないのです(汗)

友人「この間、〇〇という映画を見たよ」
私「私もこの間××という映画を見に行ったよ~」

…やばい。これ、まさにこのケースですよね。
共通の話題がないかと探すつもりで、自分はこーだ、あーだって話ばかりしているかも。
人の話を聞け!!

特徴③ 人のうわさ話
人の悪口は嫌いなので言ってないつもりなんですが、たとえば…

友人「私の友達がこの間、ガンで入院したんだ」
私「そうなんだ。私の友達もガンになった人がいてね。手術を〇月にしてそのあとの経過が…」

なんでそういう自分の「友人」のデリケートな話をしちゃうんだよ!!
「私の話もこんなふうに誰かに話されているのかも」
って思われても仕方ないだろーが!!

だめだ…どうりで友達が少ないと思った(爆)。
友達と話してるときって、変にサービス過剰になっちゃうんですよねぇ。
何を話したらいいのか、何を話したらだめなのか、意識しすぎてることも多いし。
で、結局、話してることと言えば
「私も〇〇」

「私の友達も〇〇」
って、それじゃあんた…友達無くすって。

普通の人は友達と話す時、何を話しているんでしょう。
テレビの話? まあそれなら当たり障りがないわー。
共通の趣味、共通の好きなもの、そんなとこかな。
自分が話さずに人の話を聞くのも大事ですが、そうしていると
「どうしたの? 疲れてる?」
って聞かれます。

ああ、もっと話し上手、聞き上手になりたいよ。

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2019.02.12

パパ活・ママ活

 ツイッターでたとえば「#パパ活」で検索するとパパを探す子供たちのツイートを見ることができます。
 パパ活を知らない方に解説すると、
・若い女性が裕福な男性から金銭的支援を受けること
・女性側からそうした支援をしてくれる男性を探す活動
これが「パパ活」の定義って感じかな。
・若い女性が裕福な男性から金銭的支援を受けて裕福な生活をする「状態」
のこともいうのかもしれません。
 支援をしてくれる男性が「パパ」というわけです。

 ツイッターなどのSNSが普及したことで、他人同士が共通の目的で出会うことが今の世の中では簡単にできるようになりました。

 私にしても、カラオケ仲間や囲碁仲間、読書趣味仲間、ゲーム仲間など趣味を通した知り合いはみな、インターネット経由で出会いました。それでもう10年以上付き合いが続いている人もいます。

 なので、それが男女の出会いであってもインターネットが便利なツールであることは分かります。

 まだ学生で自分で働いていないため、自由に使えるお金のない若い子たちが…そう、女性に限らず、男性の若い子が「ママ」を探す「ママ活」「姉活」っていうのもあるんですよ…自分に金銭的な支援をしてくれる相手をネットで探しています。

 さて、これを見ているあなたは、パパやママになってあげたいと思いますか?

 私は、なりたくないなぁ。そんなに裕福じゃないってのもありますが、もし仮に自分がお金がある男性でもお金があるんだったらもっとちゃんとしたものに投資したいし、私の知っている、株で食ってる男性は余裕のある分は東南アジアの貧しい子供たちに支援をしていました。余ってるお金があるなら福祉関係に寄付したいよなぁ。

 ただ、要はパトロンですかね。
 歌や踊りを勉強して芸能界に入りたいって言ってる若い子に、お金出してあげて、夢をかなえてもらう。相手からは感謝してもらう。それも同じと言えば同じです。

 でも、ツイッターとかで見ているとあんまりそこまでの夢とか考えている感じではない。会って、デートするだけで1万円くらいのお小遣いをもらえると思ってパパを募集している子が多いみたいです。「一緒にショッピングに行きたい」と言う子もいる。パパにいろいろ買って欲しいものがあるのでしょう。

 知らない人から物をもらうな、と教わらなかったのかなぁ。
 そんな教育ができる家庭じゃないんですかね? でも、「買ってもらう」ことに抵抗がないんだから、親からは買ってもらうことに慣れているわけでしょ?
 親が買ってくれなくなったから「パパ」や「ママ」を探しているのでしょう?
 
 普通に考えると、何の見返りもなく見知らぬ女の子、男の子に物を買ってあげたり、お小遣いあげたり、食事おごったりは私だったらしません。
 でも男性は女性と食事にいくとおごるのが当たり前だった時代もあって、それで感謝されると気持ちよくなったりするらしいから、今でもそういう感覚でパパになる人もいるんですかね。
 
 ふむ。もし私が年収1000万越えの男性だったら、食事おごったり、ショッピング行ったりして、好きなもの買ってあげた上に、「先払いね」って言われて、出会ってすぐ1万円あげたりしちゃうのかなぁ。
 ダサすぎるというか、不毛というか…そんな子供に搾取される自分が情けないけどなぁ。

 一般的に男性としてはやはり相応の「見返り」は期待するようです。
 子供の方もそれを心得てて、「手つなぎ 〇〇〇〇円 ハグ〇〇〇〇円」とシビアな価格設定をしている場合もあるようで。それがもっとエスカレートすると売買春にもつながってしまう。

 つまりやっぱり、ただデートしただけで他人はお金くれないし、おごってもくれない。
 なんでそれだけでお金もらえると思っちゃう子供がいるのかがそもそも不思議です。

 お金はそれ相応の労働の対価として支払われるもの。
 確かにパパやママはお小遣いくれるけど、それは他人じゃなく本物の「パパ」「ママ」であって、あなた方はそうして養われる代わりに親の言うことに従わなくてはいけないのですよ。
 他人がパパやママになった場合も同様。金もらうならそれなりの代償を支払うのは当然だし、パパやママの言うことに従わないといけない。
 それを理不尽に思うなら「パパ活」や「ママ活」で他人に何か買ってもらおうとかお金をもらおうとか考えてはいけないなぁ。

 どう働いて、どう金を稼ぐか。
 それは大人である私たちにとっても大問題です。
 君たちも大人からもらうことを考えるのではなくて、一緒に働いて、生きていくのに必要なお金を手に入れようよ。
 それができれば、私たちは、誰にも支配されない、真の自由を手に入れることができるのにな。

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2019.01.24

なぜ結婚は難しくなったのか

非婚率が上がり、結果として出生率も低く、人口減少が社会問題となっています。
なぜ結婚できない男女が増えたのか?
結婚したいという人は少なくなってはいないと思うのですが、どうも男女のマッチングがうまくいっていないように私には感じられます。

ちょっと整理してみました。

男性が結婚を望む理由には「子供が欲しい」というのがあると思います。

(男性編)
〇子供が欲しいのでパートナーになる女性は若い方がいい
〇けれど20代の女性はまだまだ仕事をしたい盛り
〇10代後半から20代前半の女性で結婚願望がある人もいなくはないが、彼女たちからすれば相手は選びたい放題。
〇その年代で結婚を考える女性は専業主婦希望が多いのでは。
〇とすると、女性からはより高収入の男性が選ばれる。
〇かつ女性も可能なら、高齢男性よりも同年代の男性がいいと考えるので、若くて高収入でその他の条件(ルックスなど)がいい少数の男性が選ばれて、収入があっても30代、40代の一般男性はあぶれる。

一方、女性は…

(女性編)
〇「20代は仕事をしっかりして20代後半から結婚は考えたい。仕事は続けたい」
〇望む相手は同世代。
〇しかし男性の20代後半から30代はあまり結婚は考えてない。婚活市場に出てくるのは30代、40代のおっさん。
〇ただし、30代、40代男性も30代の女性は眼中にない。可能な限り「若くてきれい」な女性がいい。
〇結果、30代以上の女性はあぶれる。

いわゆる「自然」なのは10代、20代の学生の内に出会い、付き合いを重ね、お互いに20代後半から30代前半になったら結婚するパターン。
女性も男性もそういうのが、多分、求めている「理想」です。
私はかつて、自分もそういう自然なルートで結婚できると思ってたのよね。
20代後半からはちょっと焦って、合コンや友達からの紹介やお見合いパーティや一般的なお見合いなどもしましたけども(汗)

上記の箇条書きのような整理をすると「婚活」で理想の結婚をしようなんてのが土台無理というのが分かります。
30代、40代になって特定のパートナーもいないのに婚活で理想の相手と出会いたいなんて無理。
婚活で理想の相手と出会って結婚できる人は、いないとは言いませんがとても少ないと思います。

結婚したいなら男性も女性も、同年代の相手を、学生の内に見つけておかないといけないよな。
男性も年をとってから若い子と結婚しようなんて考えてるとしたら、
「あなた、ルックスと収入にそんなに自信がありますか」
てなもんだよなぁ。

無論、同じことは女性にも言えて「婚活は30代になってから」なんて考えてたらだめ。
おまけに女性は30代になったら「ルックスと収入」に自信があってもだめなのがつらいところ。
男性にとっての女性は若さだけが価値みたいですから。

例外はもちろんあるとは思います。
ただ例外は例外だから可能性としてはとても低い。
「例外の人もいるから」
と安心してはいけない。自分がその例外に入れるとは考えない方がいい。
例えるなら「宝くじには当たる人もいる」くらいだと思った方がよさそうなくらいです。
多くの人は「選ばれた人」なんかではなく「その他大勢」なのだから。

ただね。20代の頃の自分を振り返ると思うんです。
若さだけが自分の価値だというのは当時の私は分かってました。
でも、だからと言ってお見合いで紹介された、好きでもない相手と結婚したいか?
そんなに結婚ってしなくちゃいけないのか?
自分も働いてるし、自分の食い扶持くらい自分で稼げる。なのに?

自分の子供はそりゃ欲しかったです。
当時は当たり前にお母さんになることを疑ってもいなかったもの。
でも、恋愛して結婚してその先に家庭があるのなら「恋愛」「結婚」のハードルが高すぎて、どうしてもクリアできませんでした。

ここだけの話、好きになった人はいましたよ。
バレンタインにチョコ渡した人もいましたし、自分から告白もしたし、ネットでのやりとりで親しくなってデートまでいった人もいました。
でも相手からは選ばれませんでした。
しょうがないよなー(苦笑)。縁がなかった。ほんとそれに尽きます。

一人で生きる人生ももちろん悪くはありません。
私はどうも一人が向いているみたいですし。
けれど、人間としてのサガなのか、そういう同じ孤独を分かち合える誰かがいたらなぁと思うことは多々ありました。今もね。
だから、今、まだ間に合う人たちには「自然に結婚」なんてできないのだから、パートナー探しはできるだけ早くから頑張って欲しいと言いたい。
みんながみんな結婚できるわけではないし、結婚だけが全てではないんだけど、うっかりタイミングを逃してしまったが故に、というのはもったいないもの。

若者たち、がんばってください。

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2019.01.03

お正月に「家族」について考えてみた

 一人でどんなに気楽でぜいたくな生活をしたとしても「家族」がいる喜びの方が素晴らしい…

 読書メーターのサイトを眺めていたらそんなショートショートが掲載されていたので読んでいました。

 それから、ツイッターでは

「男が老いて独り身なのはかなり惨め。でも女が老いて独り身なのは毎日がサバイバルだ。危機感持てよ。」

 というつぶやきを目にしまして、ちょっと落ち込む(苦笑)。

 まあ、女とか男とか独身とか既婚とかで、一括りにできないことは重々分かってはいるのですが、こういう意見ってたまに目にするとやっぱり気になるのよねぇ。

 以前から、私個人は一人であまり困ったことはなくて、結婚も30代以降、早々に見切りをつけ、代わりに一人で生きていくための備えをしてきたわけで。

 後悔しないためにどれだけ準備をしてきたか。
 「危機感持て」なんて今更言われなくても、相当危機感、感じてやってきました。

 そのせいか、世間一般の声をよく聞いてみると、私はどうも「結婚できないままきちゃった高齢女性」の一般的なくくりと違うところにいるみたいです。

 いや、そうじゃないか。時代そのものが変わってきているのか。以前の「一般的なくくり」ともう私ら世代は、全員違うのかもしれない。

 思うに、私らよりも前の世代の高齢女性は、やっぱり男性に養われる存在で、男性に幸せにしてもらうという価値観が基本だったんでしょう。
 もちろん、今がそうじゃないとは言いません。そういう価値観がが悪いとも思いません。今もそうでありたい女性もいるし、私個人は男性が働いて、女性がそれを支えて、それが幸せならそれでいいと思っています。

 前にツイッターでちょっと書いたのですが、女性自身が医師になりたいと望む人もいて、それはそれでいいのですが、医師としてがんばりたい男性の妻としてその男性を支える女性がいてもいいと私は思うんですよ。
 いわゆる某医大の入試での女性差別の話ね。

 もちろん、女性が医師として働きたいならその道を入試の段階で閉ざすなんて許せないことです。
 ただ、医師という職業が非常に過酷な労働環境にあるのは事実であって、それ自体をなんとかしなければいけないというのは当然なんですが、現実に、今、現場に男手が必要で、女性は前面に出るのではなく後方支援に当たるというのはそれも有効な役割分担ではないかと考えたりしました。

 男女で語る話ではないのかもしれませんけど。
 第一線で活躍する人も、その後方支援に当たる人も、職業に貴賎はなし。
 昔から、私は主婦も大事な「職業」だと思っていたしな。

 ちょっと話がそれました。
 女性が男性に養われることは否定しないという話でした。

 ただ、そういう時代だったなら確かに「女性が年取ると悲惨」だったのでしょう。
 高齢になった女性は、夫婦ならともかく、他人だと男性からの評価は0でしょうし。
 若くてきれいなうちに、男性にパートナーになってもらう。
 男性にとっての評価が女性にとっての全てでした。

 高齢者のコンカツについてネットで情報を拾ってみると、私たちよりも上の世代のコンカツだと、高齢女性が当時の価値観に基づき、自分を養ってくれる男性を探したいと思って活動している構図みたいです。女性の方が会員が多いみたい。でも男性からしたらいくつになっても若い子がいいんでしょう。きっついなぁ。 

 女性は男性から評価されることが全て。過去は確かにそうでした。
 でも今はそうじゃない。

 今は「結婚」って選ばれた人しかもうできなくなっているんじゃないかと私は思っています。
 昔…といっても一世代前の話ですが、当時は結局、結婚するのが当たり前だったし、女性は結婚しなきゃ食べていけなかったから。誰でもいいとは言いませんが、たとえば多少、性格に難があったりしても、若くて経済的には厳しかったりしても、マザコンだったとしても、どんな男性でも結婚できたんだろうと思います。

 今は違います。
 女性は自分と合わない男性と無理に結婚したりしません。もちろん男性もね。

 結婚して幸せになれる人もいる。それで子供を持ち、家庭があって幸せな人もいる。
 でもみんながみんなそうじゃない。
 結婚しないという選択肢もあって、男性も女性も、それを選んでもいい。

 自分を幸せにできるのは結局自分しかいません。誰かに幸せにして欲しいと願い、その誰かが男性だったり、子供だったりしたとしても、人に頼っている限りは幸せにはなれないと私は思います。
 
 もちろん年を取ったら人に頼らずには生きていけないので「誰にも頼らない」なんていうのは驕りだと、私は常々自分に言い聞かせているところですが、ボケて何も分からなくなるまでは、若くても、年をとっても、自分が自分であることの尊厳って変わらないんですよね。 
 
 パートナーもいず、家庭がないと最後は「孤独死」なんでしょうが、これからの時代はそんなの当たり前になっていくんじゃないかしら。
 まあ死んで何日も放置されてしまったら後片付けをする方が大変なので、独居の高齢者には見守りシステムが必須になるでしょう。私の家にもつけて欲しい。

 だから、独身だから悲惨だ、とかじゃなくて、独身でも幸せでいられる道をちゃんと探しておこうよ、というだけの話のような気がします。
 結婚できなくて、家庭もないけど、私個人は今は幸せだし、これからも幸せでいるための努力はずっと続けていきます。

 そういう人がこれからは増えていく。
 そういう人のための世の中になっていく。

 というか、そういう世の中にするために、独身高齢女性の一人として、これからもがんばっていきたいわ。
 

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2018.11.30

『どうすれば適度な距離を保ちながら、関係を築くことができるのか』

東洋経済オンラインの以下の記事を読みました。

アスペルガー41歳男性が「就労不可」の理由

本日の記事のタイトルは、上記の記事から引用しました。
「どうすれば適度な距離を保ちながら、関係を築くことができるのか」
ほんとそれよね。

たとえば外国人との付き合いでもそういうことってあるわけですが、物の感じ方、考え方の違いは人間一人一人誰にでもあって。
いや、外国人じゃなくても、義親でも、自分の親でも、兄弟でも、クラスメイトでも、夫でも、子供でも、自分とすっかり同じ人間がいない以上は、自分と違う人間同士、互いに幸せになるためにはって話。
究極、みんな一人一人、誰ともかかわらず一人で暮らせばいいってことになるわけで、今、一人暮らしをしている私はそういう結論になってしまっても同意こそすれ反論はできないのですけど…

問題はやはり「仕事」です。
人間がみんな一人で暮らせばいいといっても、本当に一人では生きられない。
生きるためにコンビニでその日の食事を買うとすれば、それを売る人、作る人がいて成り立っているわけで。
そして「買う」ためには自分も何かの役割を果たし、買うための金を稼ぎ出す必要がある。
それが仕事であり、人の個性だ、違いだと言いつつも、仕事の前ではそれを制御する必要がどうしても出てくる。
プライベートは一人でもいいけど、やっぱり仕事はそうはいかないものなぁ。
うーん、人と接しなくていい、ただ一人で作業をこなせばいい仕事ってないのかな。
コメント欄にいろいろな意見が出ているけれど、アスペを社会全体で受け入れるなら「アスペでも適応しやすい仕事」をもっと調べて、標準化した方がいいんじゃないかと思ってしまいます。
もしかしたらアスペであることで高い生産性を出せる仕事もあるのかもしれないのに、もったいない。

記事についたコメントを見ていてつくづく思うのですが、この記事を書いた記者は、自分が普通であることに疑いを持ったことはないのかしらね。
一度「少数者」の側に立ってみればいいのに。
自分が社会に無理やり合わせようとするんじゃなくて、社会の仕組みの側が少しだけ変われば、ありのままの自分で生きられるようになる。
多分、アスペであることに苦しむ人が望むのはそういうことなんじゃないのかな。

もし普通の人間がこの記者のように自分が普通であることにプライドを持つほど偉いのなら、アスペを理解し、アスペでも生きやすい世の中を作るように努力してほしいけど、実際にはこうしてアスペの側に自分のいる「普通」の世界に適用させようとすることしか言えないのであれば、「普通」の人間はそんなに偉くないってことなんでしょう。

当たり前か。ただ「普通」で「多数」なだけなんだから。

アスペの人の中にはものすごく才能のある人もいるので、アスペが生きやすい世の中を作るためにどうすればいいか、アスペでも働いて収入を得るためにどんな仕事が向いているかは、アスペの側が提案できるのかもしれません。
ただ、人との交渉とかそれを現実化するための段取りとかはアスペだと苦手だと思うので、そこをうまく調整する「普通の人」と連携できないものかなぁ。
聴覚障がいや視覚障がい、身体的な障がい、または性同一性障がいなど数的に言えば少数で、「普通」が横行する世の中で生きることに様々な困難が伴う障がいはいろいろあるのですが、その中ではアスペはノウハウさえ確立すれば、世の中に多数存在するいわゆる「普通」の人々と、うまく役割分担しながらやっていけそうな感じはするんだけどな。

これだけアスペの性質や特性が分かってきたのだから、そこに至るまであともうちょっとって気はするんですけどね。
全ての人の幸せをどれだけ望んでもかなわないことは分かっていますが、少なくともアスペには幸せになる道もあると信じたい。
というか、今でもアスペでも自分に合った楽な生き方をできている人っていないのかな。
五体不満足でも、自分なりの幸せな生き方を確立し、いろんなことにチャレンジしている乙武さんのように。

アスペルガーの障がいを持ちながらも、この社会でありのままの自分で生きている…そういう先駆者、いるんじゃないかな。

「普通」で「多数」の人はむしろ、そういった先駆者たちに教えを乞うくらいの気持ちにならないと。
上から目線で自分たちが「少数者を受け入れてあげます」なんて言ってる場合じゃない。
でなければ、真に多様性のある社会など作り上げられない。

どうか、アスペに限らずできるだけ多くの人が、「普通」で「多数」な生き方を押し付けられることなく、幸せになれる世界となりますように。

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2018.11.28

清潔を保つのって大変なのよね

 昨日、久々に牛丼の吉野家に行きました。
 ちょっと通勤のルートからはずれている場所にあるのでたまにしかいかないのですが、吉野家のメニューはいつもおいしいです。

 今年の夏、うなぎは安いのを食べると資源保護に反するんだよなぁと思って控えていたんですが、吉野家で一度だけ食べたらそのおいしさにびっくりしてしまいました。
 牛丼もおいしいです。
 でも肉の量が少なくて、ごはんばっかり多くてやや不満(もちろん注文でカスタマイズはできますがそこまでするほどではない)なので、最近、牛丼のアタマ(ごはんではなく肉やたれやたまねぎの部分のこと)の自作に挑戦したこともあり、自分で作ればたくさん食べられるので吉野家で牛丼を食べることはなくなりました。そもそも、生涯ダイエットの身にとって、肉はともかく、どんぶりごはんなんて禁断ですからねぇ。

 それでも昨日、吉野家に行ってしまったのはここ最近ずっと風邪気味で、夕食の支度をしたくなかったため。
 ベジ牛定食という野菜の炒め物と牛皿のセットを頼みました。ごはんも少な目だったな。
 
 お料理はおいしいです。昔はまずかった味噌汁もなかなかです。

 しかし…この吉野家の店舗、いつもあまりきれいじゃないのですよね…

 昨日は食事をしてたら、向かい側のイスにハエが一匹止まってました。

 いや、昔はね、豚小屋が裏手にある小学校に通っててハエなんて見慣れていました。周りに農家が多くて、たい肥が積んであるような田舎でしたから。ただ近年は住宅街に住み、ハエなんて見たこともない生活をしています。久々に見たわ、ハエ。

 改めて周りを見まわしてみると、床もかなり汚い。
 前の客がこぼしたらしい食べ物の残骸が落ちているし、拭いても落ちないのか、黒い汚れがそこかしこに。
 イスはそういう汚れはないのですが、かなり使い込んできれいな色ではなくなっている感じ。うーむ…

 家の最寄りには「すき家」もあるのですが、その「すき家」も一度行ったらあまり清潔ではなかったので二度と行ってません。
 幸楽苑が隣にあって、その幸楽苑は汚いと感じたことがないので、そちらにばかり行ってしまいます。

 もう一つ、吉野家やすき家より、立ち寄る頻度が多い松屋は、前述の二店舗よりはきれいです。というか、すごく気を付けている感じが伝わってくる。
「消毒してるぜ!」
 という、食べ物を提供する店というよりは病院の食堂のような。清潔は清潔だけど無理やり清潔にしているような…でも不潔よりははるかにマシです。

 ちょっとネットで調べてみたのですが、牛丼チェーンの店の清潔さってその店で働く人によるようです。マニュアルはあるんでしょうが、きちんきちんとこまめに掃除しないとすぐに汚れてしまう。
 「きちんきちんとこまめに掃除」
 これねぇ。実は当たり前じゃないんですよね。掃除してもしなくても時給が同じならとアルバイトなら考えますよね。
 いくらマニュアルを徹底させると言っても所詮、やるのは「人」。
 
 掃除って、
「きれいにしなくちゃ」
「きれいにしたい!」
と思わなければ続かないです…

 この記事で書きたかったのは、

「きれい」は当たり前ではない

 ということに、汚い店に行って気が付いた、ということ。

 客からしたら「金を払ってるから」
 店員からしたら「金をもらってるから」

 それだけではなくて、きれいにしたい、きれいにしなくちゃ、という思いがなければどんどん汚れていくわけで、その仕事に対する誇りや責任感がなかったら「きれい」は維持できない。
 そのことに改めて気が付きました。

 以前、JRの駅のホームで掃除をする人を見かけたときに、ふと周りを見渡したらホームにごみ一つ落ちていないことに驚いたことがありました。昔は駅ってめちゃ汚かったよなぁ。
 今はなんてきれいなことか。トイレもきれいです。設備も新しくなってますが、きっと掃除も担当している会社が、その会社で勤務している担当の人ががんばってくれているんでしょう。
 職場のトイレもきれいです。毎日、高齢者の方が掃除してくれています。

 当たり前ではない「清潔」ということ。
 そのために払わなければいけない「努力」。
 私たちはもっともっとそのことを意識しなくてはいけないのかもしれません。

 振り返って自分の家ですが…
 一人暮らしなので、汚すのも自分、片付けるのも自分。
 今の住まいには3年前から住んでいますが、お掃除ロボットを導入し、アイランドキッチンになって水回りとリビングが一体化したため、なるべくきれいに使うように努力はしています。
 というかそもそもあまり汚さないようにがんばってます。
 使う側も掃除する側もお互いに配慮し、気を付けなければ…

 『きれいは当たり前じゃない。』
 
 ああ、風呂場も年末、大掃除しなくちゃなー。

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2018.10.09

自分がどれだけ異常なのか分かる子供はいない

「家という密室でまかりとおる「おかしなルール」」

 久々のブログ更新です。
 上記は東洋経済オンラインの記事。
 
 これ、めっちゃ分かるなぁ。
 私も自分の家を普通だと思っていたからな。
 もちろん、著者の菊池真理子氏の家とは違いますが、私の家も相当おかしかったです。
 でも子供は気づけないのよね。
 そして周りもそういう家庭の子どもを助けられない。
 この著者はえらいな。そういう状況をどうにかしたいと思ってちゃんと声を上げているのだから。

 なんというか、この問題の一番難しいところは、多かれ少なかれ、問題を抱える家庭というのはあって、どこまでが普通でどこまでが異常なのか、誰にも分からないところです。
 一番分からないのが当事者というのもやっかいなところ。
 
 多分心理的な防衛機能の一種なんでしょうが、当事者は自分を「普通」だと思いたいのですよ。
 自分の家庭や自分の親を「異常」だと「普通じゃない」とか思いたくない。
 だから逃げ出せない。
 逃げ出す先があるなんて想像もつかない。
 だって子供にとって親は唯一無二ですからねぇ。
 私自身を振り返っても、母がいなくなったら自分も死ぬと思ってました。
 これ、子供にとっては当然の反応で、どんな親であっても、子供ってそう思うのです。
 おそらく、虐待されてても、です。
 
 私はもういい歳ですが、今もなお、自分の育った環境の異常さに気づいて愕然とすることがあります。それが自分に与えた影響の深刻さにも。
 いい年になっていつまでも自分の性格を親のせいにしてるのは恥ずかしいのですが、三つ子の魂、百までとはよくいったもので。
 自分はもうしょうがないけど、多分、同じように、異常な環境に気づくことができず苦しむ子供というのはたくさんいるので、何か、私もできるといいんだけどなぁ。

 このブログでは何度か書いてきていますが、私の母は今でいう「双極性障害」いわゆる「躁うつ病」でした。私が医者に直接聞いたので、間違いない診断名です。
 1年の半分以上は布団に寝たきり、何もできなくなりました。家事も、子育てもね。
 よく結婚して子供も持てたな、と思うでしょ?
 聞くところによると発症は、妊娠がきっかけだったようです。それまではうつはなかったみたいなんですよ。
 今やもう詳細を証言できる人も少なくなってしまいましたが、どうやら私を出産した後、母はしばらく入院していたらしいです。
 母子手帳の記録を見ると、それでも最初の1年くらいはちゃんとつけてるから、自分で育ててたみたいなので、入院したのはその後かな。その間は祖母の家にしばらく預けられていたらしい私。
 でも私の物心つく頃は、母と自分の家に住んでいました。そしてその後、おそらくは私が小学校に上がった後くらいから(その前の記憶はあまりない)、母はしばしばうつで寝込むようになりました。その状態は以後、ずっと続きます。
 
 母親がうつで子供の面倒を見られないとき、一般的にはどういう対応を取るのが適切なのかなぁと思うのですが、祖母が面倒みるってのがよくあるパターンでしょう。
 祖母はたまにはきてくれましたが、一緒に住んではくれませんでした。
 祖母には祖母の生活があるし、そうできない事情も何かあったんでしょう。
 それに母の場合、うつ以外の状態のいいときは、普通に暮らせたりもする。
 それがよけいに判断を難しくさせたのかもしれません。

 母が寝たきりになると、ほぼネグレクト状態の私。
 食べ物は父が買ってきてくれたので、なんとか生きることはできました。
 着るものも洗濯はあまりしてないけど、なんとかなる。
 風呂も1週間に一度でもまあなんとかなりますw
 冒頭で引用した記事と同じ。
 
 しかし、子供の私もですが、母にこそ、もっとケアが必要ではなかったかと私は今は思います。
 うつで引きこもった母はそのまま放置されていました。
 父は働いて母と子供を養ってはいましたが、多分、それ以上に何をどうしたらいいのか分からなかったのだろうと思います。
 「躁うつ病」なんて言ったって、ただの「怠け」だと多くの人から思われていたあの当時。おそらく、病気だからとちゃんと治療するという発想自体がなかったんだろうなぁ。
 私が成長してからは、母と一緒に母のかかりつけの病院に一緒に行き、躁のときはこれ、うつの時はこれ、という薬をいただいてきました。
 うつででかけられなくなると私だけ病院へ行って、状況を医師に報告したり。
 もっと早くそれをできればよかったんですよね。
 成人期の半分をうつで寝たきりで過ごした母は、心だけでなく、体もボロボロ。具合が悪くなってもうつだと病院にも行かれないし、食べ物を面倒みてくれる人はいないし、当たり前といえば当たり前です。
 母にもその娘にも面倒を見てくれる人がいれば、もう少しなんとかなっていただろうに、結局なるようにしかならなかった。
 
 母は56歳でがんで亡くなりました。
 よく「死にたい」と言っていたので本望だったのかも、と当時も今も私は思います。
 悲しいという気持ちはあまりなくて、それはなぜかというと今でも母は私の中にいるからです。よく夢にも見ますよ。
 うつのときには当然、面倒もみてもらえなかったし、食べ物は大抵、ふりかけとごはんと缶詰やレトルトだったし、諸々考えるにとても子供の成育に適した母ではありませんでしたが、少なくとも、私の一番近くにいた人ですから。
 そう思っていること自体が、もしかすると私もどこかおかしいのかもしれませんけど。

 今でもいろいろな理由で、親に放置されている子供がいます。
 私は今、家庭こそ持っていないものの、普通に働いて、収入を得て、自立して生活しています。
 子供の頃、どんな家庭環境であっても、結果そうなればいいんじゃないかという気も少ししますが、たとえば異性とまともに付き合ったことがないとか、自分に自信がからっきし無いとか、いろいろと影響はありますわ。
 「まとも」とか「普通」とかって基準はどこにもないのかもしれないけど、少なくとも病気を患う人に適切なケアをしたり、親が面倒を見てくれない子供の面倒を見たり、そういうことが「家庭」に閉じられることなく、もっと、気軽に手助けできる社会になるといいんだろうなと思います。
 少なくともインターネットが世界に登場して以来、それを使いこなせさえすれば、自分の状況を客観的に俯瞰できる情報はすぐそこにあります。
 
 それでも「自分がどれだけ異常なのかを分かる子供はいない」。
 私たちはこの世界を担う大人としてどう次世代の子供を助けていけるでしょうか。
 

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